第1章 1-8 東船橋ギルド本部
赤い光と命令の声が、まだ踊り場に残っていた。
『これより東船橋支部は、スタンピード警戒態勢へ移行します。
全冒険者はすみやかに支部の指揮下に入り、最終防衛線へ集合してください!』
その声が消えたあとも、誰もすぐには動けなかった。
高坂は悔しさを噛み殺すように拳を握った。
私はただ、手にした小剣の重みを感じていた。
――この剣が、誰の手にあったものなのか。
嫌な予感だけが、胸の奥に沈んでいた。
赤く脈打つ魔道具の光が、沈痛な沈黙を際立たせる。
その沈黙に、耐えきれず私は問いを投げた。
「……確認したい。三階層に、私たち以外のパーティは?」
石柱の奥から響く桐生の声が、一瞬詰まり、低く返ってきた。
『三階層には、間引き任務で入っていた上級冒険者パーティがいました。しかし……現在、連絡は完全に途絶えています』
胸が冷たくなった。
上級冒険者。
つい先ほどまでの私なら、その言葉の重みを本当の意味で理解していなかったかもしれない。
だが今は違う。
三階層を歩き、罠を抜け、群れを相手に戦った。
だからこそ分かる。
初心者とは比較にならない経験と実力を持つ者たちだ。
その上級冒険者が消息を絶った。
嫌な予感が確信へと変わっていく。
「……この赤い小剣。使っていたのは誰だ?」
今度の沈黙は長かった。
やがて、重々しい声が落ちる。
『――それは、そのパーティの斥候役が使用していた装備です』
仲間たちの表情が凍りつく。
藤堂は祈りを捧げる手を強く組み、震える心を必死に押さえ込んでいた。
橘は矢筒を抱きしめるように持ちながら、残りの矢を無意識に数えていた。
三浦は俯き、唇を噛んでいた。自分に何ができるのか、必死に探そうとしている。
高坂は歯を食いしばり、前に立つ者として仲間を守る決意を固めていた。
私は小剣を見下ろす。
軽く扱える武器でありながら、赤みを帯びた刃は鮮烈に存在を主張していた。
ほんの少し前まで。
いや、もしかすると数十分前まで。
この剣は別の誰かの手に握られていたのかもしれない。
仲間を導くために。
生きて帰るために。
そうして握られていた剣が、今は私の手の中にある。
――これは戦利品じゃない。
私と同じ役割を担った斥候が握っていた剣だ。
「……残された時間は、どのくらいだ?」
すぐに、冷たい声が返ってきた。
『門が完全に閉じるまで、残り二時間。
東船橋ダンジョンは階層そのものは浅いですが、一つ一つが広大です。
閉じれば入り口は迎撃要塞と化し、内部からの突破は不可能になります。
それまでに防衛線に到達できなければ……脱出の機会は失われます』
全員の顔がさらに引き締まる。
二時間。
数字だけ聞けば長く感じる。
だが、その余裕が本物ではないことを、私たちは嫌というほど理解していた。
ここは二階へ上がる階段前だ。
本来なら安堵しているはずだった。
あと一歩で三階層を抜けられる。
あと一歩で危険地帯を離れられる。
そう思っていた。
だが現実は違った。
セーフティゾーンにゴブリンがいた。
しかも冒険者パーティのように連携していた。
常識が通用しない以上、この先に何が待っているのか誰にも分からない。
二階へ上がれば安全だという保証すら、もはやどこにもなかった。
私は深く息を吐き、仲間たちを見渡した。
「――階段を抜けるぞ。振り返るな、一人も欠けるな!」
誰も言葉を返さなかった。
だが、全員の表情には覚悟が宿っていた。
矢を握り締める橘、剣を構える高坂、魔力を練る三浦、祈りを抱える藤堂。
そして私は先頭に立ち、赤い小剣を低く構える。
石段を踏み鳴らす音だけが響き、沈黙の誓いが階段を満たした。
時間は、少しだけ遡る。
東船橋ギルド本部。
緊急連絡用の魔道具が強く脈打ち、通信室にざわめきが広がっていた。
通常報告ではない。
迷宮内からの緊急通信だった。
報告をしているのは、つい先日覚醒したばかりの新人冒険者。
佐伯浩一。
『三階層で二度の交戦がありました。
一度目は、上級冒険者用と思われる武具を持つゴブリンを確認。討伐済みです。
