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第1章 1-9 試練と報奨

三階層から二階層へ続く階段を駆け上がる。


背後から響く咆哮と足音は、もはや壁のように迫っていた。


先頭に立つ私は、背後を振り返りながら声を張り上げる。


「――走れ! 止まるな!」


暗い石段を駆け抜け、私たちは二階層へ飛び出した。


だが、安堵する暇はなかった。


通路の影から濁った声が上がり、ゴブリンが飛び出してくる。


私は足を止めず、赤い小剣を低く構えた。


ここから先は、迷っている暇などない。


「くっ!」


すぐ後ろで高坂が剣槍を突き出し、横合いから迫る敵の一撃を受け止める。


橘が矢を放つ。


三浦が詠唱を急ぎ、藤堂の光盾が仲間を守る。


高坂が受け止めたゴブリンの側面へ踏み込み、私は脇腹を斬り抜けた。


赤い刃が肉を裂き、ゴブリンは血を吐いて倒れ込む。


だが、それで終わりではない。


一体を倒すごとに、別の影が現れる。


戦闘音を聞きつけたのか、散発的に、次から次へと押し寄せてくる。


「数が……終わらない!」


三浦が息を荒げた。


「進むしかない!」


私は叫び、通路を切り開くように先頭を走った。


五十歳の体は、すでに悲鳴を上げている。


肺は焼けるように痛み、膝も笑い始めていた。


それでも止まれない。


ここで足を止めれば、全員が死ぬ。


二階層を突破し、ようやく一階層へ上がる階段が見えた。


最後の石段を踏みしめ、私たちは一階層へ駆け上がる。


だが、そこで目に飛び込んできた光景に、息が詰まった。


大回廊。


出口へ続く巨大な通路。


その先が、黒い影で埋め尽くされていた。


牙を剥き、咆哮を上げながら押し合うゴブリンの群れ。


数百か、それ以上か。


視界の限り、濁った眼の波がうごめいている。


仲間たちは、まだ気づいていない。


だが〈神の義眼〉が、私にだけ遠くの惨状を映し出していた。


あそこへ突っ込めば、終わる。


「……待て」


私は手を挙げ、仲間たちを制した。


「この先は通れない」


「えっ!? でも、出口は――」


橘が叫ぶ。


三浦も顔を青ざめさせ、高坂は剣槍を握り締めたまま、私を見る。


「出口とは反対へ行く」


「反対って……!」


「考えがある。……私を信じろ!」


自分でも乱暴な言い方だと思った。


だが、説明している時間はない。


沈黙が落ちる。


その一瞬が、ひどく長く感じた。


やがて、高坂が短く頷いた。


「分かりました。佐伯さんに従います」


橘も、三浦も、藤堂も続く。


私は大回廊を避け、奥の通路へと仲間を導いた。


普段なら誰も向かわない死角。


だが〈神の義眼〉の光が、壁に細い線を描き出していた。


罠に似た構造。


いや、正確には罠ではない。


隠されている。


外のモンスターには知覚できず、触れることもできない。


たとえスタンピードの最中であっても、この空間なら見つからずに済むはずだ。


私は壁に浮かぶ線を指でなぞった。


微かな震えとともに石が沈み、闇の奥に小さな空間が口を開く。


「……ここだ。入れ」


仲間たちは戸惑いながらも、すぐに中へ飛び込んだ。


最後に私が入り、壁が再び閉じる。


外の咆哮が、遠くなった。


ほんのわずかな静寂。


全員が床に膝をつき、荒い息を吐いた。


「助かった……んですか?」


藤堂が震える声で言う。


「まだ分からない」


私は答えながら、荷物と状態を確認した。


矢の残り。


魔力の残量。


傷の深さ。


誰も無傷ではない。


それでも、全員、生きていた。


その時だった。


足元に、淡い光が浮かび上がる。


「なっ……!?」


床一面に魔法陣が広がり、眩い光が部屋を満たした。


反射的に赤い小剣を構える。


光の中心から現れたのは、全身をフルプレートメイルに包んだ巨体だった。


カイトシールド。


幅広の剣。


ただのゴブリンではない。


鎧の隙間から覗く濁った眼が、こちらを見下ろしている。


ゴブリンジェネラル。


その瞬間、頭の奥に声が響いた。


――生き残れ。


