第11話 はじめての、電話
「今日は七番を、やりましょう」
旧音楽室で、彼女は手帳を開いて見せてきた。
七、用がないのに、電話をする。
「電話って、用があるからかけるもんじゃないのか」
「そう教わりました」
「じゃあこれ、教わったことの逆だろ」
「はい。だから書きました」
書いた理由が最初から反抗だったらしい。この人、ときどきけっこう根性が悪い。
「用のない電話は、私の家では『無駄話』といいます。無駄話をする相手が、私にはいません」
「琴音さんは」
「あの人は、用があるときしか・・・」
彼女はスマートフォンを出して、画面をこっちに向けた。
連絡先の一覧。上から順に、父。母。早坂琴音。家庭教師が三人。学校の代表番号。かかりつけの病院。以上。
九件だった。
十六年生きて、九件。
俺のスマホには、たぶん八十件くらい入っている。そのうち七十件は名前しか覚えていない。連絡先の数と、その人と話した時間は、まったく比例しない。
それは分かっている。分かっているけど、九件は少ない。
「見せなくていいんだぞ、これ」
「見られて困るものが、ありませんので」
「そこも含めて言ってんの」
「桐谷さんの連絡先を、まだ知りません」
「……あ」
俺も気づいた。この夏、ずっと会ったその場で次の約束をしていたから、そもそも交換していなかった。
「じゃあ、今」
「はい」
✱
問題は、登録する名前だった。
「これ、見られるだろ」
「見られます」
「じゃあ本名はまずい」
「では、なんと登録すれば」
「『学校』とか」
「もうあります」
「『クラスメイト』」
「そう書いてあるだけで、逆に怪しいです」
言われてみればそうだ。
彼女はしばらく画面を見て、考え込んだ。真剣な顔で。
「では、下の名前だけにします」
「え」
「桐谷、が問題なのです。桐谷という名字は、うちの学校に一人しかいませんので」
「そういう問題か?」
「そういう問題です」
彼女は指を動かして、二文字だけ打った。
画面を見せられて、俺は言葉に詰まった。
そうた、とだけ書いてあった。ひらがなで。
「……なんでひらがな」
「漢字を間違えると失礼なので」
「合ってるだろ、奏でるに太い」
「あ」
彼女は打ち直した。今度は漢字になった。
俺の名前だけが、家庭教師三人と病院の間に挟まって並んでいる。
なんというか、その並びを見ていたら、変な気分になった。
「白鷺院さんのは、どう登録する」
「桐谷さんのスマホは、誰も見ませんよね」
「見ない」
「では、本名で」
「じゃあそうする」
俺は普通に「白鷺院澪」と打った。打ってから、少しだけ手を止めた。
止めた理由は、自分でもよく分からなかった。
✱
その夜、九時ちょうどにスマホが鳴った。
約束は九時だった。ちょうど、というより、たぶん秒単位で合わせている。
「もしもし」
『桐谷さん』
声が、耳のすぐ横で鳴った。
当たり前だ。電話ってそういうものだ。それでも、俺は一度、スマホを持ち直した。
『用がありません』
「知ってる。それが今日の課題だろ」
『では、どうすれば』
「何か喋ろう」
『何か、がいちばん難しいです』
「そうだよな」
沈黙が落ちた。
三秒、五秒、十秒。
普通なら気まずいはずのやつだ。教室で誰かと二人きりになって、話題が切れたときの、あの空気。俺はあれが苦手で、だからいつも先に何か喋る。何か喋るのは俺の仕事だった。
でも、そのときは喋らなかった。
向こうも喋らなかった。
息の音と、遠くで車が通る音と、たぶん向こうの家の廊下を誰かが歩いている音。それだけが十秒くらい続いて、そのあいだ、俺は一度も焦らなかった。
変な話だ。教室で三秒黙るのは怖いのに、電話で十秒黙るのは平気だった。
相手が違うだけかもしれない。
電話の向こうで、紙をめくるような小さい音がした。
「なにしてんの」
『手帳を見ています』
「消す準備か」
『まだ早いです。三分では、電話とは言えません』
「基準あるのかよ」
『あります。今、決めました』
「今決めたのかよ」
『決めておかないと、切ってしまいますので』
その言い方で、俺は少し分かった。
この人は今、切りたくないんじゃない。切ってはいけない理由を、自分に用意しているんだ。用がないと動けない人が、用のない時間の中にいるために。
「じゃあ、三分の間、俺が喋る」
『はい』
「今日、母さんに麦茶のパック買ってこいって頼まれて、それを忘れて、代わりに何も買わずに帰ってきた」
『……それだけですか』
「それだけ」
『無駄話でした』
「そう。これが無駄話」
向こうで、息を吸う音がした。
『では、私も。今日、ピアノの椅子の高さが、いつもと一段違いました』
「誰かが座ったんだろ」
