第15話 はじめての、二学期
俺は教室に入って、二学期用の桐谷奏太を組み立て直した。
「桐谷、日焼けした?」
「してない。むしろ室内にいた」
「宿題は」
「終わってる」
「見せて」
「答えだけな」
いつも通りの会話。いつも通りの笑い方。口角は上げすぎず、目を三割。四十日ぶりなのに、体が全部覚えていた。
覚えているのが、少し気持ち悪かった。
体育館では、校長が三分の話を十二分でやった。俺は後ろから四列目で、背筋を伸ばして、たぶん誰よりもちゃんと聞いている顔をしていた。実際には、二組の列の三番目あたりを一度も見ないようにするのに集中していた。
見ないようにする、というのは、位置を正確に把握していないとできない。
つまり俺は、把握していた。
✱
三時間目と四時間目の間に、廊下ですれ違った。
白鷺院澪は、二組の教室から出てきて、女子二人と話しながら歩いていた。背筋が伸びていて、あごの角度が一度だけ下がっていて、口の端が音もなく上がっている。
完璧な微笑みだった。
夏休みの四十日が、全部なかったことになったみたいな顔だった。
俺は反対側の壁際を歩いた。
二メートル。一メートル。
——見なかった。
目を、床のワックスの継ぎ目に落とした。
すれ違って、五歩進んで、それから、自分が何をしたのか理解した。
昨日の夜、はっきり頼まれたことだった。少しだけ、こちらを見てください、と。
俺は、それを一回目で守れなかった。
守れなかった理由は分かっている。あの完璧な微笑みの中に、俺だけが知っている顔がどこかに混ざっていたら、たぶん俺の方が持たなかった。
守らなかったんじゃなくて、逃げた。言い方を変えても、やったことは同じだ。
✱
昼休み。
俺は購買の列に並んでいた。
並びながら、階段の方を見ていた。三階から降りてくる人の流れの中に、目立つのが一人いる。
白鷺院澪だ。
購買に来ることなんて、たぶんこの人は一度もない。弁当は毎朝、家で作られている。
なのに今日は、こっちに向かって歩いてくる。
階段の踊り場で、彼女は一度止まった。
止まったというか、止められた。前を歩いていた集団が踊り場で固まって、後ろが全部詰まっていた。始業式の日の昼は、どこもかしこもこうなる。
三秒くらいして、流れがほどけて、彼女はまた降りてきた。
九番、購買で、パンを買う。
昨日の夜の電話で聞かされた。一人でやります、と言われた。危ないから見ているだけにしてください、とも言われた。危ないって何がだよ、と思ったけど、今、意味が分かった。
昼の購買は戦場だ。
パンの数は決まっていて、人の数は決まっていない。列は前から順に減っていくわけじゃなくて、三年の集団が横から入ってきて、まとめて六個持っていく。それが日常だ。誰も文句を言わない。文句を言うより買えなくなる方が痛いからだ。
彼女は列の最後尾に並んだ。並び方が完璧だった。等間隔で、まっすぐで、他人の背中との距離を三十センチきっちり空けている。
三十センチは、この時間の購買では広すぎる。
案の定、横から入られた。
彼女の前に、二年の男子が二人、当たり前みたいに割り込んだ。
彼女は何も言わなかった。半歩下がって、また等間隔に並び直した。
……あの、おい。
俺は自分の列を離れそうになって、止まった。
見ているだけにしてください、と言われている。
二人目に割り込まれたところで、彼女の肩が少しだけ動いた。息を吸ったんだと思う。
それから、彼女は一歩前に出た。
割り込んだ男子の横に、きっちり体を入れた。
「すみません。私、こちらに並んでおりましたので」
声は、いつもの完璧な声だった。丁寧で、落ち着いていて、隙がない。
男子二人が振り返って、それが誰か認識して、たぶん三秒くらい固まった。
「あ、いや、悪い、白鷺院さん」
「いえ。ご存じなかったのだと思います」
完璧な微笑み。
列が、静かに元に戻った。
俺は自分の場所で、ずっと拳を握っていたのに気づいて、開いた。
✱
放課後の旧音楽室。
ドアが開いて、白鷺院澪が入ってきて、俺の前まで来て、それから、鞄からパンを出した。
焼きそばパンだった。
「買えました」
「買えたな」
「二百十円でした」
「知ってる」
「レシートは出ませんでした」
「購買は出ないんだよ」
「……残念です」
この人、レシートを集める趣味を確立しかけている。
「なんで焼きそばパンにしたんだ」
「残っていたのが、これと、あんパンでした」
「あんパンは」
「奏太さんが、以前『パンに何か挟まっているのが正しい』と言っておられました」
「言ったっけ」
「言いました。コンビニの日です」