続いて、男女の声が重なるように届く。


――試練を超えよ。力を示せ。


背筋に冷たいものが走った。


ここは避難場所ではない。


試練の部屋だ。


「……行くぞ!」


私は喉の奥から声を絞り出した。


「生き残るんだ!」


高坂が真っ先に動いた。


剣槍を構え、真正面から突撃する。


若さに任せた突撃ではない。


盾を持つ相手に対し、真正面から圧をかけ、こちらに意識を向けさせるための動きだった。


鋭い突きが放たれる。


だが、ジェネラルは半歩も退かなかった。


カイトシールドがわずかに傾き、剣槍の穂先を弾く。


甲高い金属音が部屋に響いた。


「っ、硬い!」


高坂の体勢が崩れる。


次の瞬間、幅広の剣が振るわれた。


狙いは高坂ではない。


その後ろにいる私だった。


「佐伯さん!」


赤い小剣とガントレットで受けた。


重い。


想像を超えていた。


防ぐのではなく、受け流す。


そう判断した瞬間には、体が勝手に動いていた。


衝撃に合わせて後方へ跳び、少しでも力を逃がす。


それでも全身に衝撃が走り、背中から壁に叩きつけられた。


肺の中の空気が、一気に押し出される。


「ぐっ……!」


膝が折れそうになる。


五十歳の体に、この衝撃は重すぎた。


だが、倒れるわけにはいかない。


倒れれば、次に狙われるのは子供たちだ。


「――〈マナ・ボルト〉!」


三浦の魔法が飛ぶ。


狙いは顔。


だが、巨体は首をわずかに傾け、それをかわした。


魔力の弾が兜をかすめ、石壁を砕く。


「外した……!」


「まだ!」


橘の声が飛ぶ。


放たれた矢が、右目へ向かう。


しかし、盾が跳ね上がった。


矢は盾に弾かれ、乾いた音を立てて床に落ちる。


「くそっ!」


高坂が再び踏み込む。


剣槍を横薙ぎに振るい、盾の外側から崩そうとする。


だが、ジェネラルは重い足取りで一歩踏み出した。


それだけで圧が変わる。


部屋の空気そのものが押し潰されるようだった。


幅広の剣が振り下ろされる。


高坂は剣槍の柄で受けたが、耐えきれず膝をついた。


「高坂!」


藤堂が光盾を展開する。


半透明の盾が高坂の前に浮かび、二撃目を受け止めた。


だが、盾は一瞬でひび割れる。


「長くは持ちません!」


藤堂の声が震えていた。


無理もない。


目の前にいるのは、ただの強いゴブリンではない。


人を殺すための技術と、戦場を支配する圧を持った怪物だ。


私は壁に手をつき、何とか立ち上がった。


視界の端に、薄い線が走る。


〈神の義眼〉。


兜。


肩。


肘。


膝。


鎧の継ぎ目が、淡く浮かび上がって見えた。


分かる。


倒すなら、正面からではない。


目を潰し、関節を壊し、動きを奪う。


それしかない。


「三浦、顔を狙い続けろ!」


「はい!」


「橘、右目だ。盾を上げた瞬間を待て!」


「分かりました!」


「高坂、無理に押すな! 膝と肘を狙え!」


「了解!」


叫びながら、私は床を蹴った。


真正面からではない。


高坂の陰に隠れるように低く走る。


三浦の〈マナ・ボルト〉が再び飛んだ。


ジェネラルはそれを嫌い、盾をわずかに上げる。


その瞬間。


橘の矢が盾の横を抜けた。


今度は外れない。


矢は鎧の隙間を貫き、右目に深々と突き刺さった。


「ギャアアアアアッ!」


怪物が絶叫する。


怒りで剣が大きく振り上げられた。


動きが荒くなる。


隙が生まれた。


「佐伯さん、今治します!」


藤堂の回復魔法が私に流れ込む。


痛みが薄れ、視界が澄んだ。


だが、完全に治ったわけではない。


体の奥には、鈍い痛みが残っている。


それでも十分だった。


今しかない。


私は赤い小剣を右手に握ったまま低く潜り込み、左手で腰の短剣を抜く。


〈神の義眼〉が示す膝裏の線。


そこへ向けて、全身を沈めた。


幅広の剣が頭上をかすめる。


風圧だけで頬が切れた。


だが、止まらない。


短剣を、膝裏の継ぎ目へ突き立てる。


刃が鎧の隙間に滑り込み、肉を裂いた。


入った。


だが、浅い。


