「月曜日の始まりと、永遠を誓う不器用なバディ」
眩しい光が、閉じた瞼の裏をチカチカと刺激する。
遠くから聞こえるスズメのさえずりと、規則正しい包丁の音。そして、鼻腔をくすぐる出汁と味噌の優しい香り。
「……ん、あー……痛ぇ」
灰原志乃は、自宅アパートのベッドでゆっくりと目を覚ました。
身を起こそうとした瞬間、全身の筋肉がギシギシと悲鳴を上げる。
昨夜、いや、正確には「週末世界」の最後に放った最大出力の空間歪曲の反動だ。
三十八歳のおばさんの肉体には、限界突破の代償がしっかりと刻み込まれていた。
しかし、その痛みこそが、狂った世界での死闘が夢ではなく、無事に月曜日の朝を迎えられたという何よりの証拠だった。
「あ、志乃さん! おはようございます!」
寝室のドアがパタパタと開き、純白のエプロン姿の天海結衣が飛び込んできた。
彼女の足元には、すっかり現実世界の大型犬サイズに戻ったポチが、『ワンッ!』と元気よく吠えて尻尾を振っている。
「おはよう、結衣。……朝から元気だな、お前」
「当然です! 愛する志乃さんと共に迎える、記念すべき平和な月曜日の朝ですから! 志乃さんの寝顔を三十分ほど観察させていただいてから、朝食の仕上げに入ったところです!」
「観察すんな。怖いよ」
志乃は呆れたようにため息をつきながら、ベッドから這い出した。
リビングへ向かうと、テーブルの上には旅館の朝食顔負けの豪華な和食が並べられていた。
現実世界に帰還してからも、十四歳の女子中学生の凄まじい家事スキルと重すぎる愛情は、まったく衰える気配がない。
志乃が席につき、温かい味噌汁を一口啜る。
その瞬間、テレビの朝のニュース番組から、緊迫したアナウンサーの声が流れてきた。
『――速報です。本日未明、山間部にある宗教法人「星の導き」の関連施設に、警察の家宅捜索が一斉に入りました。施設内では、教祖である天海容疑者をはじめとする多数の幹部が、原因不明の昏睡状態で倒れているところを発見され……』
志乃はコーヒーカップを持つ手を止め、画面を見つめた。
テレビには、週末世界で二人が打ち倒した教団の幹部たちや、結衣の父親である教祖・天海が、担架で運ばれていく様子が映し出されていた。
カルト教団が企てていた、現実世界を永遠の終末へと引き摺り落とす『反転』という巨大な陰謀。
その儀式のコアを、志乃と結衣の超能力の融合によって破壊された結果、彼らは週末世界でのバグの力を完全に失い、現実世界に強烈な反動を受けたのだろう。
「……終わったな。これで完全に」
志乃はポツリと呟き、向かいの席に座る結衣に視線を向けた。
実の父親が逮捕され、担架で運ばれていく姿。十四歳の少女には重すぎる現実だ。
しかし、結衣の表情は驚くほど穏やかだった。彼女は鮭の身を器用に箸でほぐしながら、テレビの画面を一瞥し、そしてすぐに志乃へと微笑みかけた。
「はい。終わりました。……私、あの人を見ても、もう何も感じません。怖いとも、悲しいとも思わない。ただ、遠い世界の人になったんだなって、それだけです」
「結衣……」
「だって、今の私には、志乃さんとポチちゃんという、本物の家族がいますから。私の世界は、この四角い部屋の中と、志乃さんが隣にいる空間だけで、もう十分すぎるほど満たされているんです」
結衣はそう言い切ると、嬉しそうに白米を頬張った。
その言葉には、かつての「自分が犠牲になればいい」という危うい狂信は一切ない。
志乃と共に生きることを選び、自分の居場所を自分の手で勝ち取った少女の、揺るぎない強さと、特大の愛情だけがそこにあった。
「……たく。お前って奴は、本当にどこまでも図太くて、重たいガキだ」
志乃は苦笑しながら、結衣の頭を乱暴に撫でた。
七年前、自分の無力さで相棒を失い、逃げるように結衣を置き去りにしたあの日から、志乃の時間は止まっていた。
誰かと深く関わることを恐れ、週末世界のトラブルシューターとして、孤独にバグを処理するだけの日々。
その暗闇を、この厄介で愛が重すぎる少女が、暴力的なまでの純白の光で強引にこじ開けてしまったのだ。
もう、一人でやさぐれている言い訳は通用しない。
「……なあ、結衣」
「はいっ! おかわりですか!? それとも食後のマッサージですか!?」
「違う。これからの話だ」
志乃が真剣なトーンで告げると、結衣は箸を置き、背筋をピンと伸ばした。
「教団の脅威は去った。お前を追う連中ももういない。……つまり、お前はただの家出少女として、児童相談所に保護されて、普通の学校に通うこともできるようになったわけだ」
志乃がそう言った瞬間、結衣の顔からスッと血の気が引き、その瞳にゾッとするような暗い光が宿った。
「……嫌です」
「結衣」
「絶対に嫌です!! 私を追い出すつもりですか!? 志乃さんのためならなんでもするって言ったのに! 学校なんて行きません、普通の世界なんていりません! 私が志乃さんの足手まといになるなら、今すぐここで腕の一本でも切り落として――」
