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お嬢様は俺だけの素顔を知っている ~優等生をやめた夏、彼女と本当の恋が始まった~  作者: トンエリア


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第13話 はじめての、夏祭り

 待ち合わせは、神社の一つ手前の交差点だった。


 俺は十分前に着いて、電柱の影で立っていた。祭りの人の流れがもう始まっていて、浴衣の集団と、サンダルの家族連れと、屋台の車が通る。


 澪は五分遅れてきた。


 この人が遅れるのを、俺は初めて見た。


「遅れました」


 声のした方を向いて、俺は一度、目の焦点を合わせ直した。


 紺の浴衣だった。細かい白の柄が入っていて、帯は薄い黄色。髪は上でまとめてある。まとめてあるせいで、首のうしろが出ていて、そこだけ、やたら明るく見えた。


「……あー」


「変ですか」


「変じゃない」


「変じゃない、の間が長かったです」


「気のせいだろ」


 彼女は袖の合わせを気にするみたいに、一度だけ肘を動かした。


「借りものです。駅前のお店で、着付けまでしていただきました」


「予約したのか」


「はい。電話で」


「一人で?」


「一人でです」


 少しだけ、あごが上がった。得意げなときのやつだ。


「よくやった」


「褒められました」


「褒めた」


 彼女は袖の中で手を組んで、それから、下を向いて、また上を向いた。


「選ぶのに、三時間かかりました」


「更新してるじゃん、記録」


「三時間のうち、二時間は色で迷いました」


「残りの一時間は」


「柄です。……そのあと、店の方に『もう決めましょう』と言われました」


「言われたのか」


「言われました。生まれて初めて、急かされました」


 この人、急かされたことすら初体験なのか。


 俺は自分の格好を見た。シャツと、去年から履いてるサンダル。


「俺、普通の服で来ちゃったけど」


「私も、普通です」


「今のお前を普通って言うやつ、この参道にいないと思うぞ」


 言ってから、余計なことを言ったと気づいた。


 彼女は口を開いて、何も言わずに閉じて、それから、袖で口元を隠した。


 ✱


 参道に入った瞬間、人の密度が変わった。


 両側に屋台が並んで、その真ん中を、人がゆっくり押し合いながら流れていく。焼きそばのソースと、油と、誰かの汗と、線香みたいな匂いが混ざっている。


 澪は三歩で立ち止まった。


「多いです」


「祭りだからな」


「四十二軒の地図は、役に立ちません」


「言っただろ」


「地図には、人が描かれていませんでした」


 その言い方が可笑しくて、俺は少し笑った。


 実際、この人が想像していた夏祭りは、たぶんもっと静かで、もっと整理された何かだったんだと思う。四十二軒の屋台が等間隔に並んでいて、客はそれを順番に見て回る。そういう会場図みたいなものを、頭に入れてきていた。