二度目は三階層北側階段前、セーフティゾーンでゴブリン六体と交戦しました。
前衛二体、弓、杖、双剣のリーダー格、さらに素早く動く個体。
……まるで冒険者パーティのような編成でした。
そして、セーフティゾーンに侵入してきました』
通信室の空気が揺れた。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
セーフティゾーン。
そこは本来、冒険者が体勢を立て直すための安全地帯だ。
モンスターは侵入できず、戦闘も起こらない。
その前提があるからこそ、冒険者は階層探索を続けることができる。
だが今、その前提が崩れた。
「……セーフティゾーンに、ゴブリンが?」
若い職員が信じられないという顔で呟いた。
別の職員が記録用端末を叩く。
「東船橋での発生記録はありません」
「新人の誤認では?」
その言葉に、何人かが反応した。
あり得ない。
記録にない。
新人なら見間違えてもおかしくない。
そう考えたくなる気持ちは、誰にでもあった。
だが、通信機の向こうから届く佐伯の声は、恐慌に陥った者のそれではなかった。
息は乱れている。
疲労もある。
だが、報告は具体的だった。
敵の数。
配置。
武装。
動き。
そして侵入場所。
そのどれもが、異常なほど明確だった。
その時、鋭い声が割り込んだ。
「代わります」
通信室が静まり返る。
副支部長、桐生だった。
普段は窓口で柔らかな物腰を見せる彼女だが、今の表情に穏やかさはない。
桐生は通信機の前に立ち、佐伯の報告内容を素早く頭の中で組み立て直した。
低級モンスターが上級冒険者用の武具を持っている。
群れの編成が冒険者パーティに似ている。
そして、セーフティゾーンに侵入している。
どれか一つなら、まだ誤認の可能性を考えられた。
だが、三つが同時に揃っている。
桐生は通信機へ向き直り、低く告げた。
『……特異個体が出現した可能性があります』
その言葉に、通信室の空気がさらに重くなった。
魔道具の向こうで、佐伯が問い返す。
「どうしてそう言えるのですか?」
桐生は声を乱さずに答えた。
『低級モンスターが上級冒険者の武具を所持していたこと。
そして、群れの編成とセーフティゾーンへの侵入。
この二つが揃うのは、背後に異常な存在がいる証拠です』
通信室に、重苦しい沈黙が落ちた。
武具を持つ低級モンスター。
冒険者パーティに似た群れの編成。
そして、セーフティゾーンへの侵入。
その一つ一つが、東船橋ダンジョンの常識から外れている。
桐生はわずかに目を伏せた。
一瞬だけ思考を巡らせ、すぐに顔を上げる。
そして彼女は、決断するように言い切った。
『……スタンピードの前兆かもしれません。全冒険者に退避命令を出します』
その一言で、通信室の空気が変わった。
スタンピード。
その言葉を聞いた職員たちの表情から、迷いが消えていく。
若い職員が、慌てたように声を上げた。
「副支部長、内部に救援を送りますか?」
桐生は首を横に振った。
「今、戦力を迷宮内へ分けるべきではありません」
その声に迷いはなかった。
「敵の数も、進行方向も、指揮個体の位置も分かっていません。
その状態で救援を送り込めば、救助ではなく逐次投入になります。
各階層で戦闘が分散し、救援に向かった者たちまで孤立する危険がある」
若い職員は言葉を詰まらせた。
桐生は続ける。
「入口で受け止めます。
全冒険者には即時退避を命じる。
戻ってきた者は門から収容する。
追ってきた魔物は、防壁上から迎撃する。
今やるべきことは、迷宮内で敵を探して戦うことではありません。
入口を守り、街へ出さないことです」
通信室の空気が引き締まった。
東船橋ダンジョンの入口には、すでに防壁がある。
普段は開放され、冒険者の出入りを妨げないよう運用されている。
だが、非常時には収容門を中心に戦闘区画へ切り替わる。
防壁上の射撃位置。
背後に展開する魔術障壁。
負傷者を受け入れる内側の待機区画。
そこは、ダンジョンから溢れ出す脅威を街へ出さないための最後の線だった。
桐生はすぐに指示を飛ばす。
