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「ささやかな隠れ家と、重すぎる献身の天秤」

赤紫色の空を縫うように、巨大な白い獣が宙を駆けていく。


 週末世界――現実の物理法則が意味を成さないこの狂った空間では、巨大な犬が空を飛ぶことすら些細なバグの一つに過ぎない。


 天海結衣は、サモエドに似た巨大な獣『ポチ』のフワフワとした背中にしがみつきながら、眼下に広がる異様な光景を見下ろしていた。


 宙に浮かぶ高層ビル群、ひび割れたアスファルトから逆流する青白い滝、そして、深い眠りにつき静まり返った街並み。


現実世界では決して見ることのできないその幻想的な景色の中で、結衣の意識はただ一点、自分の前に座る女性の背中だけに向いていた。


 灰原志乃。三十八歳。


 くたびれたカーキ色のトレンチコートの背中は、結衣の記憶の中にある七年前の姿と少しも変わっていない。


風になびく無造作な黒髪からは、微かに煙草のような、そして甘いストロベリーキャンディの匂いがした。


(ああっ……本当に、本物の志乃さんだ……)


 結衣はポチの毛並みに顔を埋めながら、熱を帯びた吐息を漏らした。


 胸の奥がギュッと締め付けられ、甘い痺れが指先まで広がっていく。


七年間、片時も忘れたことのなかった恩人。


自分をカルト教団『星の導き』の狂気から救い出してくれた、たった一人の神様。


 その後ろ姿を見つめているだけで、結衣の目からはポロポロと涙がこぼれ落ちそうになる。


今すぐその背中に抱きついて、自分のすべてを捧げたいという強烈な衝動を、結衣は必死に噛み殺していた。


 今はまだ駄目だ。彼女に「面倒なガキ」だと見捨てられないように、賢くて役に立つ犬でいなければならないのだから。


「……おい、ガキ。着いたぞ。舌を噛まないように掴まってろ」


 不意に志乃が振り返り、気怠げな声で告げた。


 ポチが緩やかに高度を下げていく。


向かった先は、宙に浮かぶ建造物群の端にある、古びたレンガ造りの洋館だった。


現実世界ではとうの昔に廃業したレトロな単館映画館なのだが、週末世界では志乃の意志によって補強され、彼女のアジトとして機能しているらしい。


 ポチが屋上のテラスに音もなく着地する。


志乃は軽やかな動きで飛び降りると、トレンチコートのポケットから古びた真鍮の鍵を取り出した。


「月曜の朝まではここに置いてやる。だが、私のルールには絶対に従え。勝手に外に出るな。私の持ち物に触るな。それから――」


 志乃は鋭い視線で結衣を射抜いた。


「私の前で、二度と『死ぬ』だの『命を捧げる』だのと言うな。胸糞が悪い」


 その声には、単なる怒りではない、深く暗い嫌悪が混じっていた。


 結衣は一瞬だけ息を呑んだが、すぐにパァッと花が咲くような笑みを浮かべた。


「はいっ! 志乃さんがそう言うなら、私は絶対に死にません! 志乃さんのためだけに生きて、志乃さんのためだけに息をします!」


「……そういう極端な思考回路を直せと言ってるんだがな。まあいい、入れ」


 志乃は呆れたように大きなため息をつき、重い鉄扉を開けた。


 アジトの内部は、かつての映画館の支配人室を改装したような空間だった。


 壁には色褪せた映画のポスターが貼られ、部屋の中央には年季の入った革張りのソファが置かれている。


しかし、部屋全体には空き缶やキャンディの包み紙が散乱し、お世辞にも片付いているとは言えなかった。


三十代独身女性の、やさぐれた生活感がこれでもかと滲み出ている。


「適当に座ってろ。冷蔵庫にコーラくらいならある」


 志乃はコートを脱ぎ捨てると、ドカッとソファに腰を下ろし、新しいストロベリーキャンディの包み紙を破った。


ポチは部屋の隅にある大きなクッションに丸くなり、すぐにスヤスヤと寝息を立て始める。


 結衣は部屋の中をぐるりと見渡すと、目を輝かせた。


「志乃さん! 私、お掃除します!」


「は? いや、いい。触るなって言っただろ」


「駄目です! 志乃さんのような尊いお方が、こんな埃っぽい空間で過ごされるなんて、私の信仰心が許しません! 今すぐピカピカにしますから、休んでいてください!」


 結衣はリュックを放り投げると、部屋の隅にあった箒とちりとりを手に取り、猛烈な勢いで掃除を始めた。


その動きは迷いがなく、ただひたすらに「愛する志乃の空間を浄化する」という狂気じみた執念に満ちていた。


 空き缶を分別し、床を掃き、持参していたウェットティッシュでテーブルの上を磨き上げる。


中学生の少女が放つ異様な熱量に、志乃は口に咥えたキャンディの棒をカチカチと噛みながら、深い疲労感を覚えていた。


(……なんだってこんな重たい爆弾を、拾っちまったんだ)


