↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
お嬢様は俺だけの素顔を知っている ~優等生をやめた夏、彼女と本当の恋が始まった~  作者: トンエリア


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/31

第12話 はじめての、名前

 翌日、旧音楽室のドアを開けたら、彼女はもう来ていた。


 椅子に座って、背筋を伸ばして、膝の上で手を重ねて、あごの角度を一度だけ下げていた。


 完璧な姿勢だった。


「おはよう」


「おはようございます」


「……なんで正装なの、その座り方」


「正装ではありません」


「じゃあなんでそんな姿勢いいんだよ」


「姿勢は、いつも良いです」


 嘘だ。この二週間で、この人の姿勢はけっこう崩れてきていた。


 ✱


 俺の方も、たいがいだった。


 ここに来るまでの電車の中で、俺は三通りの入り方を考えていた。何もなかったことにする、軽く冗談にする、正面から聞く。三通り考えて、結局「おはよう」しか出てこなかったんだから、準備の意味がない。


 彼女は鞄から筆箱を出して、そこから鉛筆を二本抜いて、机の上に置いた。


 置き方が、置いたというより、供えたに近かった。


「これです」


「おう」


 俺は手に取った。よく削ってある。削り方が均一すぎて、たぶんカッターじゃなくて何かの機械だ。


「これ、削り器?」


「はい。父の書斎のものを、借りました」


「ありがと」


「いえ」


 それで会話が終わった。


 窓の外で蝉が鳴いている。ピアノの上の埃が、光の中で細かく動いている。


 沈黙が、電話のときとは全然違う手触りをしていた。


 電話の沈黙は、間だった。今のは、逃げてる沈黙だ。


「白鷺院さん」


「はい」


「昨日の最後」


「聞き間違いです」


「まだ何も言ってない」


「聞き間違いです」


 早い。予備動作なしで否定してきた。


 俺は椅子を引いて、彼女の斜め前に座った。


「じゃあ、なんて聞こえたと思う?」


「存じ上げません」


「知らないやつが否定できないだろ」


「……」


 彼女は口を結んだ。結んだまま、耳の先が赤くなっていくのが分かった。


 こっちも人のことは言えない。昨日から今日まで、あの二秒を何回再生したか自分でも分からない。


 でも、ここで引いたら、この人はたぶん一生「聞き間違い」で通す。


「白鷺院さん」


「はい」


「一回だけ確認する。逃げるなよ」


「……逃げません」


「昨日、俺のことなんて呼んだ」


 彼女はしばらく黙っていた。


 窓の外の蝉が、一度鳴きやんだ。


「……名前で、呼びました」


「うん」


「無意識でした」


「無意識であれ出るのは、けっこうすごいと思うぞ」


「桐谷さん」


「なに」


「意地悪です」


 彼女は膝の上の手を、一度だけ握り直した。


「奏太さ——桐谷さんは」


「今」


「言っていません」


「言いかけただろ、今」


「言いかけただけです」


「じゃあ半分は言ったってことだろ」


「半分は、まだ言っていないということです」


 この人、追い詰められると急に理屈が強くなる。生徒会で三年生を黙らせているのは、たぶんこの回路だ。


 ✱


 俺は鉛筆を一本、指で回した。


 言うなら今だ、と思った。理屈じゃなくて、たぶん今日を逃したらこの話は永久に「聞き間違い」で片付く。


「じゃあ、俺からも言う」


 彼女が顔を上げた。


「澪」


 空気が、止まった。


 彼女は目を見開いたまま、二秒くらい、まばたきをしなかった。


 それから、顔が、みるみる赤くなった。首まで一気にいった。


「今の」


「聞き間違いじゃないぞ」


「今の、もう一度」


「もう一度は言わない」


「なぜですか」


「こっちも限界だから」


 彼女は両手で口元を押さえていた。押さえたまま、視線だけをきょろきょろ動かしている。あの完璧な微笑みは、どこにもなかった。


 俺は窓の外を見た。見ておいた方がいい気がした。この夏、俺は何回窓の外を見ただろう。


 振り向いたら、彼女はまだ口元を押さえていた。


 押さえたまま、何か言おうとして、口を開いて、閉じた。もう一度開いて、また閉じた。


「言えないのか」


「言えます」


「じゃあ言えよ」


「今は、順番が悪いです」


「順番」


