譚ノ一
己とは何も入っていない空の匣である
匣は、時と共に満たすために在る
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空っぽの匣を、満たしたい
今すぐにでも一杯にしたい
一杯にするにはまだ足りないけれど、最後の最後に一番大切なモノを匣に入れるのだ
嗤いながら、誰にも見つからないように匣を隠してその場所を離れた
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椎に紅葉、銀杏。
緑に赤に黄色。
夏と比べて過ごしやすくなった今日この頃、紫月は抹茶カステラを頬張り、ほうじ茶でまったりと自分の家の庭を見ながら楽しんでいた。
長い黒髪を一つに纏め、黒地に紅葉と蝶柄の着物と揃いの羽織。そして半襟と帯は鮮やかな紅色。柄こそ少々違うが、夏以外はこの色合いの着物と羽織を纏うのが彼女―――紫月のトレードマークだ。
「あの、話……聞いてくれてます?」
のんびりとしているが、紫月は現在、珍しい客の応対中である。
相手は今時、特定の場所に行かなければ滅多に見ない烏帽子に水干という格好をした顔立ちの整った青年―――安倍晴明だ。
彼の横に座っているのは金髪の少年である。イケメンの分類に入るだろう少年だ。
「秋らしい庭に、美味しい抹茶カステラとほうじ茶。うん、今日も良い日だね」
晴明の言葉を聞いていないかのような話をする紫月に、晴明自身困ったような表情で再度、聞いているかどうか彼女に声をかける。
すると、やっと目線が彼女の庭から晴明達に移り、ほっとほうじ茶を頂く。
「うんうん。ちゃんと聞いていたよ」
紫月はそう言うと、カステラを頬張り、ほうじ茶で一息。
その後……
「却下」
にっこり、艶然と、その微笑みを見れば依頼を受けてもらえたと思い込んでしまう。
だが、彼女の場合は違う。
微笑みながら正反対の言葉がほとんど零れるのだ。
晴明は深く、溜息をついた。
分かりきっているだけに……予想を違えない案の定の答えであるだけに、余計にがっかりする。相手ががっかりするのを楽しんでいるかのようで晴明は内心、さすがはレイキ会を牛耳る綺羅々の義理妹だと思う。
「ボクがキミの弟子の面倒を見る必要性が微塵も感じられないもん」
とのことだ。
晴明の依頼、というのは金髪の少年―――空木 志郎を東ノ府へ出張している間預かって欲しい、である。
「大丈夫言うたんはどこのおっさんやねん」
冷めた口調で志郎は晴明に言う。
「おっさんではありません。お兄さん、もしくは師匠です」
「自分認めてへんで」
志郎の言葉はスルーし、晴明は紫月に頼み込む。
「何をしに行くのかは知らないけれど、せっかく偶然、仕事先の施設で見つけて引き取った“鬼才”だろう? 弟子なら勉強も兼ねて連れて行けばいいじゃないか」
言われていることはもっともであるが、今回は綺羅々からも紫月にでも預けて東ノ府へ行けと言われたのだ。
ただその通りにしただけである。
「それにしても珍しいよね。天才に弟子はいらないって豪語していたのに、どういう風の吹き回しだい?」
「先にそれを聞いてくださいよ……」
まったくもって意地が悪いと晴明は呟く。
晴明自身も食えない性格をしていると自覚しているが、紫月はそれ以上に飄々としていてマイペースだ。長く“鬼喰”として生きている故の余裕だろう。
志郎は晴明と紫月のやり取りをつまらなさそうに聞き流している。
「ちょっとだけ愚痴、聞いてくれません?」
「どうせ義理姉様から無理難題でも言われたんだろう?」
そこまで見通しているのなら手を貸してくれてもいいのに、と思うが晴明は先日のことを話し始める。
晴明が紫月の義理姉、綺羅々に呼び出されたのは一ヶ月程前のこと。
彼も綺羅々に逆らえるはずもなく……逆らえば最後、人間なら間違いなく死ぬレベルで京ノ塔のてっぺんから釘バットで撃ち落とされるだろうと仕方なく馳せ参じた次第だ。
開口一番、綺羅々が言ったのは、来たことを労う言葉でもなければ世間話でもない。
唐突に二択を突きつけてきた。
「今すぐつがいを見つけてガキを産ませ弟子として育て上げるか、どこかで“鬼才”のあるガキを拾ってきて弟子として育て上げるか二つに一つだ。選べ」
と。
どちらも一朝一夕で見つかるわけがない上に、どちらも時間がかかると言えばどうにかしろ、以前に迷惑をかけたのを忘れたのかとそれはもうボロクソに言われたのである。
「さすが義理姉様……。で、幸運にも“鬼才”が見つかったと」
「そうなんですよ。さすが天才は、運も引きもけた違いですよね。というわけで……」
晴明は立ち上がる。
お願いしますね、と一言言い切ると、彼は姿を消した。
「は? ちょ、何なん!?」
「あ。遁甲で逃げちゃった」
やれやれ、と紫月は最後の一口を頬張り、お茶を飲み干して志郎に手を伸ばした。
「任されたなら、仕方がないね。後でキミの生活費と預かり料金に併せて押し付け料金でも上乗せしておくか。というわけで、よろしくね」
紫月は微笑みながら握手を求める。
晴明がすでに姿を消してしまってはどうすることもできない。
この家で世話になるしかない。
それにしても姿を消した晴明には呆れるばかりだ。
自分も陰陽師なんて胡散臭いものにならなければならないのだろうかと思うと、志郎は溜息をついた。
「握手、しない?」
「別に必要あらへんし」
「この家にしばらく住むんだったら仲良くなっておいた方が利口だろう?」
彼女の言うことももっともであるので、仕方がない、と紫月と握手をしておく。
「しゃあないから世話になったるわ」
「うん。この家にいる間は好きなことをしてくれて構わないよ。ボクの言うことをいくつか聞いてくれたらね。シロ」
「言うこと……って誰がシロや。犬の名前やないか!」
綺麗な顔をしてとんでもないことを言う。
それが志郎にとって、紫月への認識だ。
「それにしても、見事に何もないね」
握手する手を離し、紫月は志郎に言った。
何のことか分からなくて彼女を訝しげに見る。
事前に晴明からは“鬼喰”と聞かされていたが、それがどういうものかはよく分からないままであった。
さっそく、お酒を淹れて来て、と言われた志郎は家主権限だと言われれば反論できなくて、台所にあるという酒を淹れに行く。
しかし彼女の言い放った、何もない、という言葉が耳について離れなくて、どういう意味なのか聞くことも出来ずに一日を終えたのだった。