ガタッ! と椅子を蹴り倒し、パニックに陥りかける結衣の額を、志乃は指先でパチンと弾いた。
「痛っ!」
「極端なんだよバカ。最後まで話を聞け」
志乃はため息をつき、トレンチコートのポケットから、一枚の紙きれを取り出した。
それは、コンビニで買ってきた安っぽい履歴書の用紙だった。しかし、そこには志乃の乱雑な字で、『灰原探偵事務所(仮)・助手雇用契約書』と書かれていた。
「……志乃、さん?」
「私はトラブルシューターとして、これからも週末世界に関わっていく。教団がいなくなっても、あの狂った世界が消えるわけじゃないからな。……一人でやるのは骨が折れる。だから、優秀な助手を雇おうと思ってな」
志乃は、その紙を結衣の前にスッと差し出した。
「ただし、条件がある。戸籍の手続きは私が責任を持って大人の力(裏ルート含む)でなんとかするが、お前はちゃんと通信制でもいいから中学校を卒業すること。そして、私の前で二度と『死ぬ』とか『腕を切り落とす』とか、そういう安っぽい自己犠牲を口にしないことだ」
志乃は、結衣の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「お前のそのクソ重たい人生、私が最後まで相棒として背負ってやるって約束しただろ。……だから、一生私の隣で、私のために働け」
それは、プロポーズよりも重く、どんな契約書よりも絶対的な、同性バディとしての永遠の誓いだった。
結衣は目を丸くして、目の前の紙切れと、照れくさそうに顔を逸らす志乃の横顔を交互に見つめた。
やがて、彼女の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「……っ、はいっ……! はい……!!」
結衣は泣きじゃくりながら、志乃に思い切り抱きついた。
「私、一生志乃さんの助手で、番犬で、最高の相棒でいます! 志乃さんがお婆ちゃんになっても、私がずっとお世話しますから! この契約書、血判状にして神棚に飾ります!!」
「だから重いし物騒だっての! 普通にボールペンでサインしろ!」
泣き笑いしながら抱きつく中学生と、文句を言いながらも決してその背中を突き放さない三十代。
足元ではポチが『ワフッ!』と祝福の声を上げている。
玄関の方を見やれば、週末世界で強引にはめ込んだマホガニー調のアンティークドアが、現実世界の補正を受けて普通の鉄扉の姿に偽装されている。
だが、その本質は決して壊れない頑丈な扉として、二人の城を守っている。
こうして、狂信と依存から始まった二人の関係は、「互いがいないと生きていけない」という、究極のクソデカ感情を抱えたまま、確かな日常へと着地したのだった。
それから、数日後の金曜日。
午後四時五十五分。
志乃のアパートのリビングで、二人は揃って黒いパーカーの上にカーキ色のトレンチコート(結衣の強い要望により、志乃とお揃いのものを購入させられた)を羽織り、準備を整えていた。
「志乃さん。武器のメンテナンス、完了しています。ポチちゃんのおやつもカバンに入れました」
「よし。よくやった、助手」
志乃が口にストロベリー味のキャンディを放り込むと、結衣もまた同じキャンディを口に入れ、嬉しそうに微笑んだ。
――ウゥゥゥゥゥゥン……!!
午後五時ちょうど。
街の防災無線から、低いサイレンが鳴り響く。
窓の外の景色が、一瞬にして反転した。オレンジ色だった夕焼け空が、毒々しい赤紫色へと染まり、遠くの高層ビルがフワリと重力を失って宙に浮き上がる。
現実世界と重なる異界、週末世界の始まりだ。
教団の陰謀が潰えても、この超常現象が引き起こす世界は、自然のバグとして未だ存在し続けている。
ボンッ! という音とともに、ポチの身体が軽自動車ほどの巨大なもふもふふの獣へと膨れ上がった。
「さて、今日の依頼は『宙に浮いたまま降りてこなくなった遊園地の観覧車の回収』だったな。……行くぞ、結衣」
「はいっ! どこまでもついていきます、志乃さん!」
二人は、巨大なポチの背中に飛び乗った。
ポチが外廊下から、赤紫色の空に向かって勢いよく跳躍する。
もう、教団の追手に怯える必要はない。誰かのための自己犠牲もいらない。
あるのはただ、隣にいる最高に厄介で愛おしい相棒への、底なしに重い愛情だけ。
「志乃さん! あの観覧車が終わったら、帰りに浮遊クレープ屋さんに寄りましょうね! 志乃さんにあーんして食べさせますから!」
「お前なぁ……仕事中にデートの予定入れるな。それに飛んでる最中にクレープなんか食えるか」
「大丈夫です! 私の光の結界で風は完璧に防ぎます! 志乃さんのためなら、世界中すべてのバグを私の光でお掃除してみせますからね!」
赤紫色の空に、呆れ声と無邪気な笑い声が響き渡る。
狂った物理法則が支配する週末世界で、不器用な二人のバディは、今夜も仲良く宙を駆けていく。
彼女たちの物語は、この重すぎる愛情と絆がある限り、月曜日が来ても、週末が来ても、決して終わることはないのだ。
(『週末世界の終着点で、あなたと奇跡を撃ち抜く』 了)