「心の準備の、順番です」


 順番があるらしい。この人の中の手続きは、いつも俺の想像の二歩先で複雑だ。


 ✱


「……では、練習です」


 彼女がそう言ったのは、たっぷり一分後だった。


 出た。


 この人、いっぺん「練習」って言葉を覚えてから、それで全部押し通してくる。


「なんの練習」


「呼ぶ、練習です」


「昨日できただろ」


「昨日は、無意識です。意識してできないと、できたことになりません」


 理屈は分かる。分かるけど、なんで俺が付き合うんだ。


「では、いきます」


 彼女は深呼吸をした。姿勢を正した。正さなくていいって。


「そ」


 止まった。


「そう……」


 止まった。


「そうた、さ」


「途中で失速するな」


「難しいです」


 二週間くらい前にも、まったく同じ流れを見た気がする。


 あのときは「馬鹿」だった。今回は俺の名前だ。難易度が上がっているのか下がっているのか、判断がつかない。


「もう一度お願いします」


「まだやるのか」


「できないままで終わるのは、嫌です」


 その一言に、迷いがなかった。


 俺はもう、この言葉に勝てない。初めて聞いたのは、埃だらけのこの部屋で、この人が「馬鹿」を言えずに何度もやり直していたときだ。


 二回目、三回目。彼女は途中まで言って、そのたびに自分の声にびっくりして止まった。三回目のとき、こっちを見ないで言おうとして、それでも失敗した。


 四回目。彼女は息を吸って、ちゃんとした声で言った。


「奏太さん」


「……はい」


「返事をされました」


「されるだろ、名前呼ばれたら」


 彼女は口元を押さえた。押さえて、それから、押さえたまま言った。


「もう一度、呼んでください」


「は?」


「名前を呼ばれると、返事をしたくなります。……何回でも、返事をしますので」


 俺は天井を見た。


 この人は、本当に、こういうことを、真顔で言う。


「白鷺院さん」


「澪です」


「訂正が早い」


「訂正は、早い方がよいので」


「……澪」


「はい」


 返事の速度が、光だった。


 こっちが呼ぶたびに、この人が返事をする。それだけのことなのに、部屋の空気の密度が変わった気がした。


 窓の外では、まだ蝉が鳴いている。埃はさっきと同じ速さで光の中を落ちている。何も変わっていない。


 変わったのは、この部屋にいる二人が、お互いを呼ぶときに使う言葉だけだ。


 ✱


「奏太さん」


「なんだよ」


「名前で呼ばれるのは、家族と琴音以外では、初めてです」


「学校のやつらは?」


「白鷺院さん、です。全員」


「まあ、そうか」


 彼女は自分の手のひらを見ていた。


「家でも、そうです。父は私を『澪』と呼びますが、あれは名前ではありません」


「名前だろ」


「呼びかけの合図です。次に来るのは、だいたい注意か、確認です」


 俺は返す言葉を探して、見つからなかった。


 俺の家では、母親が俺を呼ぶときは飯の時間か、麦茶を買ってこいというときだ。それは注意でも確認でもないけど、たぶん、名前ではある。


 違いがどこにあるのか、うまく説明できない。でもたぶん、違う。


「だから、少し、変な感じがします」


「変な感じって」


「私が、白鷺院の娘ではなく、ただの澪でいるみたいで」


 俺はしばらく黙って、それから、言った。


「それでいいんだろ」


「はい」


 彼女は笑った。


 完璧じゃない、口の端が左右でずれた、あの下手くそな笑い方だった。


 この夏で何回も見たはずなのに、毎回、初めて見たみたいな顔をしてしまう。


 ✱


「奏太さん」


「うん」


「八番を、お願いします」


 彼女は手帳を開いて、こっちに向けた。


 八、夏祭りに行く。


「夏祭りな。今週末、駅の向こうの神社でやる」


「知っています。調べました」


「早い」


「準備がいいと言ってください。奏太さん。一つ、先に申し上げておきたいことが」


 この流れ、知ってる。


「どうしたの?」


「私、浴衣を」


「うん」


「着たことが、ありません」


「着物は着るだろ、お前」


「着物は着ます。浴衣は、着たことがないのです」


 似たようなもんだろ、と言いかけて、やめた。


 この人にとっては、たぶん、まったく別のものだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。