 現実は、押し合いだ。


 笑ったところで、後ろから来た三人組が澪の横をすり抜けていって、彼女の体が半歩ぶん流された。


「白鷺院さん」


 思わず名字が出た。人がいる場所では、そう呼ぶことにしている。


 彼女は自分の位置を立て直して、それから、俺の方を見た。


「はぐれます」


「はぐれるな」


「では」


 彼女の手が、俺の浴衣の——じゃない、俺は普通にシャツだ。とにかく、俺の袖を掴んだ。


 掴んで、それから、少し考えるみたいに一度離した。


 離して、今度は手を出してきた。


 手のひらを上にして、まっすぐに。


「……なに」


「こちらの方が、確実です」


「確実って」


「袖は、伸びます」


 理屈が正しい。正しいけど、その理屈で人の手を取りに来るやつがあるか。


 俺は自分の手のひらを見た。汗をかいている自覚があった。


 それでも、掴んだ。


 彼女の手は思ったより小さくて、思ったより力が入っていた。握り返された、というより、しがみつかれたに近い。


「進むぞ」


「はい」


 その返事が、やけに短かった。


 ✱


 最初に食べたのは、たこ焼きだった。


「熱いです」


「冷ましてから食えばいいんだよ」


「今がいちばん美味しい形です」


 どこかで聞いた台詞だ。この人の食に対する哲学は、一貫して間違っている。


「口の中、大丈夫か」


「大丈夫ではありません」


「水」


「いただきます」


 りんご飴の屋台の前では、五分止まった。


「これは、りんごですね」


「りんごだな」


「なぜ、赤いものをさらに赤くするのですか」


「そこ疑問に思ったやつ初めて見た」


 結局買って、彼女は一口かじって、それから、飴の部分だけがごっそり取れて口の中で持て余していた。頬が片方だけ膨らんでいた。


 俺はその顔を三秒見て、それから、目を逸らした。


 ✱


 射的の屋台の前で、彼女の足が止まった。


 棚に、菓子の箱と、キーホルダーと、小さいぬいぐるみが並んでいる。


「これは、当てるのですね」


「倒したら貰える」


「奏太さん」


 人の声で埋まっているから、その呼び方でも誰にも聞こえない。


「勝負しましょう」


「またか」


「三発ずつ」


 俺はコルク銃を受け取った。彼女も受け取った。持ち方が完全に間違っていた。


「肩に当てろ。頬もつける」


「重いです」


「片手で撃つな」


 一発目、彼女のコルクは天井に当たった。


 二発目、後ろの壁に当たった。


 俺の一発目は菓子の箱をかすめて、倒れなかった。二発目も同じところをかすめた。屋台のおっちゃんが「惜しいねえ」と言った。惜しくない。台がずらしてある。


 三発目。


 俺は狙いを変えて、軽そうなキーホルダーを撃った。当たった。当たったけど、揺れただけで落ちなかった。


 澪は、構えを直した。


 肩に当てて、頬をつけて、目を細めて、それから——たっぷり十秒くらい、動かなかった。


 撃った。


 棚の端の、いちばん小さいぬいぐるみが、こてん、と後ろに倒れた。


 時間が止まった。


「……」


「……」


「当たりました」


「当たったな」


「奏太さん、当たりました」


「聞こえてる」


 彼女は俺の腕を掴んで、二回、振った。


 振ってから、自分が何をしたのか気づいて、手を離して、そのあと、離したことを後悔するみたいな顔をした。


「今、私、跳ねましたか」


「跳ねてた」


「跳ねるつもりは、ありませんでした」


「自然に出てたな」


「……恥ずかしいです」


 彼女は自分の足元を見ていた。下駄の先が、砂利を少しだけ掘っていた。


 屋台のおっちゃんが小さいぬいぐるみを渡してくれた。白い、犬みたいな、猫みたいな、なんだかよく分からない生き物だった。


「初勝利だな」


「はい」


「エアホッケー、太鼓、クレーン、アイス。全敗だったもんな」


「数えないでください」


「数えてる。全部覚えてる」


「……それ、この前も言われました」


 彼女は両手でそれを持って、しばらく見ていた。


 それから、俺に差し出した。


「差し上げます」


「え」


「奏太さんの部屋には、もう一匹います。二匹の方が、寂しくないので」


 俺は、それを受け取るのに三秒かかった。


 ✱


 石段の下の、人の少ないところで、俺はスケッチブックを出した。


「今ですか」


「今」


「暗いです」


「屋台の明かりで足りる」


 描いたのは、ぬいぐるみを両手で持っている浴衣の人と、その後ろに流れていく光の帯だった。顔は、口の端だけちゃんと描いた。


 五枚目。


 見せると、彼女は長いこと黙って、それから、小さく言った。


「今日は、綺麗に描いてくださったのですね」


「今日はな」


「なぜですか」


「今日のお前が、そういう顔してたから」


 彼女は絵を見たまま、しばらく動かなかった。


「奏太さん」


「うん」


「これは、何枚目ですか」


「五枚目」


「二十九、残っています」


「そうだな」


「二十九枚では、一冊は埋まりませんね」


「埋まらない」


「では、二冊目は、まだ先ですね」


 その言い方が、あの神社の軒下と同じだった。終わらない方がいい、という言い方だ。


 俺はスケッチブックを閉じて、鞄に入れた。


 ✱


「奏太さん」


「うん」


「花火は、上がらないのですか」


「ここは上がらない。小さい祭りだから」


「そうですか」


 少しだけ、声が落ちた。


「花火は別の日にある。川の方で、月末に。あっちはでかいぞ」


 彼女が顔を上げた。


「行けますか」


「行くだろ」


「行きます」


 即答だった。


 彼女は手帳を出して、八番の上に線を引いた。


「二十九です」


「減ったな」


「はい」


 それから、一度、参道の方を振り返った。


 人の流れと、電球の並びと、遠くの太鼓の音。全部、この人が今日初めて見たものだ。


「奏太さん」


「うん」


「来年も、来ましょう」


 あの神社の軒下で、この人は同じ言葉を途中でやめた。「では、来年も」と言いかけて、切って、雨の向こうを見ていた。


 今日は、最後まで言った。


「来るよ」


「約束ですか」


「約束」


 彼女はうなずいて、それから、両手を袖の中で組んだ。


 組んだ手が、少し揺れていた。今度は、疲れじゃない方の揺れだった。


 帰り道、駅までの十五分を、俺たちはほとんど喋らずに歩いた。


 太鼓の音が遠くなって、代わりに虫の声が戻ってきて、彼女の下駄が、一定の間隔で鳴っていた。


 黙っているのが、まったく気にならなかった。


 いつからだろう、と思った。


 思ったところで、答えは出なかった。


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