「宙を泳ぐ水族館と、箱庭の神様の身代金」
週末世界の土曜日の午後は、どこまでも静かで、そしてひどく狂っていた。
先ほどのショッピングモールでの戦闘から離脱した二人は、ポチの背に揺られ、街の郊外に位置する巨大なテーマパーク跡地へと辿り着いていた。
その中心にある巨大なドーム型の水族館が、今回の仮の隠れ家である。
水族館の内部は、幻想的という言葉すら陳腐に思えるほどの異常な光景が広がっていた。
巨大な水槽のガラスはとうの昔に砕け散っているにもかかわらず、水は外に溢れ出すことなく、無重力空間に浮かぶ巨大な水球のように宙を漂っている。
そしてその水球の中や、空気中を直接泳ぐようにして、色鮮やかな熱帯魚や銀色に光る魚群、さらには巨大なジンベエザメまでもが、赤紫色の光が差し込むドーム内を悠然と回遊していた。
「わぁ……綺麗……」
空を泳ぐマンタの腹を見上げながら、天海結衣は感嘆の声を漏らした。
彼女の隣では、巨大なもふもふの獣であるポチが、宙を泳ぐ魚を不思議そうに目で追いかけ、時折『カプッ』と空振りの噛みつきをしては、首を傾げている。
その愛らしい仕草に、結衣はふふっと笑い声をこぼした。
「おい、あまりはしゃぐな。ここもいつ教団に嗅ぎつけられるか分からんぞ」
観客用のベンチにどっかりと腰を下ろした灰原志乃は、くたびれたトレンチコートのポケットから新しいストロベリーキャンディを取り出し、包装紙を破りながら気怠げに言った。
先ほどの戦闘の疲労が、三十八歳の身体には色濃く圧しかかっている。
肉体的な疲労よりも、精神的な摩耗のほうが深刻だった。
幻影とはいえ、かつて死なせてしまった相棒の姿を見せられたこと。
そして何より、結衣が自分のために殺人を犯そうとしたこと。
あの一瞬、結衣の瞳に宿っていた純粋すぎる狂気と殺意を思い出すと、今でも志乃の背筋に冷たい汗が伝う。
「……すみません、志乃さん。私、つい浮かれてしまって」
結衣は慌ててポチから離れ、志乃の隣にちょこんと座った。
その顔は、先ほど敵を消し炭にしようとしていた冷酷な少女とは別人のように、ただのあどけない女子中学生のものだった。
「志乃さんと一緒に、こういう場所に来るのが夢だったんです。水族館とか、遊園地とか、普通の女の子が当たり前に行くような場所に」
結衣は宙を舞う魚の群れから視線を外し、自分の膝の上に置いた両手をじっと見つめた。
「私は教団の地下深くにある、真っ白な部屋でずっと育ちました。信者の人たちは、私を『奇跡の器』と呼んで、毎日祈りを捧げに来ました。でも、誰も私の名前を呼んでくれませんでした。私が何を好きで、何を怖いと思っているか、誰も興味がなかったんです。ただ、教団の教義を成就させるための『都合のいい神様の部品』としてしか見られていなかった」
結衣の声は淡々としていて、そこに悲壮感はない。
ただ事実を述べているだけだった。
それが逆に、彼女がいかに歪な環境で人格を形成されてきたかを如実に物語っていた。
「七年前、初めて教団の儀式に引き出されて、痛くて、苦しくて、もうダメだと思った時。……志乃さんが、天井をぶち破って助けに来てくれましたよね」
結衣はふわりと微笑み、志乃の顔を覗き込んだ。
「あの時、志乃さんは私を抱き上げて、こう言ってくれたんです。『よく頑張ったな、結衣』って。私の名前を、ちゃんと人として呼んでくれた。私を、ただの子供として助けようとしてくれた。……その瞬間に、私の世界は志乃さんだけのものになったんです」
だから、志乃が望むなら何だってする。
志乃が世界を救えと言うなら救うし、志乃が手を汚すなと泣くなら、絶対に誰も殺さない。
結衣の根底にあるのは、あまりにも重く、盲目的で、救いようのない依存と崇拝だった。
自分の価値を自分では一切認められず、ただ「志乃に必要とされること」だけが存在理由になっている。
「……お前なぁ」
志乃はキャンディの棒をガリッと噛み砕いた。
胸の奥がチクチクと痛む。
結衣をこんな風に歪ませてしまった原因の一端は、間違いなく自分にある。
あの時、相棒を失った絶望から、助け出した結衣を児童相談所の前に置き去りにして逃げてしまった。
あのまま彼女の親代わりになる覚悟を持てていれば、こんな狂った中学生には育っていなかったはずなのだ。
(私が……責任を取らなきゃいけないんだ。この重すぎるバカガキの)
志乃が深く息を吸い込み、何かを言いかけようとした、その時だった。
――ピキッ、ピキキキキキッ!!
