「歪んだ朝焼けと、神様を冒涜する者への鉄槌」
週末世界の朝は、奇妙な静寂とともに訪れる。
本来であれば土曜日の爽やかな朝日が昇るはずの時刻。
しかし、窓の外に広がるのは、インクをぶちまけたような濃密な赤紫色と、毒々しい群青色がマーブル状に混ざり合った異様な空だった。
重力異常で逆さまに降る雨が、レトロな洋館の窓ガラスをチリチリと叩いている。
「……ん、あー……頭痛ぇ」
灰原志乃は、アジトである映画館の支配人室のソファで、気怠げに身を起こした。
昨夜の戦闘の疲労からか、トレンチコートを掛け布団代わりに眠りこけていたらしい。
首の裏をガシガシと掻きながら目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「おはようございます、志乃さん! よく眠れましたか?」
純白のエプロン(どこから見つけてきたのか、フリルのついたメイド風のものだ)を身につけた天海結衣が、満面の笑みで立っていた。
支配人室のテーブルの上には、アジトに備蓄されていたはずの缶詰やレトルト食品が、ホテルのビュッフェのように美しく盛り付けられている。
コンロからは淹れたてのコーヒーの香りが漂い、部屋の隅では巨大な白い獣――ポチが、ブラッシングされてツヤツヤになった毛並みを揺らしながら、満足げに尻尾を振っていた。
「……お前、勝手に動き回るなと昨日言ったはずだが」
「はい! 外には一歩も出ていませんし、志乃さんの私物には触れていません。ただ、神様が起きられた時に少しでも快適に過ごせるよう、空間を整えさせていただいただけです!」
結衣は胸を張り、一切の悪びれる様子もなく答えた。
その純度百パーセントの善意と崇拝の眼差しを向けられ、志乃は朝から深い深いため息をつく羽目になった。
昨夜、命を投げ出そうとした結衣を本気で怒鳴りつけたというのに、この少女の心には『志乃が自分を心配してくれた』という歪んだ喜びしか残っていないのだ。
「神様って呼ぶな。私はただの薄汚れたおばさんだ」
「私にとっては神様です。さあ、志乃さん。コーヒーが冷めないうちにどうぞ。お食事のお世話も私が――」
「手と足はついてる。自分で食う」
志乃は結衣の過剰な世話焼きを片手で制し、ブラックコーヒーを喉に流し込んだ。
熱い液体が胃に落ちていくのを感じながら、頭を切り替える。
昨夜、教団の追手である『フィルムの蛇』がこのアジトを襲撃してきた。
結衣の放った強烈な光の結界によって退けたものの、教団側にこの場所の座標が割れたのは間違いない。
月曜の朝までここに籠城するのは、現実的に不可能となっていた。
「結衣、飯を食ったら出かけるぞ」
「はい! 志乃さんとデートですね!」
「……討ち入りだよ。教団の連中が週末世界を現実に固定化しようとしてるって話、昨日しただろ」
志乃はテーブルの上の備蓄食料を適当に口に放り込みながら、作戦を告げる。
「連中は街のあちこちに、週末世界を繋ぎ止めるための『楔』を打ち込んでいる。結衣、お前という最大の動力が手に入らない今、連中はサブのアンカーを使って強引に世界を固定しようとするはずだ。こっちから打って出て、そのアンカーをぶっ壊す」
防戦一方では、いずれジリ貧になる。それならば、教団の計画そのものを物理的に頓挫させるのが一番手っ取り早い。
それに、結衣をずっとアジトに閉じ込めておくのは、精神的にも危険だと志乃は判断していた。
志乃の言葉を聞いた結衣は、フォークを置き、真剣な瞳で頷いた。
「分かりました。志乃さんが壊せと言うなら、私はすべてを壊します。志乃さんの敵は、私の敵ですから」
その淀みのない従順さに、志乃は背筋が薄ら寒くなるのを感じた。
結衣には、「世界を救う」とか「一般人を守る」といった大義名分が一切ないのだ。
彼女の行動原理はただ一つ、『志乃が望むから』。それだけだ。
その危うすぎる刃をどう扱えばいいのか、志乃はまだ答えを見出せずにいた。
赤紫色の空の下、ポチの背中に乗った二人は、重力異常で歪んだ巨大なショッピングモールへと辿り着いた。
