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「黒い雪降る箱庭と、逆さまの神殿に挑む番犬」

週末世界の土曜日の朝は、いつだって静寂に包まれている。


 しかし、築三十年のボロアパートの三階、灰原志乃の自宅リビングだけは例外だった。


「志乃さん! 朝です! 愛と栄養がたっぷり詰まった、結衣特製・週末世界を乗り切るためのパーフェクトブレックファストが完成しました!」


 十四歳の女子中学生、天海結衣が、太陽のような満面の笑みでお盆を運んできた。


 テーブルに並べられたのは、ふっくらと焼き上げられた鮭の塩焼き、出汁の香りが漂う厚焼き卵、ほうれん草の胡麻和え、そしてほかほかの白米と豆腐の味噌汁である。


昨晩、ホームセンターから強奪してきたアンティークドアの設置で疲労困憊だった三十八歳のおばさんの胃袋には、少しばかり(いや、かなり)ヘビーな品数だ。


「……お前、ここが狂った『週末世界』のど真ん中だってこと、忘れてないか?」


 志乃は、寝起きのボサボサ頭を掻きながら、呆れたようにため息をついた。


 外の空は相変わらず毒々しい赤紫色で、窓の外では重力異常でちぎれた電柱がゆっくりと宙を漂っているという超常現象の真っ只中だというのに。


この部屋の中だけは、まるで新婚家庭のような異常なまでの生活感と、重すぎる愛情で満たされていた。


「忘れてませんよ! だからこそ、しっかり食べて力をつけないと! ほら、志乃さん、あーん」


「いい。自分で食う」


 志乃は結衣が差し出してきた箸をひらりと躱し、自分の箸で鮭の身をほぐした。


一口食べると、完璧な塩加減と脂の乗りに、思わず「美味いな」と本音が漏れる。


 その瞬間、結衣の顔がパァッと輝き、背後で控えていた巨大な白い獣――ポチも『ワフッ!』と嬉しそうに尻尾を振った。


「ああっ……! 志乃さんが私の作ったご飯で満たされていく……! この光景を見られるだけで、私、生きてて良かったって心から思えます!」


「だから、いちいち感情のスケールがでかいんだよ」


 志乃は苦笑しながら、味噌汁を啜った。


 結衣の異常なまでの世話焼きと執着。


それは、彼女が教団の地下室で「モノ」として扱われていた反動であり、志乃という「自分の全存在を懸けて尽くすべき対象」を見つけたことによる生存本能のようなものだ。


 重くて、厄介で、少し狂っている。


それでも、同性バディとして互いの背中を預けると決めた以上、志乃はこの重さを丸ごと飲み込む覚悟を決めていた。


 平和な朝食が終わり、志乃が食後のコーヒーを飲もうとした、その時だった。


『……グルルルルッ』


 部屋の隅で丸くなっていたポチが、突如として身を起こし、窓の外に向かって低く唸り声を上げた。


そのもふもふの毛並みが、警戒心から逆立っている。


 同時に、結衣の表情がスッと引き締まった。


彼女の内に眠る超能力が、空間の異常な波長を感知したのだ。


「志乃さん。……外の様子が、おかしいです」


「ああ」


 志乃がマグカップを置き、窓辺へと歩み寄る。


 外の景色を見て、志乃は微かに息を呑んだ。


 赤紫色だった空に、巨大な黒いヒビがひび割れるように何本も走っている。


そして、そのヒビの隙間から、フワフワとした『黒い雪』のようなものが、音もなく街へと降り注いでいた。


「なんだ、あれは……。ただのバグじゃない」


 志乃が窓ガラスを開け、黒い雪を一粒だけ指先で受け止める。


 雪は冷たくなかった。触れた瞬間、ジュワッと嫌な音を立てて蒸発し、志乃の指先に微かな火傷のような痛みを残した。


「……痛ッ。これは、純粋な『悪意』のエネルギーか」


「志乃さん!」


 結衣が慌てて駆け寄り、志乃の指先を両手で包み込む。


純白の治癒の光が、すぐに火傷の痛みを消し去った。


「志乃さん、これ……昨日の夜、お話しした『反転』の兆候です」


 結衣の声が、微かに震えていた。


 現実世界そのものを週末世界へと引き摺り落とす、カルト教団『星の導き』の最大にして最悪の陰謀。