空間そのものに亀裂が入るような、嫌な音が水族館ドーム内に響き渡った。
次の瞬間、宙を優雅に泳いでいた魚たちが、見えない巨大な力に押し潰されたかのように、一斉に赤紫色の光の粒子となって弾け飛んだ。
無重力で浮かんでいた巨大な水球が、バシャァァァン!! と凄まじい轟音を立てて床に叩きつけられる。
物理法則の異常が強制的に解除され、週末世界の空間が『別のルール』によって書き換えられようとしていた。
「チッ……! 教団の連中か! 結衣、ポチの傍を離れるな!」
志乃が弾かれたように立ち上がり、両手に『空間歪曲』の力を込めて身構える。
ドームの入り口から、足音ひとつ立てずに歩み入ってくる人影があった。
「相変わらず、犬のように逃げ回るのが得意なようだな、灰原志乃」
現れたのは、純白の豪奢な法衣を纏った初老の男だった。
白髪を後ろで束ね、手には黒曜石でできた長い杖を握っている。
その両目は布で固く覆われているが、周囲の状況を完全に把握しているかのように、真っ直ぐに結衣と志乃の方へ顔を向けた。
「……大司教、『天眼』のバアルか。幹部が直接お出ましかよ」
志乃の顔が険しくなる。教団『星の導き』の実質的なトップであり、この週末世界の固定化計画を主導している男だ。
バアルが手にした黒曜石の杖を、コツン、と床に突き立てた。
ただそれだけで、水族館のドーム全体を、圧倒的な重圧が包み込んだ。
空気が鉛のように重くなり、呼吸をすることすら困難になる。
ポチが低い唸り声を上げながら床に伏せ、結衣も苦しそうに胸を押さえて膝をついた。
「我らが教団の『アンカー』をひとつ破壊したこと、大いに褒めてやろう。だが、些末な時間稼ぎにすぎん。聖女よ、無駄な逃避行は終わりだ。お前という至高の器を以て、この世界を永遠のものとする」
バアルが杖を振るうと、水族館の床のコンクリートが波打つように変形し、巨大な石の腕となって志乃へと襲い掛かった。
「舐めんなッ!」
志乃が右手を突き出し、襲い来る石の腕の直前の空間を圧縮し、不可視の障壁を展開する。
しかし、大司教の力は桁違いだった。障壁はガラスが割れるようにあっさりと粉砕され、石の腕が志乃の腹部に直撃した。
「ぐはッ……!」
肺から空気が弾き出され、志乃の身体が十メートル以上後方へ吹き飛ばされる。壁に激突し、崩れ落ちた瓦礫の下敷きとなった。
「志乃さんッ!!」
結衣が悲鳴を上げて駆け寄ろうとするが、バアルの能力である見えない重圧が彼女の身体を床に縫い付ける。
「おとなしくしろ、聖女よ。お前を傷つけるつもりはない。我々に必要なのは、お前のその莫大な自己犠牲の精神と力だけだ」
バアルはゆっくりと結衣に近づき、その足元で見下ろした。
「だが、あの小汚い女は別だ。我らの教義を汚す害虫は、ここで完全に駆除する」
バアルが杖の先を、瓦礫に埋もれて動けない志乃へと向けた。
杖の先端から、どす黒い光線のようなエネルギーが収束していく。
それが放たれれば、志乃は瓦礫ごと空間から削り取られてしまうだろう。
「やめ、て……」
結衣が必死に腕を伸ばすが、重圧で指先しか動かせない。
殺したい。この男を今すぐ消し炭にしてやりたい。結衣の胸の奥で、再び強烈な光の力が暴発しかける。
しかし、結衣の脳裏に、先ほどの志乃の涙がフラッシュバックした。
『頼むから……これ以上、私のために手を汚そうとするな』
志乃は泣いて頼んだのだ。自分のために人殺しにならないでくれと。
神様との誓い。それは、結衣にとって何よりも重い絶対のルールだった。
敵を殺してはいけない。でも、このままでは志乃が殺されてしまう。
狂信的な中学生の脳内で、極端すぎる二択が高速で処理され、そして導き出された『答え』は一つしかなかった。
「……待って」
結衣は、血を吐くような声で絞り出した。
