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お嬢様は俺だけの素顔を知っている ~優等生をやめた夏、彼女と本当の恋が始まった~  作者: トンエリア


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第09話 はじめての、自転車

 河川敷のサイクリングロードは、土手の下に広場がついている。


 草野球のグラウンドの脇で、白線も引かれていない、ただ広いだけの場所だ。


 俺は家から自転車を押していって、そこに停めた。空はよく晴れていて、雲は西の端に少しあるだけだった。


 白鷺院澪は、サドルの高さを測っていた。今日は珍しく私服だ。白いシャツと、膝が隠れる紺のスカート。


「スカートで来たのか」


「動きやすい服、と考えて、これになりました」


「その基準、直した方がいい」


「これでも、二時間迷いました」


 二時間。


 ……何も言わないでおこう。


 ✱


 まず、跨がるところで十分かかった。工具でサドルを下げて、ようやく両足がついた。


「この状態から、どうやって進むのですか」


「片方の足で地面を蹴って、その勢いで反対の足をペダルに乗せる」


「両足が地面から離れます」


「離れるな」


「倒れます」


「倒れる前に進む」


「理屈が通っていません」


「通ってないんだよ自転車は」


 彼女は納得のいかない顔のまま、足で地面を蹴った。三十センチ進んで、止まった。


「進みました」


「進んでない。それ、歩いてるのと同じだからな」


 二回目、少し強く蹴った。一メートルほど滑って、ハンドルが右に流れて、両足が地面に戻る。


「怖いです」


「怖いのは正しい」


「正しくても、怖いです」


「じゃあ後ろ持っとく」


 荷台の下を掴むと、彼女は少し安心した顔でペダルを踏んだ。


 ✱


「今の、なんで曲がったと思う」


「曲げていません」


「曲げてるんだよ。怖いから腕に力が入って、入ってる方に切れてる。あと、倒れそうになったら倒れそうな方にハンドル切れ」


 彼女は完全に停止した。


「……逆ではありませんか」


「逆じゃない」


「理屈で説明してください」


「説明できるやつが乗れるようになるわけじゃないんだよ」


 言ってから、我ながらひどい返しだと思った。


 でも彼女は少し黙って、真面目な顔でうなずいた。


「では、体で覚えます」


 五回目、六回目、七回目。彼女は一度も文句を言わなかった。ふらつくたびに足をついて、立て直して、また跨がる。


 一時間やって、進めるようになった距離は五メートル。自転車というより、五メートルごとに立ち止まる何かの儀式に近かった。


「白鷺院さん」


「あと少しです」


「休憩しろ」


「あと少しなんです」


 その言い方に、聞き覚えがあった。エアホッケーの台の前で聞いたやつだ。


「桐谷さん。支えてください」


「持ってるだろ、後ろ」


「そちらではなく」


 彼女は自分の腰のあたりを指した。


「ここを、支えてください。その方が安定します」


「……無理」


「なぜですか」


「なぜかは自分で調べろ」


「桐谷さんは、いつもそう言って——」


「荷台持つから早く漕げ」


 この人の中の常識は、一般家庭のそれと二割くらいズレている。気づいていないぶん、余計に始末が悪い。


 ✱


 休憩は、俺が強引に取らせた。


 自転車を土手に立てかけて、二人で斜面に座る。俺が鞄から出したペットボトルを、彼女は両手で受け取った。


 受け取り方が、変だった。


 指が、細かく震えている。


「手、貸せ」


「え」


「いいから」


 俺は彼女の手首の下に、自分の手のひらを添えた。


 震えは、止まらなかった。二時間ハンドルを握りっぱなしにしていた腕が、まだ握った形のまま緊張している。よくある話だ。よくある話だけど、本人は気づいていない顔をしていた。


