第18話 はじめての、お弁当
「十二番です」
次の日、旧音楽室で、彼女は手帳を開いた。
十二、自分で作ったものを、誰かに食べてもらう。
「昨日の今日かよ」
「決めたことは、早い方がよいので」
「作れるのか」
「作れません」
即答だった。
「ですので、教わります」
「誰に」
「琴音に頼みました」
「もう頼んだのかよ」
「昨日の夜に。『かしこまりました』と言われました」
彼女は少し不服そうだった。理由を聞かれるつもりで、全部用意していったんだと思う。
✱
その週の土曜の夜、電話が鳴った。
『三日間、教わりました』
「順調か」
『一日目は、卵を割るところからでした』
「割るところから」
『殻が入りました。琴音が箸で取ってくれました。あれは、道具を使えば取れるのですね』
「まあ、取れるな」
『二日目は、お米でした。研ぐのは、力を入れないのだそうです。私は最初、強く洗いすぎて怒られました』
「怒られたのか」
『「そこまでなさらなくても結構でございます」と言われました。』
『三日目は、詰め方です。ご飯を先に入れて、冷ましてから蓋をします。温かいまま閉じると、水が出るそうです』
「詳しくなってんな」
『卵焼きは、今日で七回目でした』
「七回」
『六回目までは、形になりませんでした。七回目に、琴音が後ろから箸を持ってくれました』
あの人が手を出したのか。
『そうしたら、できました。自分の手でやったのに、自分の力ではありませんでした』
「一回できたら、次は一人でできるんだよ」
『そうでしょうか』
「そういうもんだ」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。この人は何をするにも記録を取る。
『……八回目は、一人でやってみます』
✱
週明けの昼休み。
旧音楽室のドアが開いて、彼女が入ってきた。
両手で、布に包んだものを持っていた。持ち方が、体育祭の日と同じだった。
「お待たせしました」
「早いな」
「四時間目の終わりに、荷物をまとめておきました」
彼女は机に置いて、結び目をほどいた。
弁当箱が二つ出てきた。
「二段か」
「一つは、私のです」
そうだった。この人も食べるんだ。
蓋を開けた。
卵焼きが四切れ。ウインナーが三本。ブロッコリーが二つ。ご飯の上に、ごまが振ってある。
地味だった。地味だけど、ちゃんと弁当の形をしていた。
「……お」
「何もおっしゃらないでください」
「まだ何も言ってない」
「顔で言っておられます」
✱
俺は卵焼きを一切れ食べた。
普通だった。
甘くて、少ししょっぱくて、端の方が少し固い。切った幅が全部違うので、四切れとも食感が違う。
でも、卵焼きだった。ちゃんと卵焼きの味がした。
「普通にうまい」
彼女の動きが止まった。
「……普通」
「うん、普通」
「普通、ですか」
「普通だろ。文句あんのか」
彼女は箸を持ったまま、しばらく黙っていた。
それから、小さい声で言った。
「私、普通と言われたのは、初めてです」
俺は口の中のものを飲み込んだ。
言われてみれば、そうだ。
この人に貼られてきた言葉は、たぶん全部、普通の反対側にある。完璧。優秀。立派。よくできました。
普通にうまい、と言われたことは、一度もなかったんだろう。
「そんな喜ぶとこか」
「喜んでいます」
「顔に出てないぞ」
「……嘘です」
「嘘じゃない。目のとこ」
彼女は反射で目の下に指を当てて、それから、当てたことを後悔する顔をした。
✱
ウインナーは、足が三本しかなかった。
「これ、タコにしようとしたろ」
「しました。切り込みは八本入れました」
「五本どこ行った」
「浅かったようです」
「まあ、開くやつだけ開いたんだろ」
「不公平です」
「タコに公平もクソもないだろ」
ブロッコリーは、少し柔らかかった。
「これ、何分やった」
「三分と教わりました。……四分半、やりました」
「なんで一分半足した」
「不安だったので」
「聞けよ、隣にいたんだろ」
「聞きました。『三分でございます』と言われました」
「じゃあ三分だろ」
「それでも、不安でした」
この人は、人の言うことは信じるけど、自分の手だけは信じない。
✱
俺は最後の一口を食べて、蓋を閉めた。
「食えよ、そっちも」
「気になります」
結局、彼女が自分の分に手をつけたのは、俺が箸を置いたあとだった。
一口食べて、彼女は少し首をかしげた。
「……端が固いです」
「固かったな」
「言ってくださればよかったのに」
「言ったら直せんのかよ、今」
「直せません。ですが、知っておきたいです」
「じゃあ言う。端が固い。あと、ブロッコリーが柔らかい」
「はい」
「ウインナーの足は三本」
「それは、もう聞きました」
彼女はメモを取ろうとして、鞄に手を伸ばしかけて、やめた。
「覚えます」
✱
「奏太さん」
「うん」
「十二番のことですが」
「消せよ。食っただろ」
「『普通』では、消せません」
「面倒くさいなお前」
「面倒くさいです」
彼女は箸を置いて、こっちを見た。
「おいしい、と言われたら、消します」
「言わせにきてるだろ、それ」
「言わせにきています」
まっすぐ言うな。
俺は椅子の背にもたれて、天井を見た。ひび割れが一本、去年より少し伸びている気がする。
「……うまかったよ」
「はい」
彼女は手帳を出して、線を引いた。
「二十五です」
「減ったな」
「はい」
✱
描いたのは、蓋を開けた弁当箱を挟んで、正面に座っている人だった。
背筋は伸びている。手は膝の上。目だけが、明らかに落ち着いていない。
十枚目。
「これは、私が緊張している絵です」
「そう見えるように描いた」
「消してください」
「無理だな」
「なぜですか」
「今日のお前が、そうだったから」
彼女は絵を両手で持って、しばらく見ていた。
それから、机に置いて、指で少しだけこっちに押した。返すときの、いつもの動きだった。
✱
帰り道、いつもの川沿いで、彼女の歩くのが遅かった。
俺は二回、歩調を落とした。
「疲れてんのか」
「今日は、朝が早かったので」
「何時」
「五時です。五時に起きて、六時から作りました」
「二時間かかったのか」
「卵焼きに、一時間かかりました」
「一時間で四切れかよ」
「三回、作り直しました」
「琴音さん、朝もいたのか」
「いました。私より先に、台所にいました」
「手伝ってもらったのか」
「一度だけです。火加減のときに、『今でございます』と」
あの人は、必要なところにだけ一言置いていく。
「あと」
「うん」
「昨日の夜、聞かれました。『お二つ、お作りになりますか』と」
俺は前を向いたまま、少しだけ笑った。
「二つって言ったのか」
「言っていません。……聞かれる前から、材料が二人分ありました」
あの人は、理由を聞かない。聞かないかわりに、全部見ている。
✱
坂の下で、彼女が立ち止まった。
「奏太さん」
「なんだ」
「作っているあいだ、ずっと、奏太さんのことを考えていました」
「……いきなり言うな」
「ご報告です」
「報告するな」
「では、黙っていればよかったですか」
「……よくない」
彼女は少しだけ笑って、それから、鞄を持ち直した。
✱
別れる前に、思い出したように彼女が言った。
「奏太さん」
「まだあんのか」
「あの二匹は、まだお部屋にいますか」
白い犬と、名前の分からない生き物。ゲームセンターと、夏祭りだ。
「いるけど」
「どんな並びですか」
「並びって」
「隣同士ですか。それとも、離れていますか」
「……隣だよ」
彼女は少し黙った。
「見てみたいです」