本来であれば休日の買い物客で賑わうはずの場所だが、週末世界においては無機質なコンクリートの迷宮と化している。
エスカレーターは捻じ曲がり、ショーウィンドウの中のマネキンは空中に浮遊していた。
その吹き抜けの中央広場に、教団の『アンカー』は存在した。
瓦礫や鉄骨が竜巻のように渦を巻き、禍々しい黒曜石のような巨大な塔を形成している。
その周囲には、歪な星のマークを刻んだ白装束を纏う、数人の教団兵が警護に当たっていた。
「ビンゴだ。ポチ、上から強襲するぞ」
『ガウッ!』
ポチが三階の通路から広場に向かって跳躍する。
巨大なもふもふの獣が宙を舞うと同時に、志乃は右手を振り下ろした。
彼女の超能力『空間の歪曲』が発動し、教団兵たちの足元の空間がグニャリと捻じ曲がる。
「な、なんだ!?」
「うわぁぁっ!」
足場を失った教団兵たちが、悲鳴を上げて転倒する。
そこへポチが巨体を着地させ、衝撃波だけで彼らを壁際まで吹き飛ばし、気絶させた。
流血はない。ただ圧倒的な暴力によって無力化する。
志乃と結衣はポチの背から降り立ち、黒曜石の塔――アンカーへと歩み寄った。
「案外あっけなかったですね、志乃さん」
「……いや、気を抜くな。この規模のアンカーを、下っ端だけで守護しているはずがない」
志乃が警戒を強めたその時。
アンカーの背後から、コツ、コツ、と静かなヒールの音が響き渡った。
「相変わらず、野蛮な戦い方をするのね。灰原志乃」
現れたのは、喪服のような漆黒のドレスに身を包んだ、痩身の女だった。
顔の半分をベールで隠しているが、その声色には、志乃の過去を深く抉るような嫌悪と嘲笑が混じっていた。
「お前は……教団の司教、『幻影』のカルラか」
「ええ。あなたが七年前、己の無力さで大切な相棒を死なせた時から、ずっとお久しぶりね」
カルラの言葉に、志乃の肩がビクッと跳ねた。
口に咥えていたキャンディの棒が、ギリッと音を立てて折れる。
「……結衣の前で、その話をするな」
「あら、どうして? この『聖女様』は知るべきでしょう? 自分が信奉しているその女が、どれほど無様で、臆病で、仲間を見殺しにした最低の人間かってことをね」
カルラが両手を広げると、彼女の足元から色鮮やかな蜃気楼のような霧が立ち込めた。
彼女の能力『精神幻影』だ。相手のトラウマや記憶を具現化し、精神を崩壊させる悪辣な力。
霧の中から、ひとりの女性の幻影が浮かび上がる。
それは、七年前に死んだ志乃の相棒の姿だった。
胸から血を流し、虚ろな瞳で志乃を見つめている。
『どうして……私を助けてくれなかったの、志乃……』
「ッ……!」
志乃の呼吸が浅くなり、空間を歪曲させようと構えた右手がガタガタと震え始めた。
幻影だと分かっている。これはカルラの能力だ。頭では理解していても、心臓を鷲掴みにされたような強烈な罪悪感が、志乃の動きを完全に縛り付けてしまった。
「さあ、見なさい聖女様! これがあなたの神様の正体よ。ただの薄汚れた、人殺しの敗北者――」
カルラが勝ち誇ったように結衣へと視線を向けた、次の瞬間。
彼女の嘲笑は、喉の奥で凍りついた。
「……え?」
結衣は、怯えるでもなく、絶望するでもなく。
ただ、氷のように冷たく、一切の感情を排した無機質な瞳で、カルラを見据えていた。
「それが、どうしたの?」
結衣の声は、先ほどまで志乃に向けていた甘ったるいものとは完全に別人だった。
地を這うような、背筋が凍るほどの絶対零度の怒り。
「志乃さんが誰を見殺しにしたとか、どんな過去があるとか、そんなことはどうでもいい。私の神様は志乃さんだけ。私が許せないのは……」
結衣が一歩、前へ出る。
その瞬間、ショッピングモールの空間全体が、ミシリと音を立てて軋んだ。
空気を震わせるような莫大なエネルギーが、小柄な中学生の身体からあふれ出し、純白の光となって周囲を包み込み始める。
昨夜の防衛的な結界とは違う。
明確な『殺意』を持った、攻撃的な光の奔流。
「私のだいすきな志乃さんを、そんな偽物で悲しませたことだ」
結衣の瞳孔が開き、狂信的な光が宿る。
「消えろ。お前みたいなゴミが、志乃さんの過去を語るな」
カァァァァンッ!!