 結衣の父親である教祖が企てる、全人類の意識を永遠の終末空間に閉じ込める儀式が、いよいよ本格的に始動しようとしているのだ。


「黒いヒビの奥……空の上の特異点に、莫大なエネルギーが集まっています。教団が、この世界を反転させるための『祭壇』を起動させたんだと思います」


「……なるほどな。なら、おとなしくここで雪見酒ってわけにはいかないらしい」


 志乃はトレンチコートの襟を立て、玄関にはめ込まれたばかりのアンティークドアに向かって歩き出した。


 結衣もまた、恐怖を押し殺し、決意の瞳で志乃の背中を追う。


「ポチ、出番だ。あの空のヒビの奥まで一気に飛ぶぞ!」


『ガウオォォォォッ!!』


 巨大な獣が咆哮を上げ、外廊下から赤紫色の空へと跳躍する。


 志乃と結衣を乗せたポチは、黒い雪が舞い散る中を、一直線に空の裂け目へと向かって駆け上がっていった。


 黒いヒビを越えた先。


 そこには、現実の物理法則など完全に無視した、異様な空間が広がっていた。


 どこまでも続く真っ白な空間の真ん中に、巨大な白亜の神殿が浮かんでいる。


いや、浮かんでいるのではない。


 神殿は、『逆さま』に建っていた。


 尖塔が下を向き、土台となる巨大な大理石の床が上空を向いている。


重力が完全に反転しているのだ。


「悪趣味な箱庭だな。どうやって中に入る?」


「……あそこです。神殿の入り口が、開いています」


 ポチが身体を反転させ、逆さまの重力場へと突入する。


 フワリとした浮遊感の後、上下の感覚が強制的にひっくり返った。


志乃と結衣は、神殿の巨大な大理石の床(本来の天井)に降り立った。


 神殿の内部へ足を踏み入れると、志乃は思わず顔をしかめた。


 装飾は一切ない。窓もない。ただ、どこまでも続く無機質で『真っ白な部屋』だった。


 その光景を見た瞬間、隣を歩いていた結衣の呼吸が、ヒュッと引き攣った。


「ゆ、結衣……?」


「ここ……教団の、地下室。私がずっと、閉じ込められていた部屋と、同じ……」


 結衣の身体がガタガタと震え始め、彼女は両腕で自分自身を抱きしめるように蹲った。


 教団の『奇跡の器』として、非人道的な実験と洗脳を受け続けてきた場所。


そのトラウマが、空間そのものに刻み込まれているのだ。


『――よく戻ってきたね、私の愛しい器よ』


 突然、真っ白な空間に、柔らかくも酷薄な男の声が響き渡った。


 志乃が鋭く周囲を睨みつける。


部屋の中央に、光の粒子が集まり、一人の男のホログラムのような幻影を形成した。


 純白の法衣。長い銀髪。そして、結衣と同じ、どこか冷たさを孕んだ美しい顔立ち。


 教団『星の導き』の教祖であり、結衣の実の父親、『星詠み』の天海だった。


「お前が……結衣の親父か」


「いかにも。そして、そこの薄汚い泥棒に告ぐ。私の娘を唆し、神聖なる儀式を幾度も邪魔した罪は万死に値する。今すぐその小娘を置いて立ち去るなら、魂の消滅だけは免じてやろう」


 教祖の幻影は、志乃を虫ケラでも見るような目で見下した。


 そして、恐怖で蹲る結衣に向かって、甘く囁きかける。


「さあ、結衣。お前は私の最高傑作だ。お前のその莫大な光のエネルギーがあれば、この世界は完全に反転し、真の救済が訪れる。忌まわしい月曜日はもう来ない。お前は、この永遠の箱庭で、永遠に神様として崇められるのだ。……おいで、私の元へ」


 教祖の声には、精神を侵食するような強力な暗示の力が込められていた。


 結衣の瞳の焦点が合い、ふらふらと立ち上がりかける。


 かつての彼女なら、教団の教義と恐怖に縛られ、ここで心を折られていただろう。


「……ふざ、けんな」


 志乃の低く怒りに満ちた声が、静寂を切り裂いた。


 志乃は結衣の前に立ち塞がり、教祖の幻影を真っ直ぐに睨みつけた。


「あんたが結衣をどう思ってようが知ったこっちゃねぇ。だがな、こいつはもう、あんたの都合のいい『器』じゃない! 朝の五時から起きて出汁巻き卵を作る、ただの世話焼きで重たい中学生だ!」