 志乃の脳裏に、七年前の光景がフラッシュバックする。


 教団の地下祭壇。


生贄として寝かされていた小さな少女。


 あの時、志乃には相棒がいた。


正義感に溢れ、誰よりも優しかった親友。


彼女は結衣を助け出すために無茶をし、教団の罠に掛かって、志乃の目の前で帰らぬ人となったのだ。


 結衣の命は、志乃の半身と引き換えに救われた命だった。


『私を、あなたのものにしてください』


 先ほどの屋上での結衣の言葉が、耳の奥で反響する。


 志乃は無垢な自己犠牲が嫌いだ。


誰かのために命を投げ出すなどという傲慢な感情が、どれほど残された者を縛り付け、地獄を見せるか、骨の髄まで知っているからだ。


「……おい、結衣とか言ったな。掃除はもういい。そこに座れ」


 志乃が低く凄みのある声で命じると、結衣はビクッと肩を揺らし、即座に箒を置いてソファの向かい側に正座した。


床に直に座ろうとしたため、志乃は慌てて「ソファに座れ」と指示し直した。


「いいか。お前が私をどう思っていようが勝手だが、私はお前の神様でもヒーローでもない。ただの薄汚れたおばさんだ」


「そんなことありません! 志乃さんは誰よりも美しくて、強くて――」


「口を挟むな」


 志乃の冷たい一瞥に、結衣は口をキュッと結んだ。


「教団の連中が、なんでお前をそこまで執拗に追うのか、分かってるのか?」


「……私が、『奇跡の器』だから、ですか?」


「ああ。連中の目的は、この狂った『週末世界』を現実世界に完全に固定化することだ。月曜日を永遠に消し去り、自分たち超能力者(エスパ―)だけが支配する終わらない終末を作る。その莫大なエネルギーを固定するためのアンカーとして、教祖の血を引き、異常な潜在能力を秘めたお前が必要なんだ」


 志乃は結衣の目を真っ直ぐに見据えた。


「お前が連中に捕まれば、世界は終わる。何億という人間が、月曜日の朝を迎えられずに死ぬことになるんだ。分かってるのか、その重さが」


 志乃は、結衣が恐れおののくことを期待していた。


中学生の少女には重すぎる世界の危機。


それに怯え、泣き言を言ってくれれば、まだ普通の子供として扱えた。


 しかし、結衣の反応は、志乃の予想を遥かに超えるほど歪んでいた。


 結衣は少しだけ首を傾げ、澄み切った瞳で微笑んだのだ。


「それが、どうしたんですか?」


「……は?」


「世界が終わっても、何億人が死んでも、私には関係ありません。月曜日なんて来なくたっていい。だって、この週末世界にしか、志乃さんはいないじゃないですか」


 結衣は熱に浮かされたように身を乗り出し、頬を紅潮させた。


「私にとっての世界は、志乃さんだけです。もし教団の連中が志乃さんを傷つけようとするなら、私は喜んで彼らを殺しますし、この力を使って世界ごと滅ぼします。でも、志乃さんが世界を救えと言うなら、私はどんな犠牲を払ってでも世界を救います」


 狂信。


 その言葉以外に、結衣の感情を説明する術はなかった。


 純度百パーセントの悪意のない愛情が、刃物のように鋭く志乃の心臓を抉る。


 志乃は背筋に冷たいものが走るのを感じた。


この少女は、根本的に何かが壊れている。


教団の異常な環境で育った影響か、それとも七年前の事件が彼女の心を歪めてしまったのか。


「……お前、本気で――」


 志乃が言葉を紡ごうとした、その瞬間だった。


 ジジジジッ……!!