教会の鐘のような音が鳴り響き、結衣の体から放たれた極光が、カルラの生み出した幻影を一瞬にして蒸発させた。
それだけではない。光は熱を持った衝撃波となり、周囲のコンクリートを粉砕し、黒曜石のアンカーにまでひびを入れていく。
「な、なんだこの力は……!? ひっ、や、やめ――!」
カルラが悲鳴を上げ、幻影の霧で身を守ろうとするが、結衣の放つ圧倒的な光の前では紙切れ同然だった。
結衣はゆっくりと右手を持ち上げる。
その小さな手のひらに、ショッピングモールを丸ごと消し飛ばすほどの莫大な光が収束していく。
彼女は本気で、この空間ごとカルラを『消滅』させるつもりだった。
「だめだ……結衣、やめろッ!!」
震縛から解き放たれた志乃が、血を吐くような叫び声を上げた。
志乃は自身の能力『空間歪曲』を足元に放ち、その反動を利用して砲弾のように結衣へと飛び込んだ。
ドンッ、という鈍い音とともに、志乃は結衣を床に押し倒した。
収束しかけていた光が天井に向かって暴発し、ショッピングモールのドーム型の屋根を綺麗に吹き飛ばした。
赤紫色の空から、瓦礫がパラパラと降り注ぐ。
「……し、の、さん?」
床に組み敷かれた結衣が、目を丸くして志乃を見上げた。
志乃は結衣の細い両腕を強く押さえつけながら、荒い息を吐いていた。
その瞳には、かつてないほどの怒りと、そして深い悲哀が浮かんでいた。
「お前……本気で、あいつを殺すつもりだったのか……ッ」
「だって、あいつが志乃さんを傷つけたから! 志乃さんを愚弄する奴は、私が全員殺して、消し炭にして――」
「ふざけるなッ!!」
志乃の怒声が、静まり返った廃墟に響き渡った。
結衣の頬を打つつもりで振り上げた手は、空中でピタリと止まり、そのまま力なく結衣の肩へと落ちた。
志乃は、震える手で結衣の小さな体を抱きしめた。
「頼むから……これ以上、私のために手を汚そうとするな」
志乃の声は、泣いているように震えていた。
「私の過去は、私が背負う罪だ。お前が怒る必要なんかない。お前みたいな無垢な子供が、私みたいな薄汚れた大人のために、人殺しになんて絶対になっちゃ駄目なんだ……ッ!」
結衣の胸に、ポタリ、と熱い雫が落ちた。
志乃の涙だった。
誰よりも強くて、誰よりも格好いい、結衣の神様。
その彼女が、自分のために泣いて、震えながら抱きしめてくれている。
結衣はゆっくりと目を閉じ、志乃の背中に腕を回した。
カルラへの怒りなど、すでにどうでもよくなっていた。
結衣の脳内は、志乃の体温と、志乃の涙と、志乃の不器用な愛情で満たされ、とろけるような幸福感に支配されていた。
(ああ……やっぱり、志乃さんは私の神様だ)
志乃は「手を汚すな」と言った。
自分のために悪に染まることを、泣いて止めてくれた。
ならば、結衣は絶対に人を殺さない。
志乃が望むなら、どれほど憎い敵であっても命だけは奪わない。
それは倫理観からくるものではなく、純粋な『志乃への信仰』による誓いだった。
「ごめんなさい、志乃さん。もうしません。……だから、泣かないで」
結衣は狂気的なまでの愛情を隠し、ただ純真な少女の声でそう囁いた。
志乃は無言のまま、結衣の体をさらに強く抱きしめる。
一方、壁際で気絶しているカルラの横では、巨大な獣であるポチが、ひび割れた黒曜石のアンカーをバリバリとおやつ感覚で噛み砕いていた。
教団の計画の一つが、こうしてあっけなく潰えた。
互いの感情の矢印が、あまりにも巨大で、あまりにも歪にすれ違っている。
志乃の抱える『後悔からくる庇護欲』と、結衣の抱える『すべてを捧げる盲目的な崇拝』。
二人の因縁のバディは、その重すぎる天秤を揺らしながら、週末世界の終わりへと向かって歩みを進めていく。




