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お嬢様は俺だけの素顔を知っている ~優等生をやめた夏、彼女と本当の恋が始まった~  作者: トンエリア


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第10話 はじめての、雨宿り

鳥居をくぐったのと、本降りになったのが、ほぼ同時だった。


 最初の一粒から、全部が落ちてくるまで、たぶん二十秒もなかった。


 俺は自転車を押しながら走った。彼女は片手でスカートを押さえながら、俺の半歩後ろをついてきた。


「桐谷さん、これは」


「走れ! 走れ!」


「はい!」


 石段を十段上がったところに、屋根のついた小さな拝殿がある。俺たちはその軒下に転がり込んで、それから二人とも、しばらく息を整えていた。


 参拝客はいない。神主も見当たらない。狛犬が二匹と、賽銭箱と、俺たち。


「白鷺院さん」


「はい」


「濡れた?」


「濡れました」


 彼女は自分のシャツの袖を見ていた。白いから、肩のあたりの色が変わっているのがはっきり分かる。


 俺は目を逸らした。逸らしてから、鞄をひっくり返した。


「タオル……ないな。」


「ハンカチがあります」


「じゃあ髪拭け。風邪引くぞ」


 彼女は言われた通りに髪を拭き始めた。素直すぎて、逆にこっちが困る。


 拭きながら、彼女がこっちを見た。


「桐谷さんの前髪から、水が落ちています」


 落ちていた。ちょうど鼻の頭に。


 彼女は自分のハンカチを差し出してきた。使いかけの、たたみ方の綺麗なやつを。


「それ、お前の使ってるやつだろ」


「はい」


「はい、じゃなくて」


「では、こちらを」


 もう片方のポケットから、もう一枚出てきた。今度は未使用で、アイロンまでかかっていた。


 二枚持ってる人間、初めて見た。


 雨は、思っていたより強かった。境内の砂利が跳ねて、白い煙みたいになっている。参道の向こうの道路は、もう輪郭しか見えない。


「桐谷さん」


「うん」


「これは、どのくらいで止みますか」


「夕立だから、三十分くらい」


「三十分」


「たぶんな」


 彼女は軒の外に手を伸ばして、落ちてくる雨を手のひらで受けた。受けて、すぐ引っ込めた。


「冷たいです」


「そりゃそうだろ」


「でも、さっきより涼しくなりました」


「そういうもんだよ、夕立は」


  ✱


 俺たちは並んで、石の段に腰を下ろした。


 濡れた石は思ったより冷たくて、彼女は座るとき一度肩を上げた。それも言わなかった。


「白鷺院さん」


「はい」


「連絡、いいのか」


 彼女はスカートのポケットから携帯を出して、画面を見て、それから、また戻した。


「まだ、五時前です」


「そうだけど」


「五時までは、私の時間です」


 その言い方が、少し可笑しかった。


 五時までは自分の時間、なんて言い方を、俺は今までしたことがない。俺の時間は、朝から晩まで全部、誰にも取られていない代わりに、誰にも使われていなかった。


「五時からは誰の時間なんだよ」


「白鷺院の娘の時間です」


「同じ人だろ、それ」


「同じ人ですが、別の予定表です」


 彼女は少し考えて、それから、付け足した。


「五時からの予定表には、桐谷さんの欄がありません」


「作れよ、欄」


「二回目です、それ」


「覚えてたか」


「覚えています。私、桐谷さんに言われたことは、だいたい覚えています」


 俺は前を向いた。前を向くしかなかった。


「桐谷さん」


「うん」


「今日、何日ですか」


「八月の……十六か」


「四十日のうち、二十日です」


「もう半分か」


「半分です」


 彼女は前を向いたまま言った。


 雨の音が一段強くなって、屋根の上で細かい音が鳴った。


  ✱


「白鷺院さん」


「はい」


「なんか、いつもより静かだな」


「疲れているので」


「さっきの、まだ引きずってんのか」


「いいえ」


 彼女は少し笑った。


「言えたので、疲れていることにしていいのだと思って」


 俺は返事をしなかった。


 した方がよかったのかもしれない。でも、あのときの二十秒の沈黙を思い出すと、下手なことは言えなかった。


「桐谷さん」


「うん」


「私、今日、自転車に乗れました」


「乗れたな」


「三十一になりました」


「なったな」


「三十一は、多いですか」


 ……変な聞き方だった。


「多いだろ。この夏で全部やるつもりなら」


