「金曜日の放課後、世界は反転してあなたに出会う」
金曜日の午後五時。
学校のスピーカーから流れる下校のチャイムが鳴り終わると同時に、街のあちこちに設置された防災無線から、地を這うような低いサイレンが鳴り響いた。
それは、日常の終わりと非日常の始まりを告げる合図だ。
「……始まった」
天海結衣は、誰もいなくなった中学校の屋上で、フェンス越しに夕焼け空を見上げていた。
彼女の視線の先で、オレンジ色に染まっていた空が、インクをこぼしたように毒々しい赤紫色へと反転していく。
アスファルトのひび割れからは青白い光が漏れ出し、遠くに見える高層ビル群が、重力を失ったかのように音もなく宙に浮き上がり始めた。
ここから先は『週末世界』。
金曜日の夕方から日曜日の夜にかけてだけ、現実世界を侵食して現れる超常的な空間。
物理法則は狂い、奇妙な現象が当たり前のように起きる異界だ。
普通の人間は週末世界に入ると一時的な眠りに落ち、月曜日の朝に何事もなかったように目を覚ます。
けれど、結衣の意識ははっきりとしていた。むしろ、この壊れた世界こそが、彼女にとっての「本番」だった。
「見つけたぞ、聖女様。こんなところに隠れておいでだったとは」
背後で、屋上の重い鉄扉が乱暴に開け放たれた。
振り返ると、季節外れの黒いコートを身にまとった三人の男たちが立っていた。彼らの胸元には、歪な星のマークが刺繍されている。
カルト教団『星の導き』の信者たちだ。
結衣は彼らにとって、教団の野望を成就させるための「奇跡の器」であり、絶対に逃がしてはならない獲物だった。
「おとなしく教団へ戻りましょう。あなたがいなければ、我々はこの『週末世界』を永遠のものにできない。さあ、大いなる計画のために」
「……お断りします。私は、あなたたちの道具じゃない」
結衣が一歩後ずさると、男たちの一人が冷たく笑い、手を前に突き出した。
次の瞬間、男の足元から伸びた真っ黒な影が、意思を持った蛇のように屋上の床を這い、結衣の足首に絡みついた。
「あっ……!」
影は実体を持った縄のように硬く、結衣の自由を奪う。
週末世界において、人間の持つ強い思い込みや信仰は『超能力』として顕現する。
彼らは教団の歪んだ教義を信じ切ることで、影を操る力を得ていた。
男たちがじりじりと距離を詰めてくる。
恐怖で足がすくむが、結衣の心は不思議と落ち着いていた。
――大丈夫。この週末世界に逃げ込めば、絶対に『あの人』に会えるはずだから。
「無駄な抵抗です。さあ、こちらへ――」
男が結衣の腕を掴もうとした、その時だった。
『――ウォォォォォンッ!!』
空気を震わせるような、深く、そして愛らしい遠吠えが赤紫色の空に響き渡った。
屋上の上空から、巨大な白い塊が降ってきた。
それは、軽自動車ほどもある巨大な犬――サモエドのようなフワフワの毛並みを持つ獣だった。
巨大なもふもふの獣は、結衣と男たちの間にドスンと着地すると、その豊かな尻尾をふわりと振って、男たちの影の能力をいとも簡単に打ち払ってしまった。
結衣の足首を縛っていた影が、霧のように散っていく。
「な、なんだこの化け物は!?」
「化け物とは失礼ね。うちのポチは世界一可愛い天使だろうが」
野太い男たちの悲鳴を遮るように、低く、少し掠れた女の声が降ってきた。
ポチと呼ばれた巨大な犬の背中から、一人の女性が軽やかに飛び降りる。
くたびれたカーキ色のトレンチコート。
無造作に束ねられた艶のない黒髪。
目元には疲労の色が濃く落ちているが、その瞳だけは宝石のように鋭く、冷たい光を放っている。
三十代後半――中学生の結衣から見れば立派な『おばさん』である彼女は、タバコの代わりに棒付きのストロベリー味のキャンディを気怠げに口で転がしていた。
「……週末世界の不法投棄に、未成年の誘拐未遂。教団の連中は相変わらず趣味が悪い」
女性がコートのポケットに両手を突っ込んだまま男たちを睨みつけると、空気がピシッと凍りついたような錯覚に陥った。
男たちは慌てて影の力を束ね、巨大な槍の形にして女性へと放った。
しかし、女性は避ける素振りすら見せない。
彼女が短く息を吐き、右手を軽く払う。
ただそれだけで、空間そのものがグニャリと歪んだ。
飛んできた影の槍は、見えない壁にぶつかったかのように弾け飛び、その衝撃波が男たちを襲った。
痛ましい流血や残酷な傷はない。
ただ、圧倒的な不可視の力によって、三人の男たちはゴム毬のように吹き飛ばされ、フェンスに激突して白目を剥いて気絶した。