彼女の身体から、抵抗の意志である純白の光がふっと消え失せる。
「待ってください……。おとなしく、教団に戻ります。あなたたちの言う通り、アンカーの動力にも、儀式の生贄にも、なんでもなります。……だから、志乃さんだけは見逃して」
それは、究極の自己犠牲だった。
自分が地獄に戻ることで、愛する神様の命を買う。結衣の顔には、絶望ではなく、志乃を守れるという歪んだ安堵の笑みすら浮かんでいた。
「ほう。我らに帰依するか」
「はい。私のすべてを捧げます。だから、彼女には指一本触れないで」
バアルは満足げに頷き、杖を下ろした。志乃を狙っていた黒いエネルギーが霧散する。
結衣を縛り付けていた重圧が解かれ、彼女はゆっくりと立ち上がった。振り返り、瓦礫の下で意識を朦朧とさせている志乃に、優しく微笑みかける。
「志乃さん。助けてくれて、ありがとうございました。私、志乃さんに拾ってもらえて、一緒にご飯を食べられて……本当に、本当に幸せでした」
まるで、今生の別れのような言葉。
結衣はバアルの方へと歩み寄り、差し出された手を取ろうとした。
「……ふ、ざけ、るな」
瓦礫の中から、掠れた、しかし怒りに満ちた声が響いた。
結衣とバアルが視線を向ける。
瓦礫を押し除け、血の混じった唾を吐き捨てながら、灰原志乃が立ち上がっていた。トレンチコートは破れ、額からは一筋の血が流れているが、その双眸はかつてないほどの鋭い光を放って、結衣を真っ直ぐに睨みつけていた。
「志乃、さん……ダメです、動かないで……!」
「黙れ、クソガキ」
志乃はよろめきながらも、一歩、また一歩と前へ出る。
その身体から、バチバチと空間を歪ませる火花のような異能の力が漏れ出していた。
「私の命を、お前の自己犠牲で買うな。そんな安っぽい取引で、私が喜ぶとでも思ったのか……ッ!」
「でも、そうしなければ志乃さんが殺されちゃう! 私は、志乃さんが生きているなら、教団の道具になったって構わない!」
「私が構うんだよッ!!」
志乃の絶叫が、水族館のドームをビリビリと震わせた。
バアルの重圧が再び志乃を襲うが、志乃は自身の周囲の空間を極限まで圧縮し、重圧を相殺しながら強引に歩を進める。
その代償として、彼女の全身の毛細血管が悲鳴を上げ、皮膚に痛々しい赤みが差していく。
「お前は、私に手を汚すなと言われたから、自分が犠牲になる道を選んだ。……本当に、どこまでも重たくて、面倒で、最高にムカつくガキだ」
志乃は苦痛に顔を歪めながらも、ニヤリと凶悪に笑った。
「私が過去から逃げて、お前を置き去りにした罰がこれなら、上等だ。……お前のそのクソ重たい命も、感情も、全部私が背負ってやる。だから――教団なんかに、コイツは絶対に渡さねぇ!!」
志乃が両手を大きく広げた。
それは、七年前に相棒を死なせて以来、彼女が己の心とともに封印してきた『最大出力』の空間歪曲。
志乃の覚悟に呼応するように、伏せていた巨大な獣――ポチが『ウォォォォンッ!!』と咆哮を上げ、志乃の足元から莫大なエネルギーを注ぎ込み始めた。
結衣の目は、驚愕で見開かれていた。
自分を置いて逃げろと言っているのに。自分が身代わりになると言っているのに。
満身創痍の神様は、泥だらけになりながら、それでも結衣を取り戻すために限界を超えようとしている。
(ああ……)
結衣の胸の奥で、これまでとは違う、熱く激しい感情が爆発した。
盲目的な崇拝だけではない。志乃の痛みも、怒りも、後悔も、すべてを分かち合いたいという、真の『共鳴』。
「ポチ! 結衣! 伏せろッ!!」
志乃の叫びとともに、彼女の両手から放たれた極大の空間歪曲が、水族館のドーム全体を内側から食い破るように膨張し始めた。
歪な同性バディの、本当の反撃が、今始まろうとしていた。