「この夏で、全部やりたいのです」


「無理だろ、さすがに」


「無理でしょうか」


「二十日で三十一個は無理」


「では、来年も」


 そこで、彼女の言葉が切れた。


 切れた場所が、少し変だった。


 俺は横を見た。彼女は膝の上で手を組んで、雨の向こうを見ていた。


  ✱


「桐谷さん」


「うん」


「夏が、終わってほしくないです」


 雨の音が、遠くなった気がした。


 彼女は前を向いたままだった。声も、いつも通りの丁寧な声だった。丁寧なのに、どこも隠れていなかった。


「終わったら、私、また完璧に戻ります」


「戻るって言ってただろ、この前」


「戻ると言いました。戻れます。戻れるのが、いやなんです」


 石段の上を、雨が跳ねて濡らしていく。


「桐谷さんといるときの私は、たぶん、九月にはいなくなります。誰にも気づかれずに。私自身も、たぶん忘れます」


「忘れないだろ」


「忘れます。忘れる方法を、私はよく知っています」


 その一言が、この夏でいちばん、静かに重かった。


「それは、忘れたんじゃなくて」


「楽しい思い出は忘れた方が楽だから、忘れました」


 彼女は膝の上で手を組み直した。


 雨が屋根を叩いている。それ以外の音がない。


 俺は自分の膝を見ていた。


 こういうとき、優等生の桐谷奏太なら、うまいことを言える。相手が安心する言葉を、角度と速度を計算して、三秒以内に出せる。


 出さなかった。


 出したら、この人はまた完璧な顔で「ありがとうございます」と言う。それが分かっていた。


「白鷺院さん」


「はい」


「絵、残るから」


 彼女が、こっちを向いた。


「お前が忘れても、俺の鞄に残る。何枚でも増やす。ページが足りなくなったら二冊目を買う。それでも足りなかったら三冊目を買う」


「桐谷さん」


「忘れたら、見せる。何回でも見せる。何回でも思い出させる」


 言ってから、自分でも驚いた。


 こんなに長く、こんなに大声で喋ったのは、いつ以来か思い出せなかった。


 彼女は目を見開いていた。それから、ゆっくり、目のふちを指で押さえた。


 押さえたけど、隠さなかった。


「……ずるいです」


「二回目だな、それ言われるの」


「一回目より、ずるいです」


「褒め言葉として受け取っておく」


「褒めていません」


 彼女はもう一度、目のふちを押さえた。


 それから、しばらく雨を見ていた。俺も見た。何を言えばいいのか分からないときの雨は、便利にできている。


「桐谷さん」


「うん」


「二冊目を買うと、おっしゃいましたね」


「言った」


「一冊目が終わるのは、いつ頃ですか」


「三十一個ぶん描いたら終わる」


「三十一個やり終える日は、いつですか」


「知らねえよ」


「では、当分終わりませんね」


 そう言った彼女の声が、さっきより少しだけ軽かった。


 軽くなった理由を、俺はそのとき、ちゃんと考えなかった。


  ✱


 三十分は、四十分になった。


 途中で一度、彼女の携帯が鳴った。彼女は画面を見て、俺を見て、それから、通話ボタンを押して雨で足止めされていることだけを伝えた。


「いいのか」


「もう少しだけです」


 雨が細くなって、砂利の跳ねる音が止んで、境内の向こうの道路の輪郭が戻ってきた。


 彼女が立ち上がるとき、スカートの裾を軽く払った。


「桐谷さん」


「うん」


「最後の一枚のことですが」


 俺は顔を上げた。


 約束だ。全部埋まったらまとめて渡す。最後の一枚は彼女が決める。


「今日にしようかと、思いました」


「リストにない日だぞ、今日」


「リストにないのに、いちばん覚えていると思ったので」


 それは、正直、俺もそう思っていた。


「でも、やめます」


「やめるのか」


「はい」


 彼女は鳥居の方を見た。雨上がりの赤が、濡れてやけに濃かった。


「もっといい日が、来るかもしれませんので」


「……そうかよ」


「はい」


「じゃあ、まだ決めるなよ」


「決めません」


  ✱


 鳥居をくぐるとき、彼女が俺のシャツの裾を掴んだ。


 石段が濡れていたからだと思う。たぶん、それだけだ。


 掴んで、何も言わなかった。


 俺も、何も言わなかった。


 自転車を起こして、二人で押しながら坂を下りた。西の空だけが、やけに明るくなっていた。


 夏が終わってほしくない、と俺も思った。


 たぶん、この人が言ったのとは、少し違う理由で。


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