 突如、部屋の空気がひび割れるような耳障りなノイズが鳴り響いた。


 壁に掛けられていた古い映画のスクリーンが勝手に巻き下り、そこからまばばゆいほどのノイズ光が放たれる。


眠っていたポチが弾かれたように起き上がり、低い唸り声を上げた。


「な、なんですかこれ……!」


 結衣が身構える。志乃は舌打ちをし、ソファから立ち上がった。


「チッ……『星の導き』の連中か。結衣の固有波長を追ってきやがったな。しつこいストーカーどもめ」


 スクリーンのノイズの中から、ぬちゃり、という不快な音を立てて何かが這い出してきた。


 それは、古いフィルムテープが幾重にも絡み合って形成された、巨大な『蛇』だった。


フィルムには、無数の人間の苦しむ顔がコマ送りで焼き付いている。


超常現象と陰謀が入り混じる週末世界において、教団の幹部クラスが使役する悪趣味な能力(アーツ)だ。


『見ツケタゾ……聖女ヨ……我ラガ世界ノ礎トナレ……』


 フィルムの蛇が、スクリーンから鎌首をもたげ、結衣に向かって一直線に飛び掛かってきた。


「結衣、下がってろ!」


 志乃が右手を前に突き出す。


 彼女の能力は『空間の歪曲』。


手のひらの前の空間を圧縮し、見えない分厚い防弾ガラスのような障壁を作り出す。


 フィルムの蛇が障壁に激突し、バキバキと音を立ててひび割れるが、蛇の数は一匹ではなかった。


スクリーンから次々と新しい蛇が這い出し、部屋中の壁や天井を這い回って志乃たちを取り囲む。


「数が多すぎるな……ポチ、食っちまえ!」


『ガウッ!』


 巨大な白い獣が跳躍し、空中でフィルムの蛇に噛みついた。


ポチの牙は週末世界のバグである能力そのものを喰らい、物理的に引きちぎっていく。


 だが、その乱戦の最中。


 一匹の細いフィルムの蛇が、死角である天井のシャンデリアを伝い、志乃の背後からその首元へと鋭く牙を剥いた。


「志乃さんッ!!」


 志乃が気づいた時には遅かった。回避は間に合わない。


 ――しかし、その時。


 志乃の視界の端で、小さな人影が弾かれたように飛び出してきた。


結衣だった。


 彼女は一切の躊躇なく、志乃と蛇の間に身を投げ出したのだ。


自分の命を盾にしてでも、志乃を守るために。


「やめろッ、結衣!!」


 志乃の絶叫が部屋に響く。


 かつての相棒が死んだ瞬間の記憶が、鮮明に蘇る。まただ。また私のせいで、誰かが目の前で死ぬ。


 しかし、蛇の牙が結衣の華奢な体に突き刺さる直前。


 ――カァァァァンッ!!


 教会の鐘を鳴らしたような、清冽で暴力的なまでの『音』が響き渡り、結衣の体からまばゆいほどの純白の光が放射された。


 光は半球状の強固な結界となり、襲い掛かったフィルムの蛇を蒸発させるように消滅させた。


そればかりか、光の波紋は部屋中に広がり、壁を這っていたすべての蛇たちを浄化の炎で焼き尽くしてしまった。


 圧倒的な、桁違いの超能力。


 これが、教団が彼女を『奇跡の器』と呼ぶ理由。結衣の中に眠る、強烈な信仰心と自己犠牲の精神が引き起こした奇跡の顕現だった。


 スクリーンが完全に沈黙し、部屋に静寂が戻る。


 光の結界が霧散し、結衣はその場にへたり込んだ。


初めて力を使った代償か、激しく肩で息をしている。


「……志乃、さん。怪我、してないですか……?」


 結衣は自分の無事よりも先ず、志乃の無事を確認しようと、縋るような視線を向けた。褒めてもらえる。役に立ったと言ってもらえる。そんな期待が顔に滲み出ていた。


 だが。


「……ふざけるな」


 志乃はゆっくりと歩み寄り、結衣の胸ぐらを両手で乱暴に掴み上げた。


「ひっ……!?」


「ふざけるなッ!! お前、今自分が何をしたか分かってるのか!? 一歩間違えれば、お前の体はあいつらに引き裂かれてたんだぞ!!」


 志乃の瞳には、怒りと、それ以上の強烈な恐怖が渦巻いていた。


 結衣の顔が間近に迫る。志乃の震える手が、結衣の衣服をギリギリと締め上げた。


「私のために命を投げ出すな! お前のその安っぽい自己犠牲で、私がどれだけ傷つくか考えたことがあるのか!? これ以上……私の目の前で、誰かが死ぬのを見せつけないでくれ……ッ!」


 最後は、ほとんど悲鳴のような響きだった。


 三十八歳の擦れた大人が、中学生の少女に対して露わにした、あまりにも無防備で弱々しい本音。


 怒鳴りつけられた結衣は、一瞬だけ目を丸くした。


 普通なら、怖がって泣き出すところだろう。理不尽に怒られたと反発するところだろう。


 しかし、結衣の胸を満たしたのは、まったく別の感情だった。


(……ああ。志乃さんが、私のために、こんなに必死になって怒ってくれている)


(私の命を、こんなにも惜しんでくれている)


 それは、彼女の狂った愛情に、さらなる薪を焚べる行為でしかなかった。


 結衣の頬は熱を帯び、とろけるような恍惚とした笑みがその唇に浮かぶ。


「ごめんなさい、志乃さん。私……志乃さんが悲しむなら、もう絶対に無茶はしません。大切にします。この体も、命も、すべて。志乃さんのものだから」


 結衣は、胸ぐらを掴む志乃の手に、自分の両手をそっと重ねた。


 その体温は恐ろしいほどに熱く、志乃は火傷をしたかのように手を離した。


 完全に、取り返しのつかない爆弾を抱え込んでしまった。


 志乃は後退りし、目の前で嬉しそうに微笑む少女を見下ろした。


 教団の陰謀よりも、週末世界の崩壊よりも。


この少女の抱える底なしの『クソデカ感情』こそが、志乃にとって最大の脅威になる。


 その予感は、金曜日の夜が更けていくにつれて、確信へと変わっていくのだった。

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