「入口防衛線を戦闘態勢へ移行してください。
既設防壁の射撃位置を開放。
遠距離攻撃職と魔術師を防壁上へ配置。
近接職は門前に展開し、内部から戻る冒険者の収容に備えてください」
「了解しました!」
職員たちが一斉に動き出す。
通信室に、慌ただしい声が飛び交った。
「防壁上の射撃位置、開放します!」
「魔術障壁班へ連絡!」
「遠距離攻撃職を優先招集!」
「医療班、入口防衛線内側へ展開準備!」
「収容門の運用確認に入ります!」
桐生は別の職員へ視線を向ける。
「千葉県警へ状況を通報してください。抜刀隊の出動要請も同時にお願いします」
「はい!」
「こちらに命令権はありません。正式な出動要請として記録を残してください」
「了解しました!」
職員が緊急回線を開く。
桐生は通信機へ向き直った。
そして、全冒険者へ向けて凛とした声を放つ。
『――緊急退避命令。直ちに活動を中止し、ダンジョン内から退避してください』
通信室の職員たちが、一瞬だけ動きを止める。
副支部長の声が、魔道具を通してダンジョン全域へ響いていく。
『繰り返します。全冒険者は至急ダンジョン内から退避してください。
……東船橋ダンジョン副支部長、桐生の命令です』
一拍の沈黙ののち、声はさらに強まった。
『これより東船橋支部は、スタンピード警戒態勢へ移行します。
全冒険者はすみやかに支部の指揮下に入り、最終防衛線へ集合してください!』
室内には、誰の声もなかった。
今の命令が何を意味するのか、この場にいる全員が理解していた。
ダンジョン内の冒険者は、これから一斉に地上を目指す。
その背後から、異常な群れが追ってくる可能性がある。
防衛線が破られれば、被害は冒険者だけでは終わらない。
駅前の商店街。
住宅地。
学校。
病院。
この街で暮らす人間すべてが、戦場に巻き込まれる。
だからこそ、誰も軽々しく口を開けなかった。
その沈黙を破ったのは、通信機の向こうから響いた佐伯の声だった。
『……確認したい。三階層に、私たち以外のパーティは?』
桐生は端末へ視線を落とした。
三階層の入場記録。
現在位置を示す反応。
通信途絶の表示。
それらを確認した瞬間、桐生の表情がわずかに硬くなる。
佐伯は気づいている。
自分たちが拾った武器。
三階層で遭遇した武装ゴブリン。
そして、連絡の途絶えた者たちの存在に。
桐生は一度だけ息を吸い、通信機へ向き直った。
『三階層には、間引き任務で入っていた上級冒険者パーティがいました。しかし……現在、連絡は完全に途絶えています』
通信室の誰かが、小さく息を呑んだ。
上級冒険者パーティ。
東船橋の浅層で、彼らが消息を絶つ。
本来なら考えにくいことだった。
だが、セーフティゾーンへの侵入が起きている以上、もう通常の判断は通用しない。
魔道具の向こうで、わずかな沈黙があった。
そして、佐伯の声がさらに低くなる。
『……この赤い小剣。使っていたのは誰だ?』
桐生は記録用端末へ視線を落とした。
赤い小剣。
該当する装備の登録情報は、すぐに見つかった。
だが、そこに記されていた内容に、彼女は一瞬だけ言葉を失う。
使用者は、間引き任務に入っていた上級冒険者パーティの斥候役。
その名前の横には、現在連絡途絶と記されていた。
佐伯と同じ役割を担う冒険者だった。
桐生は短く息を吐き、通信機へ向き直る。
『――それは、そのパーティの斥候役が使用していた装備です』
通信室に、重い沈黙が落ちた。
誰も、上級冒険者の生存を否定したわけではない。
だが、その装備が低級モンスターの手に渡っていた。
そして今は、佐伯の手にある。
それだけで、状況はあまりにも重かった。
やがて、佐伯の声が戻る。
『……残された時間は、どのくらいだ?』
桐生は自ら通信機に向き直った。
この答えだけは、他の誰かに任せるべきではないと思った。
『門が完全に閉じるまで、残り二時間。
東船橋ダンジョンは階層そのものは浅いですが、一つ一つが広大です。
閉じれば入り口は迎撃要塞と化し、内部からの突破は不可能になります。
それまでに防衛線に到達できなければ……脱出の機会は失われます』