巨体が揺れるだけで、倒れない。


片目を潰されたジェネラルが、怒り狂って私を睨み下ろす。


振り下ろされる剣。


私は再び赤い小剣とガントレットで受け流し、後方へ跳ぶ。


衝撃を逃がしたつもりだった。


だが、足がもつれる。


背中が壁に叩きつけられ、視界が白く弾けた。


「佐伯さん!」


遠くで誰かの声がした。


意識が飛びかける。


まずい。


ここで止まれば終わる。


歯を食いしばり、顔を上げた。


その瞬間、高坂が横から踏み込む。


「うおおおおっ!」


剣槍の刃が、左肘の継ぎ目に食い込んだ。


金属が裂ける音。


肉が断たれる音。


だが、それでも腕は落ちない。


高坂の顔が歪む。


「まだ……!」


彼は剣槍を捻り、さらに押し込んだ。


盾が荒々しく振り回される。


その一撃が高坂を吹き飛ばしかけたが、藤堂の光盾が割れながらも受け止める。


「高坂さん、押して!」


藤堂が叫んだ。


高坂が吠える。


剣槍の刃が完全に食い込み、ついに左腕が盾ごと床へ落ちた。


ジェネラルの絶叫が部屋を震わせる。


「今です!」


藤堂の声が響いた。


私は壁から身を起こし、膝裏に刺さった短剣へ向かって走る。


足が重い。


息が苦しい。


それでも、ここで届かなければ終わる。


短剣の柄を、全力で蹴りつけた。


刃がさらに深く沈む。


膝の腱が断ち切られ、巨体がついに片膝をついた。


「橘!」


「はい!」


橘の矢が放たれる。


残った左目を貫いた。


続けて、三浦の魔法が顔面を焼く。


「――〈マナ・ボルト〉!」


爆ぜる魔力。


焼け焦げた匂い。


ジェネラルの咆哮が、潰れた悲鳴に変わる。


両目を失い、片膝をつき、盾を失った巨体。


それでもまだ、剣を振ろうとしていた。


「しぶといな……」


赤い小剣を握り直す。


横で高坂も、剣槍を構えた。


互いに言葉はない。


だが、やることは同じだった。


無防備になった首。


私と高坂は、同時に床を蹴った。


赤い小剣が右から走る。


高坂の剣槍が左から食い込む。


二つの刃が、鎧の隙間を斬り裂いた。


巨体が大きく傾く。


最後まで何かを叫ぼうとしていたが、その声は形にならなかった。


そして、床へ崩れ落ちた。


しばらく、誰も動けなかった。


誰かの荒い息だけが、狭い部屋に残っている。


やがてゴブリンジェネラルの死体が光に溶けていく。


鎧も、剣も、盾も。


すべてが粒子となって消えた。


その光は天井へ昇らず、部屋の中央へ集まっていく。


まるで、最初からそこに器が用意されていたかのように。


光が収束した場所に、宝箱が現れた。


古びた木箱ではない。


黒い金属の縁取りが施され、表面には読めない文字のような紋様が刻まれている。


蓋は、誰も触れていないのに音もなく開いた。


中に並んでいたのは、五つの装備だった。


ゴブリンジェネラルの重厚な鎧。


攻撃魔法の威力を増す短杖。


光魔術を増幅する鎖帷子。


魔力を代償に威力を高める弓。


そして、黒鋼の小剣と黒鋼の軽鎧。


ただ置かれているだけではない。


それぞれの装備が、持ち主を待っているように沈黙していた。


誰のための物かは、考えるまでもなかった。


高坂には鎧。


三浦には短杖。


藤堂には鎖帷子。


橘には弓。


そして私には、小剣と軽鎧。


私は黒鋼の小剣を手に取った。


赤い小剣とは違う。


冷たく、重く、刃の奥に沈むような力がある。


まるでこちらの力だけでなく、覚悟まで量っているようだった。


黒鋼の軽鎧も、見た目よりずっと軽い。


それでいて、ただの防具ではないと分かる。


仲間たちも、それぞれの装備を手にしていた。


誰もはしゃがない。


喜ぶ余裕などなかった。


ただ互いに見合い、無言で頷く。


――確かに、私たちは生き残った。


だが、この報奨はただのご褒美ではない。


何かに試された。


そして、何かに選ばれた。


胸の奥にざらつく違和感を抱えながら、私は黒鋼の刃を握り締めた。

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