第12話 はじめての、名前
翌日、旧音楽室のドアを開けたら、彼女はもう来ていた。
椅子に座って、背筋を伸ばして、膝の上で手を重ねて、あごの角度を一度だけ下げていた。
完璧な姿勢だった。
「おはよう」
「おはようございます」
「……なんで正装なの、その座り方」
「正装ではありません」
「じゃあなんでそんな姿勢いいんだよ」
「姿勢は、いつも良いです」
嘘だ。この二週間で、この人の姿勢はけっこう崩れてきていた。
✱
俺の方も、たいがいだった。
ここに来るまでの電車の中で、俺は三通りの入り方を考えていた。何もなかったことにする、軽く冗談にする、正面から聞く。三通り考えて、結局「おはよう」しか出てこなかったんだから、準備の意味がない。
彼女は鞄から筆箱を出して、そこから鉛筆を二本抜いて、机の上に置いた。
置き方が、置いたというより、供えたに近かった。
「これです」
「おう」
俺は手に取った。よく削ってある。削り方が均一すぎて、たぶんカッターじゃなくて何かの機械だ。
「これ、削り器?」
「はい。父の書斎のものを、借りました」
「ありがと」
「いえ」
それで会話が終わった。
窓の外で蝉が鳴いている。ピアノの上の埃が、光の中で細かく動いている。
沈黙が、電話のときとは全然違う手触りをしていた。
電話の沈黙は、間だった。今のは、逃げてる沈黙だ。
「白鷺院さん」
「はい」
「昨日の最後」
「聞き間違いです」
「まだ何も言ってない」
「聞き間違いです」
早い。予備動作なしで否定してきた。
俺は椅子を引いて、彼女の斜め前に座った。
「じゃあ、なんて聞こえたと思う?」
「存じ上げません」
「知らないやつが否定できないだろ」
「……」
彼女は口を結んだ。結んだまま、耳の先が赤くなっていくのが分かった。
こっちも人のことは言えない。昨日から今日まで、あの二秒を何回再生したか自分でも分からない。
でも、ここで引いたら、この人はたぶん一生「聞き間違い」で通す。
「白鷺院さん」
「はい」
「一回だけ確認する。逃げるなよ」
「……逃げません」
「昨日、俺のことなんて呼んだ」
彼女はしばらく黙っていた。
窓の外の蝉が、一度鳴きやんだ。
「……名前で、呼びました」
「うん」
「無意識でした」
「無意識であれ出るのは、けっこうすごいと思うぞ」
「桐谷さん」
「なに」
「意地悪です」
彼女は膝の上の手を、一度だけ握り直した。
「奏太さ——桐谷さんは」
「今」
「言っていません」
「言いかけただろ、今」
「言いかけただけです」
「じゃあ半分は言ったってことだろ」
「半分は、まだ言っていないということです」
この人、追い詰められると急に理屈が強くなる。生徒会で三年生を黙らせているのは、たぶんこの回路だ。
✱
俺は鉛筆を一本、指で回した。
言うなら今だ、と思った。理屈じゃなくて、たぶん今日を逃したらこの話は永久に「聞き間違い」で片付く。
「じゃあ、俺からも言う」
彼女が顔を上げた。
「澪」
空気が、止まった。
彼女は目を見開いたまま、二秒くらい、まばたきをしなかった。
それから、顔が、みるみる赤くなった。首まで一気にいった。
「今の」
「聞き間違いじゃないぞ」
「今の、もう一度」
「もう一度は言わない」
「なぜですか」
「こっちも限界だから」
彼女は両手で口元を押さえていた。押さえたまま、視線だけをきょろきょろ動かしている。あの完璧な微笑みは、どこにもなかった。
俺は窓の外を見た。見ておいた方がいい気がした。この夏、俺は何回窓の外を見ただろう。
振り向いたら、彼女はまだ口元を押さえていた。
押さえたまま、何か言おうとして、口を開いて、閉じた。もう一度開いて、また閉じた。
「言えないのか」
「言えます」
「じゃあ言えよ」
「今は、順番が悪いです」
「順番」
「心の準備の、順番です」
順番があるらしい。この人の中の手続きは、いつも俺の想像の二歩先で複雑だ。
✱
