第16話 はじめての、放課後
二学期が始まって、一週間が経った。
俺は毎朝、廊下で一秒だけ白鷺院澪を見る。
最初の日は、心臓がうるさかった。三日目には慣れた。五日目には、一秒が短すぎると思うようになった。
人間の慣れる速度というのは、たぶん、想像よりずっと速い。
六日目の朝、すれ違いざまに、向こうの口の端が動いた。動いたと言っても少しだけだ。周りの誰も気づかない。俺だけが気づいて、そのあとしばらく、まともに黒板を見なかった。
この取り決めを提案したのは向こうだ。
こっちの方が明らかに損をしている気がする。
教室での俺は、たぶん一学期と何も変わっていない。宿題を見せて、笑って、だるい当番を引き受ける。田辺の話に相槌を打つ回数も、たぶん去年と同じだ。
変わったのは、一日に一回だけ、演技をしていない時間が挟まることだ。
一秒。廊下で。
その一秒のために、残りの三百何十分をやっている感じがしてきて、俺はそれを認めるのをやめた。
✱
放課後の旧音楽室。
俺が着いたとき、彼女はもう椅子に座っていた。最近、先に来ていることが増えた。生徒会が長引かない日は、掃除の時間から抜けてくるらしい。
「奏太さん」
「なんだ」
「今日、迎えを断りました」
俺は鞄を置く手を止めた。
「断ったって、どうやって」
「電話で、歩いて帰りますと言いました」
「琴音さんは」
「三秒、黙りました」
あの人の三秒は長い。第一印象で分かる。あの人は三秒で、必要な情報を全部持っていく。
「それで」
「『承知いたしました』と」
「それだけ?」
「それだけです。……ただ、切る前に、『雨が降りましたら、ご連絡ください』と」
俺はその台詞を、頭の中で三回くらい再生した。
止めてもいいし、理由を聞いてもいい場面だ。あの人はどっちもしなかった。かわりに、傘の心配だけをした。
「琴音さん、何か言うと思ったか」
「思いました。『どなたと』と聞かれると」
「聞かれたら、なんて答えるつもりだったんだ」
「答えが出ませんでした。ですので、聞かれなくて助かりました」
この人は、嘘をつくのが下手なままだ。夏の初めに一度ついて、それきり上手くなっていない。
彼女は手帳を開いた。開いて、こっちに向けた。
十、誰かと、一緒に帰る。
「これ、まだ残ってたのか」
「残っていました。九番より前に書いた項目です」
「一緒に帰る、って」
「学校から、家の方向へ、二人で歩くことです」
「意味は分かる」
「では、何を聞かれたのですか」
俺は言葉に詰まった。何を聞きたかったのか、自分でもよく分からなかったからだ。
たぶん、確認したかったんだと思う。この人が十六年間、誰とも一緒に帰ったことがないという事実を、もう一度。
「……いや。行こう」
✱
問題は、出るタイミングだった。
校門を並んで出るのは無理だ。二学期の取り決めは、まだ生きている。
「先に出てくれ。俺は五分後に出る」
「五分ですか」
「一緒に帰るところを見られるとまずい」
彼女は少し笑って、それから、鞄を持って立ち上がった。
ドアのところで一度振り返って、「郵便局の角で」と言った。
その言い方が、やたら手慣れて聞こえた。この人、こういうのを覚えるのが早い。悪い方に早い。
✱
郵便局の角に、彼女は立っていた。
立っているだけなのに、なんというか、目立つ。背筋のせいだ。
「お待たせしました」
「待ってないだろ、五分だぞ」
歩き出した。
二人並んで、歩いた。
それだけだった。
商店街の手前を左に曲がって、川沿いの道に入って、そこからは家がずっと続いている。誰の家か知らない家が、右にも左にもある。
喋ることが、特になかった。
彼女も喋らなかった。
夏の終わりの風が、まだ少し熱を持っていて、そのくせ夕方だけは急に涼しくなる。自転車が一台、後ろから追い越していった。
「奏太さん」
「うん」
「これで、合っていますか」
「何が」
「一緒に帰る、というのは、これで合っていますか。……何も、していませんが」
「合ってる」
「本当ですか」
「これが全部だよ。一緒に帰るって、これしかない」
「もっと、話すものだと思っていました」
「話すやつもいるけどな。俺は帰り道でしゃべるの、あんまり得意じゃない」
