「深淵の祭壇と、神様を塗り替える特大の愛」
逆さまの白亜の神殿。
その最奥へと続く階段は、奇妙なことに「上へ」と伸びていた。
重力が反転した超常現象の空間において、階段を上るという行為は、神殿の地下深く――すなわち、この狂った週末世界の最も深い深淵へと潜っていくことを意味している。
闇の中を、灰原志乃は慎重に歩を進めていた。
三十八歳のおばさんの体力は、とうに限界を超えている。だが、右手に繋がれた小さな手のひらの、火傷しそうなほどの熱が、彼女の意識を辛うじて現実に繋ぎ止めていた。
「……痛くないか、結衣。強く握りすぎたか?」
「いいえ! もっと強く握り潰してくれても構いません! 志乃さんの手の跡が骨に刻まれるなら、これ以上の喜びはありませんから!」
「相変わらず、出力のバグったクソ重たい愛情だな……少しは緊張しろ」
志乃は呆れ混じりにため息をついた。
十四歳の女子中学生、天海結衣は、実の父親でありカルト教団『星の導き』の教祖である男との決戦に向かっているというのに、悲壮感など微塵も漂わせていない。
彼女の意識の九十九パーセントは「志乃と手を繋いでいる」という幸福感で占められているようだ。
背後では、巨大なもふもふの獣――ポチが、階段に漂う黒いバグの残滓を『ぺろり』と舐め取りながら、頼もしく追従してきている。
やがて、長い階段の先に、重厚な黒曜石の扉が現れた。
扉の隙間からは、絶えず黒い雪が吹き出している。
志乃は結衣と視線を交わし、力強く頷き合うと、迷いなくその扉を蹴り開けた。
――ゴオォォォォォォッ!!
扉の向こうに広がっていたのは、嵐のような暴風と、星空を丸ごと飲み込んだかのような巨大なドーム状の空間だった。
空間の中央には、天球儀を模した巨大な黒水晶の祭壇が鎮座しており、その中心で『真っ黒な太陽』のような球体が、脈打つように禍々しいエネルギーを放っている。
現実世界を週末世界へと引き摺り落とす陰謀、『反転』の儀式のコアだ。
「よくぞ辿り着いた。我が愚かな娘と、その羽虫よ」
黒水晶の祭壇の前に、純白の法衣を纏った男が立っていた。
教祖、天海。先ほど幻影で現れた姿そのままの、底知れぬ冷酷さを湛えた男が、両手を広げて二人を迎え入れた。
「コアの臨界まではあと僅か。結衣、お前がその身に宿す『光』をこの祭壇に捧げれば、儀式は完成する。さあ、私にその手を伸ばしなさい。お前は私のモノだ」
天海がそう囁いた瞬間、彼の声が強力な超能力『言霊の呪縛』となって空間を震わせた。
血の繋がりと、かつての教団での洗脳を利用した、絶対的な服従の強制。
結衣の身体がビクンと跳ね、虚ろな目をしかける――が。
「……私の全部は、志乃さんのものですって、さっきも言ったでしょ」
結衣は自らの意志で、ギリッと奥歯を噛み締め、言霊の呪縛を跳ね除けた。
彼女の身体から溢れ出す純白の光が、天海の放つ黒い波動を相殺する。
かつてなら逆らうことすらできなかった絶対的な父親の命令も、今の結衣には『大好きな志乃さんの隣にいる邪魔』にしかならなかった。
「……チッ。できそこないの器が。その薄汚い女に、どれほど歪な洗脳を受けたというのだ」
天海が不快げに顔を歪めた。
「洗脳じゃねぇよ。こいつが勝手に重たくなっただけだ」
志乃が一歩前に出て、天海を真っ直ぐに睨みつけた。
「あんたの言う『救済』だか『反転』だかは知らんがな。月曜日の朝を消し去るってことは、私が結衣と食べるはずだった、来週の朝飯の出汁巻き卵を奪うってことだ。……同居人の平穏を脅かす奴は、私がぶっ飛ばす!」
「下賤な羽虫が、神の御業に抗うか」
天海が黒水晶の祭壇に手を触れると、ドーム内の重力が異常な数値を叩き出した。
ただの重圧ではない。空間そのものが天海の意志に従い、何万トンもの見えないプレス機となって、志乃たちを上下から押し潰そうと迫ってきたのだ。
「ぐっ……!」
志乃は両手を天に掲げ、『空間歪曲』の力で極限まで空間を圧縮し、迫り来る見えないプレス機を支えた。
ミシミシと志乃の骨が悲鳴を上げ、足元の大理石がひび割れる。
『ガウオォォォォッ!!』
ポチが咆哮を上げ、重圧の発生源である祭壇に向かって跳躍した。
しかし、天海が冷たく一瞥しただけで、ポチの巨大な身体はまるで見えない巨大なハエ叩きで打たれたように、ドゴォォンッと壁の果てまで吹き飛ばされてしまった。
「ポチッ!」
「おのれの無力さを知れ。貴様のようなロートルが、世界の理に勝てる道理などない」
天海は冷酷に言い放ち、重圧の出力をさらに上げた。
志乃の口から、タラリと一筋の血が流れる。彼女の顔は苦痛に歪み、今にも膝から崩れ落ちそうだった。
「……志乃さんっ! やめて、志乃さんを傷つけないでっ!!」
結衣が悲鳴を上げ、志乃の背中に縋り付いた。
自らの治癒の光を注ぎ込もうとするが、天海の重圧が強すぎて、光の粒子が押し戻されてしまう。
「結衣よ、お前がその女を殺しているのだ。お前が私に逆らうから、その羽虫は無惨に潰される。……女を助けたければ、おとなしく私の元へ来い。お前の命を世界の礎にすれば、その女の命くらいは助けてやろう」
天海の言葉は、結衣にとって最大の弱点を突く、悪魔の囁きだった。
結衣は志乃を守るためなら、自分の命などいらない。あの水族館でそう決断した時のように、再び彼女の心が揺らぐ――と、天海は確信していた。
しかし。
「……ふざけないで」
志乃の背中に顔を埋めたまま、結衣の声が低く、恐ろしいほどの熱を帯びて響いた。
「志乃さんは、私と一緒に生きるって言ってくれた。私の人生の最後まで、責任を背負ってくれるって約束してくれたの」
「何……?」
「私がここで犠牲になったら、志乃さんはまた、自分を責めて、独りぼっちで泣いてしまう。……私は、絶対に志乃さんを一人にしない。志乃さんの平穏を守るためなら、世界なんて、神様なんて……実の親だって、私が消し炭にしてやる!!」
結衣が顔を上げた瞬間、その瞳には、狂気的なまでの『クソデカ感情』が荒れ狂っていた。
彼女はもう、教団の教義にも、父親の呪縛にも、そして「安っぽい自己犠牲」にも囚われてはいなかった。
ただひたすらに、目の前にいるボロボロの相棒(神様)への、身の毛がよだつほど重く、純粋な愛情だけが彼女の魂を燃やしていた。
――カァァァァァァァァァンッ!!