「疲れてるだろ、これ」


「大丈夫です」


 完璧な微笑みだった。


 角度も、口の端の上がり方も、一ミリの狂いもない。中庭で教師二人を恐縮させていた、あれだった。


「その顔やめろ」


 彼女の動きが止まった。


「今の、中庭のやつだろ」


「……なんのことでしょう」


「俺は分かるって言っただろ」


 彼女は口を開いて、閉じた。


 膝の上のペットボトルを、両手で握り直した。


「白鷺院さん」


「はい」


「ここ、俺しかいない」


「はい」


「疲れたなら、疲れたって言っていい」


 風が、河原の草を一度なでていった。


 彼女はしばらく黙っていた。長かった。二十秒くらい、何も言わなかった。


 それから、小さく。


「……疲れました」


「よし」


「よし、ですか」


「よしだよ」


 俺は鞄からもう一本ペットボトルを出して、自分の膝の横に置いた。二本持ってきていた。


「用意されていたのですね」


「初めて乗るやつを連れてくるんだから、当たり前だろ」


「……はい」


 彼女はキャップを回そうとして、指が滑って、一度手を止めた。


 俺は黙ってそれを取り上げて、開けて、返した。


 今度は、何も言わずに受け取った。


 ✱


「桐谷さん」


「うん」


「私、今、生まれて初めて『疲れました』と言いました」


「十六年ぶっちぎりの記録更新だな」


「笑いごとではありません」


「笑ってない」


「肩が笑っています」


 彼女は水を一口飲んで、それから、少しだけ肩の力を抜いた。抜いた瞬間に、抜いていなかったことに自分で気づいた顔をしていた。


「桐谷さん。疲れたと言うと、どうなるのですか」


「どうもならない」


「では、なぜ言うのですか」


「言うと、こっちが動けるんだよ」


「動く」


「休憩にできる。水を出せる。日陰に移れる。言われなかったら、俺は何もできない。それだけ」


 彼女は川の方を見ていた。


 しばらくして、こう言った。


「私、たくさん、言い忘れてきたかもしれません」


 その一言が、なんとなく、思ったより遠いところから来た気がした。


 俺は鞄からスケッチブックを出した。


「動くなよ」


「今、髪が乱れています」


「知ってる」


「疲れた顔をしています」


「今日のがこれだから」


 彼女は何か言いかけて、やめた。やめて、川の方を向いたまま動かなくなった。


 描いたのは、土手に座ってペットボトルを両手で持っている人と、その横に立てかけた自転車だった。顔は横顔だけ。肩の下がり方は、ちゃんと描いた。


 三枚目。


 見せると、彼女は長いこと黙っていた。


「これは、あまり綺麗ではありません」


「綺麗じゃないな」


「なぜ、こちらを描いたのですか」


「今日、いちばんお前らしかったから」


 言ってしまってから、また言葉を選び損ねたと思った。


 彼女はスケッチブックを返して、それから、少しだけ笑った。


 そして立ち上がって、自転車のスタンドを蹴り上げた。


「もう一回、乗ります」


「腕」


「もう震えていません」


「三分前まで震えてただろ」


 ✱


 日が傾きはじめた頃、俺はもう一度、荷台を持った。


「行くぞ」


「はい」


 彼女がペダルを踏む。俺は横を走る。


 一メートル、五メートル、十メートル。


 ハンドルは、まだ細かく揺れている。でも、揺れて戻るようになっていた。最初は揺れたら終わりだったのに。


 十五メートルのところで、俺は手を離した。


 言わなかった。言ったら止まると思ったから。


 彼女はそのまま進んだ。二十メートル、三十メートル。ペダルの回り方が一定になっていく。


「桐谷さん」


「なんだよ」


「後ろ、持っていますか」


「持ってない」


「……え」


「十五メートル前から持ってない」


 彼女の背中が、一瞬こわばった。


 こわばって、それから、ふっと軽くなった。


 自転車は、止まらなかった。


「乗れてる」


「乗れています!」


「敬語」


「今それどころじゃありません!」


 広場の端に向かって、彼女はまっすぐ走っていった。


 夕方の光が長く伸びていて、その中を、白いシャツと紺のスカートが進んでいく。俺は追いかけながら、たぶん自分でも変な顔をしていたと思う。


 問題が一つあった。


「桐谷さん」


「なに」


「止まり方を、教わっていません」


「……あ」


「あ、では困ります! 桐谷さん!」


 広場の端が近づいていた。夏草の丈が腰まである、あの一帯だ。


 俺は走った。たぶん、この夏でいちばん本気で走った。


「ブレーキ! 手の!」


「どちら!」


「両方! でも一気に握るな!」


「無理です!」


 全力で握られた。


 前輪が止まって、後ろが軽く浮いて、体が前に投げ出される——その前に、俺の手がハンドルに届いた。


 右手でハンドルを押さえて、左腕で、傾いてきた肩を受け止めた。


 自転車が止まった。


 彼女の額が、俺の肩のあたりで止まっていた。


 二人とも、しばらく動かなかった。


「……止まりました」


「止めたんだよ、俺が」


「そうでした」


 彼女がゆっくり体を起こす。起こしてから、自分がどこに寄りかかっていたのかを理解したらしい。


「桐谷さん」


「なに」


「今、支えていただきました」


「腕がな」


「腰ではなく」


「その話を今するな」


 彼女はハンドルを両手で握り直して、それから、笑った。


 声を出して。肩を揺らして。口の端が左右でずれた、あの下手くそな笑い方で。


 俺は膝に手をついたまま、それを見上げていた。


「乗れた?」


「乗れました」


「止まれてないけどな」


「それは、明日にします」


 彼女は自転車を押して、しばらく黙って歩いた。


「桐谷さん」


「うん」


「これ、自分の力で進んでいました」


「そうだな」


「誰にも押してもらわずに」


「押してない」


「……はい」


 彼女は手帳を出して、六番の上に線を引いた。書き方が、いつもよりずいぶん雑だった。


「三十一です」


 言いかけて、彼女が止まった。


 空を見上げている。俺も見た。


 さっきまで西の端にあった雲が、いつの間にか頭の上まで来ていた。灰色で、下の方が黒い。


 鼻の頭に、一粒。


「白鷺院さん」


「はい」


「走れるか」


「疲れました」


「今それ使うのやめろ」


 土手を上がった先、道の向こうに、赤い鳥居が見えていた。


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