第1章 1-1 ゴブリンとの戦闘
私の名は佐脇浩一。五十歳。
三十年、製本工として生きてきた。
ミリ単位の狂いも許さない裁断機、正確に糊を引くバインダー、そして折り機の小気味よいリズム。
巨大な機械が発するわずかな異音から不調を察知し、紙の厚みや湿度に合わせてトルクを微調整する。
その指先の感覚と経験だけが、私のすべてだった。
だが、ダンジョンの出現は、そんな精緻な日常を無情に粉砕した。
仕事は消え、再就職先もなかった。
三十年、大型機械のオペレーションに心血を注いできた人間に、この歳から行ける場所など残っていない。
その日暮らしのアルバイトを転々としながら、生き延びる日々。
そんなある日、ふと一枚の紙が目に留まった。
チラシだった。
スマホや魔導端末が主流のこの時代に、場違いな紙の募集広告。
インクが乗ったその紙の質感を指先が覚えていることに、私は思わず自嘲気味に笑った。
そこに書かれていたのは――「冒険者募集」。
(……機械の調整なら自信があるが、自分の体の動かし方など、もう忘れてしまったな)
そんな疑問を抱いたまま、私はここへ来てしまった。
冒険者になるためには、まずジョブが必須だ。
そのためには、ダンジョン五層に存在するジョブクリスタル――通称ダミークリスタルに触れる必要がある。
覚醒前の人間が、単独でそこまで辿り着くことはできない。
そのため、冒険者を目指す者は護衛を雇い、ジョブクリスタルのある第五層まで連れて行ってもらう。
そこでジョブを取得し、その後あらためて冒険者協会に登録することで、ようやく正式な冒険者として活動できる仕組みになっている。
だが、その護衛代が問題だった。
協会からの補助はある。
だがそれでも、失業者が気軽に支払えるような金額ではない。
私にとっては、これまでの人生で貯めたものを切り崩す、ほとんど賭けに近い選択だった。
ロッカールームで、私は専用ケースを職員に預けた。
中に収められているのは、中級品の短剣。
護衛代を払ったあと、残った金をかき集めて買った一本だ。
かつて使い慣れた機械のパーツよりもずっと軽く、頼りない。
ダンジョン産ではあるが、特別な力はない。
初級品よりは上等だが、一流の冒険者が使うには物足りない。
それでも、これがなければ私は冒険者ですらない。
職員がケースを受け取りながら言う。
「ケースはここでお預かりします。中の武器は、ロッカールームで装備してください」
ケースは街中で武器を持ち歩くための安全装置だ。
開閉すればその日時と場所が記録され、ギルドと警察に送られる。
街中で勝手に開ければ、即座に部隊が駆けつける。
ダンジョン産の武器は、たとえ短剣一本でも、街中では凶器以上の扱いになる。
覚醒者が扱えば、一般人にとっては対抗手段のない暴力そのものだからだ。
思っていた以上に厳しい管理だ。
護衛の冒険者が、私の表情を見て笑って肩をすくめた。
「ケースの通報機能は知ってるな。気をつけろよ。駆けつけるのは抜刀隊だ。警察の対ダンジョン部隊で、ゲートや魔境の初動対応もやる。街で暴れる冒険者を取り締まるのも、奴らの仕事だ」
武器を抜くことひとつで監視される世界に、私はこれから踏み込むのだ。
壁一面に金属製のロッカーが並び、簡素なベンチと装備台が置かれている。
ここで武器を装備した時点で、日常は終わる。
護衛の冒険者が短く命じた。
「未覚醒者は後ろにいろ。戦闘は全部俺たちがやる」
地下通路を抜けると、じめついた空気と鉄臭い匂いが漂った。
ここが、私にとって初めてのダンジョンだ。
前を歩くのは、戦士志望の若者、僧侶志望の少女、魔法使い志望の学生風の男、そしてシーフ志望の少年。
私を含めて全員が未覚醒。
ジョブもスキルも持たない、ただの素人だ。
若者たちは新しいデバイスを手に入れたかのように目を輝かせている。
だが私は違う。
短剣を握る手のひらの汗を何度も拭った。
機械の不調なら音でわかる。
だが、暗闇から迫る怪物の気配はどうにも捉えきれない。
闇の奥で、黄色い目がぎらりと光った。
ゴブリンだ。
「下がれ!」
護衛が大剣を抜き放った。
鋼と鋼が激突する音が通路に響く。
振り下ろされた一撃がゴブリンの粗末な剣ごと肩口を叩き割った。
緑色の血が飛び散る。
だが終わらない。
左右の暗闇からさらに二体。
別の護衛が槍を繰り出す。
穂先が喉を貫き、一体が倒れた。
残る一体が飛びかかる。
護衛の短剣が閃き、首筋を裂いた。
ゴブリンは声にならない悲鳴を上げて崩れ落ちる。
目の前で展開される、剥き出しの暴力。
「……っ!」
私は思わず後ずさった。
機械の故障なら原因を探せる。
だが目の前の殺し合いには理屈も手順書もない。
たとえ雑魚と呼ばれる相手でも、殺気を向けられれば膝が笑う。
短剣を握る手が震えた。
その後も戦闘は続いた。
曲がり角の先から飛び出した二体。
部屋の奥に潜んでいた三体。
狭い通路での奇襲。
護衛たちは危なげなく片付けていく。
大剣が振るわれる。
槍が突き出される。
血が飛ぶ。
骨が砕ける。
そのたびに若者たちの顔色が変わっていった。
戦士志望の若者は興奮を隠せない。
魔法使い志望の男は青ざめている。
僧侶志望の少女は祈るように胸元で手を組んでいた。
私は黙って歩き続けた。
機械の不調なら音でわかる。
だが、この世界では命が壊れる音がする。
それがどうにも慣れなかった。
僧侶なら回復をかけられる。
戦士なら前に立てる。
魔法使いなら火球のひとつも放てる。
だが今の私には、何もない。
小競り合いを何度も繰り返しながら進み、私たちは五階へ辿り着いた。
広間の中央に、それはあった。
黒い正八面体が静かに浮かび、微かな脈動を放っている。
「——ダミーコア」
護衛の冒険者が低く告げる。
ダンジョンの本物の核ではなく、覚醒のための“偽物”。
だが冒険者にとっては、本物以上に重要な存在だ。
仲間たちが次々に触れ、光に包まれ、それぞれのジョブを得ていく。
「戦士」
「僧侶」
「魔法使い」
「盗賊」
そして、私の番が来た。
(……どうか、僧侶を)
三十年、物を作ることで社会の端っこを支えてきた。
今度は、誰かの傷を癒やし、助けられる存在になりたい。
その願いを胸に、ひび割れた指先を黒い正八面体へ伸ばした。
光が弾け、頭の奥に無機質な声が響いた。
——ジョブ:盗賊
——スキル:《罠解除 Lv1》《短剣技 Lv1》
……追加スキル:《解析》
目を開けると、周囲の視線が私に集まっていた。
だが、ジョブは本人にしか分からない。
私は静かに息を吐いた。
望んだ聖職ではなく、与えられたのは「盗賊」。
裏方で泥をかぶる役目。
そして、聞いたことのないスキル——《解析》。
だが、脳内に流れ込む情報の感触には覚えがあった。
それは、複雑な機械の構造を読み解き、最適解を導き出していたあの頃の感覚に近い。
その意味を、まだ誰も知らない。
私自身すらも。