世界を揺るがすような、莫大な鐘の音が鳴り響いた。
結衣の身体から噴き出した純白の光は、もはや治癒や防御の枠を超え、天海の作り出した重力場を『光の質量』で強引に押し返し始めた。
真っ白な光の奔流が、黒い雪を蒸発させ、ドームの闇を塗り替えていく。
「ば、馬鹿な……! 私の重圧を、ただの光が押し返しているだと!? 器風情が、神の御業を凌駕するというのか!」
「言ったでしょ。私の神様は、志乃さんだけだって!」
結衣は志乃の隣に立ち、その血の滲む右手を、両手でしっかりと握りしめた。
「志乃さん。私の命も、心も、この莫大な力も……全部、志乃さんに預けます。私を、志乃さんの最高の武器にしてください」
「……ああ。お前のクソ重たい想い、しっかり受け取った」
志乃は血まみれの唇で、ニヤリと不敵に笑った。
彼女の『空間歪曲』の能力が、結衣の放つ『純白の光』を吸い上げ、右手の掌の上で恐るべきエネルギーの渦として収束していく。
一人では決して到達できない、次元を超えた超常現象の融合。
おばさんの意地と、女子中学生の重すぎる愛が、奇跡の共鳴を果たした瞬間だった。
「ポチィィィッ!! おやつ(バグ)の時間だ!!」
志乃の咆哮に応え、壁際で倒れていたポチが、最後の力を振り絞って跳躍した。
ポチの巨大な顎が、天海の操る重力場の『歪み』に食らいつき、防御壁を強引に引き剥がす。
「やめろッ! 世界の反転が、私の救済がぁぁっ!!」
天海が絶叫し、黒水晶の祭壇から全エネルギーを放とうとした、その刹那。
「世界でも反転してろ。こっちは月曜の朝から、愛妻(?)弁当の約束があるんだよ!!」
志乃と結衣の繋いだ手から、黄金色に輝く極大の『空間破壊の光刃』が解き放たれた。
それは、ただの物理的な破壊ではない。教団の陰謀、過去の呪縛、そして反転の儀式というシステムそのものを、真っ向から斬り裂く絶対的な一撃。
光刃は、天海の放つ黒いエネルギーをいとも容易く両断し、そのまま中央の巨大な黒水晶の祭壇へと直撃した。
パァァァァァァンッ!!
鼓膜を破るような甲高い破砕音とともに、反転のコアであった真っ黒な太陽が、粉々に砕け散った。
祭壇から膨大な量の光の粒子が溢れ出し、ドーム内の赤紫色の闇を浄化していく。
コアを破壊された反動で、天海の身体はボロ布のように宙を舞い、祭壇の残骸の向こう側へと吹き飛ばされていった。流血や残酷な死はない。だが、彼の野望と異能の力は、この一撃で完全に根絶やしにされた。
静寂が、降りてきた。
狂い咲いていた黒い雪は消え去り、逆さまだった神殿の重力が、ゆっくりと正常な位置――『現実世界のルール』へと戻っていくのを感じる。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
志乃はその場にへたり込み、大の字になって大理石の床に倒れ伏した。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、指先一本動かす気力も残っていない。
「志乃さんっ!!」
結衣が慌てて覆い被さるように抱きついてきた。
彼女の温かい涙が、志乃の血と汗に塗れた頬にポタポタと落ちる。
「勝ちましたね……! 私、志乃さんを守れました……っ!」
「ああ……。最高だ、お前は……私の、最強の相棒だ」
志乃は霞む視界の中で、結衣の頭を優しく撫でた。
重すぎる愛を抱えた少女は、もう過去の恐怖に縛られることはない。彼女は自分自身の意志で、志乃と共に生きる明日を勝ち取ったのだ。
『ワンッ!』
通常サイズに戻ったポチが、志乃の顔をベロベロと舐め回してくる。
犬の唾液と、中学生の涙でグチャグチャになりながら、志乃は心底呆れたように、そしてこれ以上なく幸せそうに笑い声を上げた。
見上げれば、崩れゆく神殿の天井の向こうに、本来の空が透けて見え始めていた。
週末世界の終わり。
そして、当たり前で愛おしい、月曜日の朝がやってくる。




