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第1章 1-3 解析という異常

夜、帰宅すると、全身の疲労がどっと押し寄せた。


五十歳の体は正直だ。


ほんの数分の戦闘と探索。


若い冒険者なら、少し息を整えれば笑って済ませられる程度なのかもしれない。


だが、俺の体には、その代償が容赦なく残っていた。


肩は重い。


膝はきしむ。


腕には鈍い痺れが残り、短剣を握っていた指先には、まだ力を入れた感覚がこびりついている。


それでも、胸の奥にはひとつの実感があった。


俺は、生きて帰った。


風呂で汗と血の臭いを落とし、質素な食事を済ませる。


湯気の消えた茶をすすりながら、端末に届いた振込通知をもう一度開いた。


五万千五百円。


数字だけ見れば、大金というほどではない。


だが、今の俺にとっては違った。


数日分の食費。


家賃の足し。


明日も生きるための金。


それを、自分の手で稼いだ。


五十を越えて、職を失い、冒険者としてようやく踏み出した俺にとって、その金額は妙に重かった。


「……ようやく、一歩目か」


そう呟きながら、俺は両手を見下ろした。


黒革の小手。


東船橋の小迷宮で見つけた、初めての宝具。


外見は、ただの黒い革手袋に近い。


だが、はめた瞬間から、指先の感覚が変わっていた。


短剣を握った時、刃が自然に手へ馴染む。


力の入り方が変わる。


無駄な力みが消える。


手首の角度まで、ほんの少しだけ正しい位置へ導かれるようだった。


二体目のゴブリンが振り下ろした斧。


あの重さを受け流せたのは、この小手の補正があったからだ。


そう考えると、手の中にあるものが急に恐ろしくなる。


ただの道具ではない。


これは、俺の命を繋いだものだ。


意識を集中させる。


ステータス確認。


脳裏に自己ステータスが浮かんだ。


名前:佐伯浩一(50歳)


ジョブ:シーフ


スキル:〈解析 Lv1〉


体力:平均値以下


筋力:平均値以下


敏捷:平均


知力:平均


器用:平均より少し上(黒革の小手 装備補正)


「……やっぱり、平凡以下か」


分かっていたことだ。


五十歳の体は、若者のようには動かない。


体力も筋力も低い。


反射も、持久力も、回復力も、これから伸びていく年齢ではない。


若い冒険者なら、失敗しても経験にできるのかもしれない。


筋肉もつく。


体も慣れる。


仲間も見つかる。


だが、俺にはそこまでの時間がどれだけ残されているのか分からない。


次に同じように動ける保証すらない。


それでも、俺はゴブリンを三体倒した。


しかも、無傷で帰ってきた。


「……異常だ」


声に出した瞬間、部屋の静けさがやけに重く感じた。


俺が強かったわけではない。


戦闘の勘があったわけでもない。


度胸が据わっていたわけでもない。


むしろ、最初の一体が突っ込んできた瞬間、足はすくみかけていた。


錆びた短剣。


濁った眼。


人を殺すことにためらいのない、小さな体。


あれに襲われた瞬間、俺は確かに死を感じた。


それでも生き残った理由は、ひとつしかない。


〈解析〉だ。


視界に浮かんだ光の線。


敵の動き。


刃の軌道。


踏み込むべき角度。


短剣を突き入れるべき場所。


三度の戦闘すべてで、俺は〈解析〉に救われていた。


あれがなければ、俺は最初の一体で死んでいたかもしれない。


いや、たぶん死んでいた。


ふと気づいた。


俺はまだ、自分自身に〈解析〉を使っていなかった。


半信半疑で意識を集中すると、新たなウィンドウが浮かんだ。


スキル:〈解析〉


種別:神授スキル


真命:〈神の義眼いまごろ


「……は?」


言葉を失った。


神授スキル。


神の義眼。


あまりにも大げさな名だった。


だが、それ以上に意味が分からないのは、最後の注記だった。


《いまごろ》


それは、俺の心の声ではなかった。


自分で考えた言葉が表示されたわけではない。


明らかに、外から差し込まれたものだった。


「……今さらかってツッコミかよ」


五十になってようやく覚醒した。


そのうえ、自分のスキルを自分に使うことすら思いつかなかった。


怠慢と言われれば、その通りだ。


だが、苦笑しかけた口元はすぐに止まった。


これは、誰が言った?


誰が俺を見て、誰が俺に突っ込んだ?