『調律の方だと思います』
「戻したか」
『戻しました。戻してから、三十分くらい、なんとなく落ち着きませんでした』
「それも無駄話だな」
『無駄話でした』
少し笑う音がした。
✱
結局、一時間喋った。
中身はほとんど何もなかった。彼女の部屋には机が二つあるとか、勉強用と手紙用で分けているとか、手紙を書く相手はほとんど親戚だとか。
『桐谷さんの部屋には、机がいくつありますか』
「一つ」
『一つで足りますか』
「足りる。というか、二つあったら片方に物が積まれるだけだろ」
『積んでよいのですか』
「積むだろ普通。教科書とか、読みかけの本とか」
『……私の机には、何も出ていません』
「なんで」
『出しっぱなしは、だらしないので』
「じゃあ今、机の上になんかある?」
少し間が空いた。
『手帳と、スマホと、鉛筆が二本』
「鉛筆」
『桐谷さんの分です。渡しそびれたまま、置いてあります』
旧音楽室で初めて描いた日、帰り際に言われたやつだ。持ってくると言って、そのあと持ってこなかった。たぶん、渡す口実を探していたわけじゃなくて、渡すときに俺が何か言うのが怖かったんだと思う。
この人は、そういう回り道をする。
「明日持ってこい」
『はい』
「二本な」
『二本です』
俺の方は、白い犬の話をした。
「机の上にいる」
『まだ置いてくださっているのですか』
「捨てるわけないだろ」
『どのあたりですか』
「視界に入るとこ」
少し間が空いた。
『……それは、どのあたりですか』
「聞き方を変えるな」
彼女が笑った。声だけで笑われると、なんというか、逃げ場がない。
顔が見えないぶん、こっちも隠せない。俺は自分の耳が熱いのを、誰にも見られていないのに、手で押さえていた。
『桐谷さん』
「うん」
『電話は、便利ですね』
「そうか?」
『顔が見えません。だから、言えることが増えます』
「……たとえば」
『桐谷さんの声が、耳のすぐ近くで鳴ります』
俺は天井を見た。
『不思議な感じです。今、この部屋には私しかいないのに、桐谷さんの方が近いです』
「白鷺院さん」
『はい』
「それ、昼間なら言わないやつだろ」
『言いません』
「だろうな」
『電話は、便利ですね』
二回言うな。
✱
『そろそろ、切ります』
「もうそんな時間か」
『十時七分です』
「一時間七分か」
『三分の基準は、余裕で超えました』
「胸を張るとこじゃない」
『七番、消せます』
「消せるな」
『三十です』
三十。
最初に見たときは三十七だった。あれから、二十日も経っていない。
「なあ」
『はい』
「そのリスト、書いたのいつ」
少し、間があった。
『……何年か前です』
「何年か」
『はっきりとは、覚えていません』
覚えていない人の間の空け方じゃなかった。
でも俺は、そこを追わなかった。追ったら、この一時間が終わる気がしたからだ。
今にして思えば、あそこで聞いておけばよかった。聞いたところで、たぶん何も変わらなかったけれど。
『桐谷さん』
「うん」
『今日、絵はどうなりますか』
「電話は描けないだろ」
『そうですね』
「でも描く。なんか描く」
『では、明日見せてください』
「明日な」
電話を切る間際だった。
『では、おやすみなさい』
「おやすみ」
『……あの』
「まだあるのか」
『いえ』
「なんだよ」
『……』
「切るなら切れよ」
『はい』
『……奏太さん』
通話が切れた。
早かった。逃げたな、と分かる速度だった。
俺はスマホを耳に当てたまま、たぶん十秒くらい、そのままでいた。
ツー、ツー、という音だけが、耳のすぐ近くで鳴っていた。
……今の。
今の、聞き間違いじゃないよな。
かけ直そうかと思って、指が画面の上で止まった。かけ直して、何を言うんだ。今のもう一回言えとでも言うのか。
言えるわけがない。
俺はスマホを机に伏せて置いた。置いてから、三十秒くらいして、また表を向けた。
着信履歴の一番上には、白鷺院澪、と表示されていた。
向こうの画面には、たぶん俺の下の名前だけが残っている。家庭教師三人と、病院の間に。
なんでその並びを思い出したのかは、自分でもよく分からなかった。
✱
机に向かって、スケッチブックを開いた。
電話は描けない。声も描けない。
しばらく白いページを見てから、俺は結局、机の上の白い犬を描いた。その横に、置きっぱなしのスマホを描いた。画面はもう暗くなっている。
四枚目。
これまでの三枚と違って、そこに彼女はいない。
いないのに、この一枚は、明らかに彼女の日だった。
俺は右下に日付を入れて、鉛筆を置いた。
置いてから、さっきの最後の一言を、もう一度頭の中で再生した。
……何回か、再生した。回数は、数えないことにした。