覚えていない。この人は、俺が捨てた言葉を全部拾って持っている。
彼女は椅子に座って、パンを両手で持って、それから、俺を見た。
「奏太さん」
二人きりになった瞬間に、呼び方が戻る。この切り替えの速さは、たぶん俺よりこの人の方が上手い。
「なに」
「今日、廊下で三回すれ違いました」
「……三回か」
「三回です。数えました」
「数えるなよ」
「奏太さんは、二回、見てくださいました」
俺は動きを止めた。
「見てないだろ」
「見ました。二回目と三回目です。一回目だけ、床を見ておられました」
「……」
「私、床を見ている奏太さんを見ていました」
この人は、俺が思っている三倍くらい、俺を見ている。
✱
「一回目、なんで見なかったか教えてやろうか」
「はい」
「見たら顔に出ると思ったから」
「顔に、何が出るのですか」
「……それは」
「では、練習——」
「練習だろ。分かってる。先に言うな」
彼女は口を開けたまま止まって、それから、少し不服そうな顔をした。
「先回りされると、面白くありません」
「三回目だからな、その手」
「四回目です。悪口と、タメ口と、名前と、今日で」
数えられていた。全部。
俺は椅子の背にもたれて、天井を見た。ひび割れが一本、去年より少し伸びている気がする。
「明日から、ちゃんと見る」
「一秒でよいのです」
「一秒な」
「一秒でも、長いと思われるようでしたら、〇・五秒でも」
「そこ交渉するとこじゃない」
「では、一秒で」
「最初からそう言ってるだろ」
「値切られると思ったので、先に多めに言いました」
「駆け引き覚えるなよ」
彼女は焼きそばパンの袋を、丁寧に開けた。開け方に苦戦していた。あの袋は、力の入れどころが独特だ。
✱
「奏太さん」
「うん」
「教室の奏太さんは、私の知らない人です」
パンを一口食べてから、彼女はそう言った。
「そりゃそうだろ。作ってるんだから」
「はい。分かっています」
「じゃあ何が」
「……あの人のことも、知りたいと思ってしまいました」
俺は自分の手元を見た。何も持っていなかった。
「欲張りでしょうか」
「欲張りだな」
「そうですか」
「でも、まあ」
俺は言葉を選ぼうとして、選ぶのをやめた。
「あっちも俺だから、勝手に知ればいいだろ」
「よろしいのですか」
「よくはない。見られたら嫌だし、たぶん今も嫌だ」
「では」
「でも、嫌なのと、見るなっていうのは、別だろ」
彼女は少し笑って、それから、パンをもう一口食べた。
その顔が、教室で見た顔とは全然違っていた。同じ人が、四時間の間に二つの顔を持っている。俺が三年かけて作ったものを、この人は生まれたときから持たされていて、今、それを一日に何度も脱ぎ着している。
器用になったんじゃない。二つ持っていられるようになっただけだ。
俺はスケッチブックを開いた。
「動くな」
「食べています」
「食べたままでいい」
描いたのは、椅子に浅く座って焼きそばパンを持っている人だった。制服のリボンが少し曲がっていて、それも直さずに描いた。
七枚目。
「これは、綺麗ではありません」
「そのシリーズもう飽きたわ」
「では、なんと言えば」
「うまく描けてる、でいい」
「うまく描けています」
「素直か」
✱
校門を出たところで、後ろから肩を叩かれた。
「桐谷」
三好大地だった。
「なんだよ」
「いや、別に」
あいつは自転車を押しながら、俺の横に並んだ。
しばらく黙って歩いて、それから、前を向いたまま言った。
「昼、購買にいただろ」
「いたけど」
「白鷺院さんが割り込まれてたとき、お前、すごい顔してた」
……見られていた。
「気のせいだろ」
「気のせいならいいけど」
大地は自転車のハンドルを一度、握り直した。
「あとさ」
「まだあんの」
「あの人も、たまにお前の方見てるぞ」
俺は足を止めそうになって、止めなかった。
「……いつから」
「一学期の終わりくらいから、かな」
あいつは俺の顔を見て、それから、なぜか少し笑った。
「別に言いふらさないから安心しろよ」
「言いふらすようなことはない」
「そういうことにしとくわ」
大地は自転車に跨がって、片手を上げて、そのまま行ってしまった。
俺はしばらく、その後ろ姿を見ていた。
一学期の終わり。
……そんな前からか。
旧音楽室で悪態を聞かれたのが、終業式の少し前だ。あのとき俺は、見つかったと思っていた。偶然に見つかって、弱みを握られて、それで妙な取引が始まった。ずっとそう思っていた。
偶然じゃなかったのかもしれない。
偶然じゃなかったとして、それを本人に聞く度胸は、今のところない。
俺は鞄の紐を掛け直して、歩き出した。




