第17話 はじめての、体育祭
「決まりました」
彼女は手帳を開いて、こっちに向けた。
新しい行が一つ、増えていた。前の項目より字が少し大きい。
十一、人に、ものを借りる。
「……借りる?」
「はい」
「借りたことないのか」
「忘れ物をしたことがないので」
彼女は手帳を閉じずに、膝の上に置いた。
「で、それを体育祭でやるのか」
「借り物競走があります」
「あー」
「一年に一度だけ、人からものを借りることが、競技として認められています」
「そこまで構えなくていいと思うぞ」
「構えます」
彼女は少し胸を張った。
「立候補しました」
「立候補?」
「はい。生まれて初めて、手を挙げました」
✱
次の週の火曜、三時間目。
うちのクラスは教室で自習だった。窓からグラウンドが見えて、二組が体育をやっていた。
白鷺院澪は、体操服のまま、テントの下の椅子に座っていた。
見学だ。
二組の女子が一人、テントまで走っていって、彼女に何か渡していた。水筒だと思う。彼女は受け取って、頭を下げていた。
その動きは、いつもの完璧なやつだった。
だから俺は、そこで見るのをやめた。
放課後に聞いたら、あっさり答えが返ってきた。
「昨日、あまり眠れませんでした」
「緊張してんのか」
「していません」
「してるだろ」
「……少し、しています」
「まだ暑いしな。無理してぶっ倒れられても困る」
「倒れません」
「倒れるやつはみんなそう言うんだよ」
彼女は少し口をとがらせて、それから、姿勢を正した。
「本番前日はしっかり、寝ます」
✱
当日は晴れた。
昼休み、俺は自分のクラスのテントの端で弁当を食べていた。
グラウンドの入口の方に、紺のスーツが見えた。
早坂琴音だった。
お弁当箱を持って、二組のテントの前で、白鷺院澪に渡している。距離があるので、何を話しているかは分からない。
琴音さんは十秒くらいで用を済ませて、それから、帰る前に、一度だけこっちを見た。
俺の方だ。
目が合った。
あの人は表情を変えなかった。頭も下げなかった。ただ、見て、それから普通に歩いて出ていった。
俺は箸を止めていたことに、しばらくしてから気づいた。
夏の初めに車の横で測られたときは、あの目が怖かった。今日のは、少し違った。何も測られていない感じがした。
✱
借り物競走は、午後の三種目目だった。
四人ずつ走る。二十メートル先の箱から札を一枚取って、書いてあるものを借りてきて、ゴールを通る。
白鷺院澪が出てきたとき、グラウンドが少しざわついた。
俺は自分のクラスのテントの前に立っていた。
声は出さなかった。出せば周りから注目される。
だから、見るだけにした。言われたとおりに。
スタートの音が鳴った。
遅い。二十メートルで、もう三番目だった。
箱に手を突っ込んで、札を一枚引いて、立ち上がって、それを見た。
そこで、止まった。
二秒くらいだと思う。他の三人はもう散っていて、彼女だけがトラックの真ん中に立っていた。
それから、顔を上げた。
まっすぐこっちを見た。
✱
……嘘だろ。
彼女は走ってきて、うちのクラスのテントの前で止まって、いつもの完璧な角度で頭を下げた。
「桐谷さん」
周りの空気が、一段静かになった。
「お借りしたいものがあります」
俺の左で誰かが「おお」と言った。右で誰かが笑った。借り物競走だから、誰も変には思わない。思わないはずだ。
「なに」
彼女は札をこっちに向けた。
黒いマジックで、太く、こう書いてあった。
たからもの。
時間が、二秒くらい飛んだ。
その二秒で、俺の頭は割と冷静に動いていた。財布。時計。持っていない。家の鍵。違う。ここにあるもので、それに当たるものは。
考えるまでもなかった。
考えるまでもなかったから、たぶん、これは答えだった。
俺は鞄からスケッチブックを出した。
彼女の表情が、初めて止まった。
「……よろしいのですか」
「持ってけ」
「中に」
「知ってる。俺が描いたんだから」
言い方が、思ったより雑になった。雑にしないと言えなかった。
彼女は両手で受け取って、それを胸の前で抱えた。
抱え方が、異様に慎重だった。あの角度では絶対に開かない。あれは、開かないように抱えている持ち方だ。
走っていった。
腕が使えないので、さらに遅くなった。
✱
ゴールの手前で、係の三年生が言った。
「借りたもの何? あ、それ中——」
彼女は止まった。
止まって、背筋を伸ばして、それから、あの声を出した。
「スケッチブックです。札の指定は、借りることです。中身の確認は含まれておりません」
係の三年生が、少し固まった。
「あ……はい。ゴール」
実況の生徒がマイクで言った。
「たからもの、スケッチブックだそうです」
テントのどこかで笑いが起きた。
スケッチブックがたからもの。何かの冗談として処理されて、それで終わった。
あのグラウンドで、それが本当のことだと知っていたのは、二人だけだった。
✱
「桐谷、絵描くの?」
隣で大地が言った。
「昔な」
「へえ」
あいつはそれ以上聞かなかった。聞かなかったけど、たぶん、忘れてもいない。
✱
放課後の旧音楽室は、閉会式のあとの人の流れが引くまで待ってから入った。
彼女は椅子に座って、体操服のままだった。着替える時間がなかったらしい。
机の上に、スケッチブックが置いてあった。
「お返しします」
「おう」
「四人中の、四着でした」
「見てた」
「抱えていたので、腕が振れませんでした」
「そりゃそうだろ」
「……悔しいです」
「借りるのは一番だったろ」
「借りるのは、いちばんでした」
彼女はスケッチブックの表紙に、指を置いた。
「開けませんでした」
「知ってる」
「一度も、です」
「開けていいって言ってないからな」
「……はい」
✱
「なあ」
「はい」
「他にもいただろ」
「はい」
「箱のとこから見て、二組のテントの方が近かった」
「近かったです」
「じゃあ、なんでこっち来たんだ」
彼女は膝の上で手を組んで、それから、ほどいた。
「札を見たとき、1番に思い浮かびました」
俺は天井を見た。ひび割れが一本、去年より少し伸びている気がする。
「……こっちも同じだ」
「はい?」
「すぐ何を出すか選ばされたら、嘘つけないんだって、初めて知った」
彼女は何も言わなかった。
言わないまま、スケッチブックを、指先で少しだけこっちへ押した。
「奏太さん」
「なんだ」
「あれを抱えて走っているあいだ、少しだけ、自分のものだと思っていました」
「……返してもらったけどな」
「返しました。返さなければならないので」
彼女はそこで一度、言葉を切った。
「返したくは、ありませんでした」
✱
俺はスケッチブックを開いて、鉛筆を出した。
「動くな」
「今日は、走りました。ひどい顔をしています」
「知ってる」
描いたのは、スケッチブックを両手で抱えて走っている人だった。
腕が体に固定されていて、走り方として完全に間違っている。それでも、抱えているものだけは絶対に落とさない角度になっている。
九枚目。
「これを描いたのも、これですね」
「そうだな」
「私が抱えて走ったものの中に、私が抱えて走っている絵が入りました」
「ややこしい言い方するな」
彼女は絵を両手で持って、しばらく見ていた。
返し方が、いつもより丁寧だった。
✱
彼女は鞄の横に置いてあったお弁当箱を見た。
「私が作ったものではありません」
「だろうな」
彼女は顔を上げた。
体操服の襟が少し曲がっていて、髪もまだ直っていなかった。
「奏太さん」
「なんだ」
「今度、私が作ったものを、食べていただけますか」




