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お嬢様は俺だけの素顔を知っている ~優等生をやめた夏、彼女と本当の恋が始まった~  作者: トンエリア


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第14話 はじめての、寝坊

 前の晩の電話は、二時間を超えた。


 最初は宿題の範囲の確認だった。それが十分で終わって、そのあとの一時間五十分は、何を喋っていたのかよく覚えていない。


 覚えていないというのは、正確じゃない。断片は残っている。


 彼女の家の廊下がやたら長いという話。俺の中学の担任がいつも同じネクタイをしていた話。ピアノの発表会で一度だけ間違えて、誰も気づかなかったのに三日落ち込んだ話。犬を飼ってみたかったという話。


 どれも、後から思い出そうとすると、何の話だったのか分からなくなる種類の会話だった。


 つまり、全部が無駄話だった。


 覚えているのは、切り際の会話だけだ。


『何時にしますか』


「九時に駅前」


『九時ですね』


「早く寝ろよ」


『はい』


 その「はい」が、やけに元気だった。


 ✱


 九時五分。


 いない。


 九時十分。


 まだいない。


 俺は改札の前で、券売機の上の時計を見上げていた。この夏、この人が待ち合わせに遅れたのは一度だけで、それも五分だ。しかも本人が「遅れました」と申告してきた。


 十分は、記録更新だ。


 電話をかけた。


 呼び出し音が、十回鳴って切れた。


 もう一回かけた。同じだった。


 いちばんありそうなのは、家で止められたパターンだ。出かける直前に琴音さんに何か聞かれて、答えに詰まって、そのまま部屋に戻された。それなら連絡もできない。


 だとしたら、俺がここで待っていても意味がない。意味がないと分かっていて、俺は動かなかった。


 九時二十分。


 こういうとき、優等生の桐谷奏太なら、たぶん落ち着いて待てる。人を待つのは得意だ。待たせる方が面倒だから、いつも先に着いていた。


 落ち着けなかった。


 俺は改札の前を三往復した。


 三往復目で、自分が何をしているのか客観的に見えて、少し嫌になった。


 春までの俺は、待ち合わせに三十分遅れた相手がいたら、たぶん十五分で帰っていた。帰って、次の日に「大丈夫だった?」と笑ってやるくらいのことはした。笑ってやるのは、こっちの労力がいちばん少ない選択だからだ。


 今、俺は帰る気が一ミリもなかった。


 九時三十分。


 スマホの画面を見た。着信なし。


 もう一回だけかけて、それでも出なかったら家に行こうかと思った。行ってどうするのかは、まったく考えていなかった。


 ✱


 九時三十四分。


 改札の向こうから、人が走ってきた。


 最初、誰か分からなかった。


 白鷺院澪だった。


 髪が下りていた。まとまっていない。というか、右の後ろが完全に跳ねている。シャツの襟が片方だけ立っていて、鞄のファスナーが半分開いていて、走ってきたせいで息が上がっていた。