その瞬間、頭の奥でかすかなざわめきが走った。


声ではない。


言葉でもない。


何かがこちらを覗き込み、俺という存在の表面をそっと撫でたような感覚。


意味を掴もうとした瞬間、それは霧のように消えた。


「……気のせい、じゃないな」


背筋に薄い冷たさが走る。


あの《いまごろ》は、自動表示ではない。


誰かがいる。


どこかで、俺を見ている。


気を紛らわせるように、冒険者協会の公開データベースを開いた。


検索欄に〈解析〉と打ち込む。


公式の解説は、無機質なものだった。


〈解析〉


分類:初期スキル(学者・シーフ系統)


効果:対象に触れることで名称・基本性質を把握する。


補足:鑑定系スキルの下位互換。戦闘補助としての有効性は確認されていない。


さらに注記が続く。


上級スキルへの成長例は報告されていない。


一般には“外れ”とみなされる。


続けて、Wiki版の解説も開いた。


匿名の書き込みがいくつか並んでいる。


《素材の価値をすぐ判別できた》


《宝箱の罠に対応できた》


《採取系なら使えないこともない》


肯定的な記録は少ない。


しかも、その多くはすぐに「デマ」「再現性なし」「鑑定持ちの勘違い」と切り捨てられていた。


通常の〈解析〉は、触れた対象の名前や性質を読み取るだけ。


得られるのは、あくまで情報だ。


戦闘中に敵の隙を線で示すものではない。


刃を避ける角度を教えるものでもない。


踏み込むべき一瞬を見せるものでもない。


宝箱の罠の構造と解除手順を、頭の中へ流し込むものでもない。


まして、鑑定なしで宝具の魔紋を見抜けるものでもない。


「……俺のは、違う」


小さく呟いた。


東船橋の小迷宮で起きたことを、一つずつ思い返す。


戦闘だけではない。


隠し扉もそうだ。


石の継ぎ目、苔の付き方、床に残ったわずかな擦れ跡。


それらを目で追った瞬間、視界に細い線が浮かび上がった。


木箱に近づいた時も同じだった。


箱の縁と床の境目に、細い光の線が走った。


罠だと分かった。


仕掛けの構造も、解除の手順も、まるで最初から知っていたかのように頭へ流れ込んできた。


そして、黒革の小手。


外見は、ただの小手にしか見えないはずだった。


だが俺の目には、刻まれた魔紋がはっきりと見えていた。


見えた、というよりも。


見えてはいけないものを、見てしまった。


そんな感覚だった。


「……外れ、か」


画面に表示された説明を見つめながら、俺は息を吐く。


下位互換。


非戦闘向き。


上級スキルへの成長例なし。


外れスキル。


どの言葉も、俺が今日見たものとは噛み合わない。


だが、だからといって喜べるわけでもなかった。


人と違う力は、武器になる。


同時に、厄介事の種にもなる。


ギルドに知られれば、どう扱われるか分からない。


クランに目をつけられるかもしれない。


研究施設に引っ張られるかもしれない。


五十歳の新人シーフ。


その時点で目立たないはずの俺が、妙な力を持っていると知られたら。


「……黙っておくしかないな」


黒革の小手を外し、机の上に置く。


それだけで、指先の感覚が少し鈍くなった気がした。


ほんの数時間前まで、俺はこの感覚を知らなかった。


知らなければ、それで済んだ。


だが、もう知ってしまった。


俺には、見える。


普通の〈解析〉では見えないものが。


普通の冒険者なら気づかないものが。


見えてしまう。


ベッドに横たわると、瞼の裏に光の線だけが残っていた。


敵の姿よりも、刃の軌道よりも、あの線だけが妙にはっきりと思い出せる。


次も見えるのか。


見えたとして、俺はその通りに動けるのか。


五十歳の体が、いつまでその指示についていけるのか。


答えは出なかった。


本来なら、五十歳の俺が無傷で勝てるはずの戦いではない。


救ったのは〈解析〉。


いや、〈神の義眼いまごろ〉だった。


「俺の力じゃない。だが、これが俺の武器になる」


静かにそう刻みつける。


誰かに与えられた力だとしても。


誰かに見られているのだとしても。


今の俺には、これしかない。


使いこなせなければ、次は死ぬ。


目を閉じる。


疲労は重く、意識はすぐに沈み始めた。


眠りに落ちる直前、ふと、誰かの気配がした。


遠く。


とても遠く。


だが確かに、こちらを見ている何か。


それが敵なのか、味方なのか。


人なのか、神なのか。


今の俺には、分からなかった。


その夜。


佐伯浩一の眠りを、どこか遠くから見つめるものがあった。

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