ほんの数秒の出来事だった。
女性――灰原志乃は、気絶した男たちを一瞥すると、面倒くさそうにキャンディの棒を噛んだ。
そして、へたり込んでいる結衣の方へと振り返る。
「おい、ガキ。怪我はないか。立てるなら、さっさと家に帰れ。週末世界はお前みたいな子供がウロチョロしていい場所じゃ――」
「志乃……さん」
結衣は震える声で、その名前を呼んだ。
志乃の言葉がピタリと止まる。
彼女の鋭い瞳が、結衣の顔を真っ直ぐに射抜いた。
「お前……まさか、あの時の」
七年前。結衣がまだ幼かった頃、教団の恐ろしい儀式に捧げられそうになった時、たった一度だけ助け出してくれた人がいた。
それが目の前にいる女性、灰原志乃だった。
結衣にとって、志乃は命の恩人という生ぬるい言葉では表現できない存在だった。狂った世界の中で、唯一自分を見つけてくれた『神様』なのだ。
「ずっと……ずっと、探していました。金曜日の夕方が来るたびに、あなたに会えるかもしれないって、ずっとこの世界を歩き回って……!」
「馬鹿野郎!!」
志乃の怒声が屋上に響いた。
結衣の肩がビクッと跳ねる。
志乃は顔を歪め、吐き捨てるように言った。
「教団の連中に追われてるなら、おとなしく現実世界で身を隠してろ! なんでわざわざ危険な真似をして、こんなバグだらけの世界に出てきた!」
「だって、そうしなければ志乃さんに会えないから!」
結衣は立ち上がり、ふらつく足で志乃へと歩み寄った。
そして、彼女のトレンチコートの裾を、白くなるほど強く握りしめた。
「帰る家なんて、私にはありません。現実世界にも、教団にも、私の居場所はない。私の居場所は、あなたのお傍だけです」
「……気味が悪いこと言うな。私はお前の親でも保護者でもない。ただの、通りすがりの運び屋だ。あんたみたいな厄介なガキ、拾うわけないだろ」
志乃は冷たく言い放ち、結衣の手を振り払おうとした。
しかし、結衣は絶対に離さないとばかりにしがみつく。
その瞳には、狂信的なまでの無垢な光が宿っていた。
「私を、あなたのものにしてください」
「は……?」
「私の命も、心も、この力も、すべて志乃さんのために使ってください。あなたが望むなら、私は神様にだって悪魔にだってなります。だから――もう二度と、私を置いていかないで」
その言葉は、あまりにも重く、歪で、中学生の少女が口にするには異常だった。
自分のすべてを他人に委ねようとする、狂気じみた執着と崇拝。
志乃はその真っ直ぐすぎる瞳に射すくめられ、息を呑んだ。
かつて、自分が救えなかった少女の姿が、結衣に重なって見えたからだ。
(……重いんだよ。こういう無垢な感情が、一番人を縛り付けるんだ)
志乃は舌打ちをし、力任せに結衣を引き剥がそうとした。
しかし、その前に、巨大なもふもふの獣――ポチが二人の間に割って入ってきた。
ポチは結衣の顔をペロリと舐めると、志乃に向かって『クゥン』と甘えるような声を出す。
結衣はポチのフワフワの毛並みに顔を埋め、涙声で訴えかけた。
「お願いします……。私を、あなたの犬にしてください。ポチちゃんの次でいいから」
「……お前なぁ」
志乃は深々とため息をついた。キャンディの棒を噛み砕き、ガシガシと頭を掻く。
理屈で言えば、ここでこの少女を置いていくのが正解だ。
教団の聖女などに関われば、命がいくつあっても足りない。
しかし、志乃の心の奥底にこびりついた後悔が、彼女を置き去りにすることを許さなかった。
それに、この危うい少女を放置すれば、絶対にまた無茶をするのは目に見えていた。
「……月曜の朝までだ」
「え……?」
「週末世界が終わる月曜の朝まで、私のアジトに置いてやる。それ以降のことは知らん。いいな?」
志乃がぶっきらぼうにそう告げると、結衣の顔にパッと花が咲いたような笑顔が浮かんだ。
「はいっ! ありがとうございます、志乃さん!」
嬉しそうにポチの首に抱きつく結衣を見下ろし、志乃は再びため息をついた。
自分でも甘いと思う。
こんな爆弾を抱え込むなんて、馬鹿の骨頂だ。
一方、結衣の胸の内は、歓喜で狂いそうだった。
――やっと見つけた。私の神様。もう二度と、絶対に離れない。たとえあなたが私を捨てようとしても、地獄の底までついていく。
赤紫色の空の下、巨大なもふもふの獣に乗った「おばさん」と「女子中学生」は、浮遊するビルの間を縫って夜の帳へと消えていった。
重すぎる感情と、やさぐれた孤独。
二人の歪で不器用なバディの物語は、この狂った週末世界から幕を開けた。