 俺の前で止まって、彼女は両手を膝についた。


「……お、おそく」


「まず息しろ」


「おそく、なりました」


「息、しろって」


 彼女は三回、深く吸って、それから、姿勢を正した。


 正したけど、髪が跳ねているので、正しても妙だった。


「申し訳ありません」


「何があった」


 彼女は口を開いて、閉じた。


 それから、この夏でいちばん、恥ずかしそうな顔をした。


「……寝坊、しました」


 ✱


 俺は三秒くらい、その言葉を理解するのに使った。


「寝坊」


「はい」


「お前が」


「私がです」


「起こしに来る人は?」


「起こしに来ていただく前に、自分で起きています。今まで一度も、起こされたことがありません」


「じゃあ今日は」


「今日は、琴音に起こされました。生まれて初めてです」


「怒られたか」


「いいえ」


 彼女は少し不思議そうな顔をした。


「あの人、何も言いませんでした。ただ、カーテンを開けて、『八時五十分でございます』と」


「怖い」


「怖くありません。……たぶん、面白がっていました」


「琴音さんが?」


「口の端が、少し上がっていました。三歳から見ているので、分かります」


 俺は、車の横に立っていたあの人の顔を思い出した。三秒と一秒で必要な情報を全部持っていく、あの目を。


 あの人が面白がるのは、たぶん、いいことだ。断定はできないけど。


 彼女は言いながら、自分の後頭部に手をやった。


 やって、跳ねている部分に触れて、動きが止まった。


「……髪が」


「跳ねてるな」


「跳ねていますか」


「けっこう」


「なぜ言ってくださらないのですか」


「今言った」


「もっと早く言ってください」


 彼女は両手で押さえた。押さえても戻らなかった。跳ねた髪というのは、押さえても戻らない。


 こんな基本的なことを、この人は今日初めて知ったんだと思う。


「直りません」


「直らないな」


「奏太さん」


「なに」


「これは、誰のせいですか」


「……俺じゃないだろ」


「奏太さんが、夜中まで話すからです」


「そっちが切らなかったんだろ」


「切らせなかったのは、奏太さんです」


「切っていいって言ったぞ、俺は」


「言い方が、切らないでほしそうでした」


 彼女は少し笑って、それから、押さえていた手を下ろした。


 下ろした瞬間、跳ねた部分がまた元気になった。


 ✱


 図書館は九時半から開いている。


 俺たちは二階の閲覧席の端に、向かい合って座った。宿題を広げて、三十分くらいは真面目にやった。


 でも俺は、途中から、あんまり集中できていなかった。


 目の前の人が、いつもと違う。


 髪が跳ねているだけじゃない。座り方が少し崩れている。ページをめくる速さが一定じゃない。一度、あくびを噛み殺した。


「見ないでください」


「見てない」


「見ています」


「見てない」


 彼女はシャーペンを置いて、それから、両手で顔を覆った。


「今日の私は、だめです」


「だめじゃないだろ」


「だめです。髪も、時間も、姿勢も」


「別に困ってない」


「私が困っています」


「なんで」


「見られたくない顔を、見られています」


「今さらだろ」


「今さら、ではありません」


 彼女は顔を覆ったまま言った。


「奏太さんに見られている顔は、私が選んだ顔でした。全部です。悪口の練習も、自転車も、浴衣も、全部、私が『見せてもいい』と決めた顔でした」


 俺はシャーペンを置いた。


「今日のは、選んでいません。勝手に出ています」


「……そうか」


「はい」


「それ、たぶん、いちばんいいやつだぞ」


 彼女の指の隙間から、目が見えた。


 俺は自分のノートを閉じた。


 閉じて、鞄からスケッチブックを出した。


「動くな」


「今日は、だめです」


「動くなって」


「奏太さん」


「リストにない日だけど、描く」


 彼女の手が、顔から少しだけ下がった。


「……なぜですか」


「なんとなく」


 嘘だった。


 理由はある。ちゃんとある。でも口に出したら、たぶんこの人は今日の絵を受け取らない。


 だから俺は、鉛筆を動かした。


 髪の跳ねているところを、いちばん丁寧に描いた。


 ✱


 六枚目。


 見せると、彼女は絵を見て、それから自分の髪に触れて、また絵を見た。


「これは、記録ですか」


「そう」


「私が、失敗した記録です」


「違う」


「では、なんですか」


 俺は言葉を探した。探して、うまいのが見つからなかったので、そのまま言った。


「今日、お前は寝坊した。二時間しゃべって、夜更かしして、起きられなくて、髪が跳ねたまま走ってきた」


「はい」


「それ、全部、去年のお前にはなかっただろ」


 彼女の指が、絵の端で止まった。


「……ありませんでした」


「じゃあ、失敗じゃないんだよ」


 図書館の空調の音が、やけに大きく聞こえた。


 彼女はしばらく絵を見ていて、それから、それを両手で持ったまま、少しだけ下を向いた。


「奏太さん」


「うん」


「今、泣きそうです。ご報告です」


「報告するな」


「では、黙って泣きます」


「泣くなよ」


「泣きません」


 泣かなかった。目のふちを二回押さえて、それで終わりだった。


 ✱


 帰り道、駅の手前で、彼女が言った。


「夏休みが、あと三日ですね」


「リストは」


「二十九のままです」


「四十日で八個か」


「八個です。全部やるには、あと百四十五日かかります」


「計算すんな」


「してしまいました」


 その言い方が、少しだけ乾いていた。


 百四十五日。今日から数えると、来年の一月の終わりくらいだ。


 そんな先の話をしているのに、俺は不思議と、何の心配もしていなかった。


「二学期になったら」


「うん」


「学校では、今まで通りにします」


「だろうな」


「桐谷さん、と呼びます。廊下では、目も合わせません」


「そうしてくれ。その方が楽だ」


 言ってから、自分の声が思ったより固かったことに気づいた。


 彼女も、たぶん気づいた。


 しばらく、二人とも黙って歩いた。


 信号を一つ渡った。コンビニの前を通り過ぎた。あの店じゃない、駅の反対側の別の店だ。それでも、レジのあたりを一度見てしまった。


「奏太さん」


「うん」


「九月に戻る、というのは」


「うん」


「教室での話ですよね」


「そうだろ」


「教室以外は、戻らないのですよね」


 俺は足を止めそうになって、止めなかった。


「戻らない」


「はい」


「戻す気もない」


「はい」


 二回目の「はい」の方が、少し長かった。


 それから彼女が立ち止まった。


「では、一つだけ、お願いがあります」


「なに」


「廊下ですれ違うとき」


 彼女はこっちを向いた。


 髪はまだ跳ねていた。


「少しだけ、こちらを見てください」


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