「……では、練習です」
彼女がそう言ったのは、たっぷり一分後だった。
出た。
この人、いっぺん「練習」って言葉を覚えてから、それで全部押し通してくる。
「なんの練習」
「呼ぶ、練習です」
「昨日できただろ」
「昨日は、無意識です。意識してできないと、できたことになりません」
理屈は分かる。分かるけど、なんで俺が付き合うんだ。
「では、いきます」
彼女は深呼吸をした。姿勢を正した。正さなくていいって。
「そ」
止まった。
「そう……」
止まった。
「そうた、さ」
「途中で失速するな」
「難しいです」
二週間くらい前にも、まったく同じ流れを見た気がする。
あのときは「馬鹿」だった。今回は俺の名前だ。難易度が上がっているのか下がっているのか、判断がつかない。
「もう一度お願いします」
「まだやるのか」
「できないままで終わるのは、嫌です」
その一言に、迷いがなかった。
俺はもう、この言葉に勝てない。初めて聞いたのは、埃だらけのこの部屋で、この人が「馬鹿」を言えずに何度もやり直していたときだ。
二回目、三回目。彼女は途中まで言って、そのたびに自分の声にびっくりして止まった。三回目のとき、こっちを見ないで言おうとして、それでも失敗した。
四回目。彼女は息を吸って、ちゃんとした声で言った。
「奏太さん」
「……はい」
「返事をされました」
「されるだろ、名前呼ばれたら」
彼女は口元を押さえた。押さえて、それから、押さえたまま言った。
「もう一度、呼んでください」
「は?」
「名前を呼ばれると、返事をしたくなります。……何回でも、返事をしますので」
俺は天井を見た。
この人は、本当に、こういうことを、真顔で言う。
「白鷺院さん」
「澪です」
「訂正が早い」
「訂正は、早い方がよいので」
「……澪」
「はい」
返事の速度が、光だった。
こっちが呼ぶたびに、この人が返事をする。それだけのことなのに、部屋の空気の密度が変わった気がした。
窓の外では、まだ蝉が鳴いている。埃はさっきと同じ速さで光の中を落ちている。何も変わっていない。
変わったのは、この部屋にいる二人が、お互いを呼ぶときに使う言葉だけだ。
✱
「奏太さん」
「なんだよ」
「名前で呼ばれるのは、家族と琴音以外では、初めてです」
「学校のやつらは?」
「白鷺院さん、です。全員」
「まあ、そうか」
彼女は自分の手のひらを見ていた。
「家でも、そうです。父は私を『澪』と呼びますが、あれは名前ではありません」
「名前だろ」
「呼びかけの合図です。次に来るのは、だいたい注意か、確認です」
俺は返す言葉を探して、見つからなかった。
俺の家では、母親が俺を呼ぶときは飯の時間か、麦茶を買ってこいというときだ。それは注意でも確認でもないけど、たぶん、名前ではある。
違いがどこにあるのか、うまく説明できない。でもたぶん、違う。
「だから、少し、変な感じがします」
「変な感じって」
「私が、白鷺院の娘ではなく、ただの澪でいるみたいで」
俺はしばらく黙って、それから、言った。
「それでいいんだろ」
「はい」
彼女は笑った。
完璧じゃない、口の端が左右でずれた、あの下手くそな笑い方だった。
この夏で何回も見たはずなのに、毎回、初めて見たみたいな顔をしてしまう。
✱
「奏太さん」
「うん」
「八番を、お願いします」
彼女は手帳を開いて、こっちに向けた。
八、夏祭りに行く。
「夏祭りな。今週末、駅の向こうの神社でやる」
「知っています。調べました」
「早い」
「準備がいいと言ってください。奏太さん。一つ、先に申し上げておきたいことが」
この流れ、知ってる。
「どうしたの?」
「私、浴衣を」
「うん」
「着たことが、ありません」
「着物は着るだろ、お前」
「着物は着ます。浴衣は、着たことがないのです」
似たようなもんだろ、と言いかけて、やめた。
この人にとっては、たぶん、まったく別のものだ。