通信室に、沈黙が落ちた。
二時間。
短いようで長い時間だ。
だが、異常個体が率いる群れの中を突破しながら脱出するには、あまりにも心許ない。
誰もが同じ結論に辿り着いていた。
――生還できる保証は、どこにもない。
しばらくして、魔道具の向こうから佐伯の声が響いた。
『――階段を抜けるぞ。振り返るな、一人も欠けるな!』
その声は、通信室にいた者たちの胸を打った。
覚醒して一週間の新人。
五十歳にして冒険者になったばかりの男。
本来なら、保護される側にいてもおかしくない。
だがその声は、仲間を率いる者の声だった。
恐怖を知り、それでも前に進もうとする者の声だった。
直後、通信は途切れた。
緊張の糸は、なお張りつめていた。
桐生は深く息を吐き、すぐに職員へ向き直る。
「本部へ即時報告。
内容は、セーフティゾーン侵入事案、組織行動を取るモンスター群、上級冒険者用武具を所持した低級モンスター、スタンピード発生の可能性。
緊急案件として上げてください」
「はい!」
別の職員が、報告者情報を確認しながら声を落とす。
「副支部長……報告者の佐伯浩一ですが」
桐生は視線だけを向ける。
「“銀の盾”の剣姫の実父です」
室内に小さなどよめきが広がった。
「剣姫の……父親?」
「そんな人物が、なぜ東船橋の三階層に……」
桐生はそのざわめきを、静かな声で断ち切った。
「肩書きで判断してはいけません」
職員たちが口を閉じる。
桐生は続けた。
「重要なのは、彼が“剣姫の父”であることではありません。
彼が実際に三階層で異常を確認し、セーフティゾーンで交戦し、なお生還しながら報告を上げたことです」
そこで、桐生は一拍置く。
「ただし、身元情報として“銀の盾”との関係も添付してください。本部が報告の重大性を判断する材料にはなります」
若い職員が、ためらいがちに口を開いた。
「ですが、副支部長……覚醒して一週間の新人の報告で、ここまで大規模に動いていいのでしょうか」
桐生の答えは早かった。
「逆です」
「逆……ですか?」
「覚醒して一週間の新人が、ここまで具体的な異常を報告している。だからこそ軽視できません」
桐生は通信記録を指で押さえた。
「妄想なら、ここまで整合した報告にはなりません。
恐慌なら、状況を整理して伝えることはできません。
彼は恐怖の中で、見たものを見たまま伝えています。
それを無視する理由はありません」
誰も反論できなかった。
桐生はさらに声を低くする。
「報告が誤りなら、後で訂正すればいい。
ですが、報告が正しかった場合、初動の遅れは取り返せません。
私たちが守るべきものは、支部の体面ではありません。
街です」
その言葉に、室内の空気が引き締まった。
職員たちの動きが変わる。
迷いが消えた。
それぞれが自分の役割へ向かい、通信室は完全に災害対応の中枢へと変わっていく。
「本部への緊急報告、送信します!」
「抜刀隊への出動要請、接続しました!」
「防壁上、配置準備に入ります!」
「魔術障壁班、入口防衛線へ展開!」
「民間区域の避難誘導、警察と調整中!」
声が重なり、情報が流れ、命令が飛ぶ。
その中心で、桐生は表情を崩さなかった。
冷静でなければならない。
迷えば、誰かが死ぬ。
遅れれば、街が壊れる。
だから感情は後回しにする。
そう自分に言い聞かせながら、桐生は次々と指示を出し続けた。
だが、一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、彼女の視線が通信機へ向いた。
つい先ほどまで、そこから聞こえていた男の声。
五十歳にして冒険者となった、異例の新人。
覚醒してまだ一週間。
それでも、誰より早く異常を見抜き、危険を知らせてきた男。
脳裏に浮かんだのは、不器用そうに笑う佐伯浩一の姿だった。
桐生は誰にも聞こえないほど小さく呟く。
「……どうか、ご無事で」
その願いは通信には乗らない。
誰の耳にも届かない。
ただ胸の奥に沈み、戦場へ変わっていく通信室の喧騒の中へ消えていった。