「意外です」
「教室と外は別なんだよ」
「では、今は外なのですね」
「外だな」
彼女は少し考えるみたいに、二歩ぶん黙った。
「あの家の犬は、いつもあそこにいるのですか」
塀の内側から、茶色いのが顔を出していた。俺たちを見て、尻尾を二回振って、それきり動かない。
「いつもいる。吠えないやつだ」
「名前をご存じですか」
「知らないだろ、他人の家の犬の名前なんて」
「三年、通っておられるのに」
「三年通っても知らないものは知らないんだよ」
自己申告の速度が早い。
彼女はしばらく黙って歩いた。
それから、前を向いたまま言った。
「では、私は今、正しく帰っているのですね」
✱
川沿いを抜けたところで、前方に二組の女子が二人いた。
気づいたのは俺の方が先だった。
「白鷺院さん」
名字で呼んで、顎で前を示した。
彼女の反応は速かった。半歩下がって、俺の右側から、俺の後ろへ。
俺は歩幅を少しだけ広げた。
二人は自販機の前で立ち話をしていて、こっちを見なかった。俺たちは十メートル後ろを、そのまま通り過ぎた。
角を曲がって、視界から消えて、それから、彼女が息を吐いた。
「……心臓が」
「言うなよ、こっちも同じだから」
「奏太さんは、平然としておられました」
「顔だけな」
彼女は鞄の紐を、両手で握り直していた。
握り直して、それから、なぜか笑い出した。
「なんで笑うんだよ」
「分かりません。おかしいのです、今」
「おかしくはないだろ」
「悪いことをしている感じがします」
「してないだろ、帰ってるだけだぞ」
「していない、というのが、いちばんおかしいです」
その理屈は、たしかに正しい。
✱
川沿いの道の終わりに、短い坂がある。
登り切ると、街が半分くらい見える。俺は毎日この坂を使っているので、何とも思わない。
途中で、彼女が立ち止まった。
「どうした」
「景色を見ています」
振り返ると、たしかに見えた。屋根と、電線と、その向こうに川。日が傾いて、川の水面だけが白く光っている。
毎日通っていて、俺は一度もちゃんと見たことがなかった。
「言われてみれば、いい景色だな」
「はい」
彼女はもう少しそこにいて、それから、また歩き出した。
俺はスケッチブックを出そうとして、やめて、坂を登り切ってから出した。
「動くな」
「また、ですか」
「また」
描いたのは、坂の上に立って下を見ている人だった。制服のスカートの裾が少し風で動いていて、その動いた分まで描いた。
八枚目。
「これは、私ですか」
「他に誰がいるんだよ」
「顔が、描かれていません」
「後ろ姿だからな」
「顔がなくても、私だと分かります」
「分かるように描いたんだよ」
「そういうことを、平然と言われます」
彼女は絵をしばらく見て、それから、両手で返してきた。
返し方が、いつもより丁寧だった。
✱
駅前で別れる前に、彼女が手帳を出した。
十番に、線が引かれた。
「二十七です」
「減ったな」
「はい」
それから、手帳を閉じずに、少しめくった。
「奏太さん」
「うん」
「来月、体育祭があります」
「あるな」
「私、走るのが、たぶん遅いです」
「たぶんじゃないだろ」
この人、自分の運動能力について、いまだに希望を捨てていない。エアホッケーで五連敗した人間の言うことじゃない。
「で、それがどうした」
「リストに、書き足そうと思います」
「書き足すのアリなのか」
「私が書いたので、私が足せます」
理屈が強い。追い詰められたときの澪は、いつもこうだ。
「なんて書くんだ」
「まだ、決めていません」
彼女は改札の手前で立ち止まって、こっちを向いた。
夕方の光が、ホームの方から斜めに入ってきていた。
「決まったら、いちばんに言います」
「聞いてやる」
「聞くだけですか」
「……走るのは、無理だな」
「一緒に走ってくださいとは、言っていません」
「じゃあ何だよ」
「見ていてください、と言おうとしました」
言って、彼女は改札を通っていった。
通ってから、一度だけ振り返って、それから、前を向いた。
俺はその場に少し立っていて、それから、来た道を戻った。
同じ坂を、もう一度登った。
今度は、ちゃんと立ち止まって、下を見た。