「……愚かな。底辺の生活に、神の器を引き摺り下ろしたか」


「引き摺り下ろしたのはどっちだ。自分の娘にトラウマ植え付けて、泣かせてんじゃねぇよ、クソ親父!!」


 志乃が右手を振り抜き、『空間歪曲』の力で教祖の幻影を真っ二つに引き裂いた。


 幻影はノイズを上げて消滅したが、直後、部屋の四隅から、純白の大理石がグチャグチャと崩れながら巨大な人型を形成し始めた。


 背中から幾つもの歪な羽を生やした、バグの塊である『天使』たち。教団の防衛システムだ。


「結衣! ここは私が引き受ける! お前はポチと一緒に――」


 志乃が叫んだ、その時だった。


 志乃の背後から、まばゆいほどの純白の光が放射された。


 振り返ると、結衣が両手をしっかりと胸の前で組み、毅然とした顔で立っていた。彼女の瞳にもう、恐怖の色はない。


 志乃が自分のために激怒してくれた。ただそれだけで、結衣の中のトラウマを、志乃への愛が完全に凌駕してしまったのだ。


「……志乃さん」


 結衣は、ゆっくりと志乃の隣に並び立った。


「私、もうあの男の声を聞いても、教団の部屋を見ても、怖くありません」


「結衣……」


「だって、私の神様は、今私の隣で、私のために怒ってくれているから。……私の全部は、志乃さんのものです。教団なんかに、指一本触れさせない」


 結衣の身体から溢れ出した光が、強固な結界となって志乃を包み込んだ。


 狂信と依存。それは一歩間違えれば破滅的な感情だが、今の結衣にとっては、どんな悪意をも跳ね返す無敵の鎧となっていた。


「……たく、本当に生意気なガキだ」


 志乃はニヤリと凶悪な笑みを浮かべ、両手に空間を圧縮させた。


「行くぞ、結衣! お前のクソ親父の箱庭を、私たちがぶっ壊す!」


「はいっ! お掃除の時間です、志乃さん!」


 迫り来る数体の『天使』たち。


 結衣の光の結界が、天使たちの放つ黒いエネルギー弾を完璧に弾き返す。


その防壁の裏から、志乃の空間歪曲の刃が飛び出し、天使たちの足元をすくい、壁へと叩きつける。


 ポチが巨体を躍らせて、天使の羽(バグ)を次々と喰いちぎっていく。


 完璧な連携。重すぎる愛情と、それを受け止める覚悟が生み出した、最強の同性バディの圧倒的な蹂躙劇。


 真っ白だった教団のトラウマの部屋は、志乃と結衣の力の共鳴によって、みるみるうちに黄金色に染め上げられていった。


「これで、終わりだッ!」


 志乃の最大出力の空間歪曲が、最後に残った天使のコアを捻じり潰す。


 光の粒子となって消滅する天使たち。


 戦闘は、五分と経たずに終わった。


「はぁ、はぁ……っ」


 志乃が荒い息を吐きながら周囲を見渡す。


 しかし、神殿の崩壊は始まらない。それどころか、部屋の奥の壁が静かにスライドし、さらに深い闇へと続く階段が現れた。


「……まだ、終わってないみたいだな」

「はい。この奥に、反転の儀式の『本命の祭壇』があるはずです」


 結衣は一切の迷いなく、その暗闇を見据えていた。


 彼女はもう、教団に怯える無力な少女ではない。愛する日常と、愛する神様を守るために、自らの過去を断ち切る決意をした戦士だった。


「行くぞ、結衣」


「はい。どこまでも、志乃さんと一緒に」


 二人はしっかりと手を繋ぎ、逆さまの神殿の最深部へと足を踏み入れた。


 週末世界の終焉か、それとも現実世界の崩壊か。


 因縁とクソデカ感情の行き着く先にある、最後の決戦の幕が、今静かに上がろうとしていた。

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