第19話 はじめての、部屋
「十三番です」
次の日、彼女は手帳を開いて、こっちに向けた。
十三、人の家に、遊びに行く。
「昨日の今日かよ」
「決めたことは、早い方がよいので」
「その台詞、二回目な」
「気に入っています」
俺は手帳の行を、もう一度見た。
「遊びに行ったこと、ないのか」
「ありません……」
✱
問題は、こっちの家だった。
俺の部屋は、そこまで汚くはない。汚くはないけど、人が来る前提で置かれているものが一つもない。
前の日の夜、二時間かけて片づけた。
教科書を立てて、床のものを棚に上げて、椅子を拭いた。ゴミ袋が一つ埋まった。
押し入れの奥から、中学のときのスケッチブックが出てきた。
中は見ないで、そのまま奥に戻した。
✱
土曜の午後、駅で待ち合わせた。
彼女は私服だった。白いシャツと、紺のスカート。派手ではないけど、明らかに一つ一つが高い。
「その格好で来るのか」
「変ですか」
「変じゃない。……そのへんの家に行く格好ではないな」
歩きながら、彼女は同じ手を二回、髪にやった。
「琴音さんには」
「言いました」
「なんて」
「お友達の家に伺いますと」
「止められなかったのか」
「『何時にお迎えにあがりましょう』と聞かれました」
止めるつもりが、最初からなかったということだ。
「なんて答えた」
「六時と申し上げました」
✱
うちの玄関の前で、彼女は立ち止まった。
表札を見て、俺の顔を見て、それから、また表札を見た。
「桐谷、と書いてあります」
「そりゃそうだろ」
「奏太さんの、家です」
「他に誰の家だと思ったんだよ」
彼女は一度、深く息を吸った。
「……おじゃまします」
「まだ開けてない」
「練習です」
開けた。彼女はもう一度、同じ声で言った。
母は仕事で夕方まで帰らない。台所のテーブルに、麦茶を出しておけ、という書き置きがあった。
✱
階段の途中で、彼女が止まった。
「どうした」
「写真を見ています」
壁に、小さいのが三枚かかっている。俺が幼稚園のやつと、中学の入学式のやつと、あと一枚は祖父母だ。
毎日通っていて、俺はもう十年くらいちゃんと見ていない。
「これは、奏太さんですか」
「入学式のやつな」
「顔が、今と同じです」
「変わってないんだよ、昔から」
「かわいくありません」
「けなしに来たのか」
「ほめています」
どこがだ。
✱
部屋に入って、彼女は真ん中で立ったまま、ゆっくり首を回した。
二匹が並んでいる。
白い犬と、犬だか猫だかよく分からない方。
「隣です」
「隣だよ」
「間が、少し空いています」
「そこは気にするとこか」
彼女は机まで行って、二匹の間隔を指先で詰めた。
詰めてから、少し下がって、確認した。
「これで、寂しくありません」
「名前は」
「ないだろ、ぬいぐるみに」
「白い方は、犬です」
「そうだな」
「もう一方は、何ですか」
「分からん」
彼女はしばらく、その分からない方を見ていた。
「では、犬でよいと思います」
「いいのかよ」
「二匹とも犬なら、揃います」
理屈が雑になってきた。この人は、勝手に決めていいと分かった瞬間、急に大胆になる。
「名前を、つけてもよろしいですか」
「つけろよ。俺のだけど」
「白い方が、シロ」
「安直だな」
「もう一方が、クロ」
「白いだろそいつも」
「では、ハイイロです」
「濁ってきたな」
結局、白い方がシロで、もう一方はハイイロになった。
俺の机の上の生き物に、たった今、名前がついた。
✱
麦茶を二つ持って上がった。
彼女は座布団の上に、きちんと座っていた。正座だった。
「足、崩せよ」
「崩し方が分かりません」
「崩し方って」
「どのくらい崩すのが、正しいのですか」
「正しさはないんだよ、それ」
結局、彼女は横に足をずらして、その形で落ち着いた
麦茶のコップに、氷が三つ入っている。
彼女は氷を一つ、口に入れた。入れてから、こっちを見た。
「奏太さん」
「なんだよ」
「氷は、食べてよいものですか」
「よくはないけど、みんな食ってる」
「よかったです。もう食べてしまいました」
✱
宿題を広げた。
広げたけど、一時間で進んだのは半分くらいだった。俺の方がだ。彼女は普通に終わらせて、そのあと俺のノートを覗いていた。
「そこ、写してるだけになっています」
「見るなよ」
「見えます」
彼女はシャーペンを置いて、部屋をもう一度見回した。
「静かですね」
「うるさい家じゃないからな」
「私の家も、静かです。……ですが、種類が違います」
「どう違うんだ」
「うちは、音を立てないようにして静かです。ここは、そのままで静かです」
✱
彼女は棚の一段を見つけた。
スケッチブックが並んでいる。今使っている一冊と、その手前に、古いのが何冊か。
「たくさん、ありますね」
「昔のな」
「見せていただけますか」
俺は麦茶を置いた。
置いてから、自分の声が少し固くなるのが分かった。
「それは、いつか」
彼女はこっちを見た。
見て、それ以上は何も言わなかった。
「……悪い」
「いいえ」
「言い方が」
「言い方は、いつも通りでした」
そういう嘘は上手くなったのか。
「待ちます」
彼女はそれだけ言って、棚から目を離した。
✱
描いたのは、俺の部屋の床に座っている人だった。
背景に、机と、積んだ本と、二匹。
人がいるはずのない場所に、人がいる絵になった。
十一枚目。
「これは、私の部屋ではありませんね」
「俺の部屋だな」
「私が、入っています」
「入ってるだろ、今」
彼女は絵をしばらく見て、それから、返してきた。
「この絵は、ここに置いておけませんか」
「置いてどうすんだよ」
「私が帰ったあとも、私が、ここにいます」
✱
五時半を過ぎた。
彼女は膝の向きを直して、それから、直したまま動かなかった。
「時間、あれだろ」
「はい」
「迎え、六時だろ」
「はい」
立たない。
「……もう少しだけ、座っていてもいいですか」
「いいけど」
「では」
彼女はそのまま座っていた。
十分くらい、二人とも何も喋らなかった。窓の外で自転車が通って、下の階で洗濯機が止まった。
夏の終わりに神社の軒下で黙っていたときと、同じ種類の時間だった。
あのときは雨の音があった。今日は洗濯機だ。
それでも同じだった。
「奏太さん」
「うん」
「私が帰ったあと、この部屋はどうなりますか」
「どうもならないだろ」
「そうですか」
彼女は自分の膝を見ていた。
「私は、帰ってからも、ここのことを考えます」
「……そうかよ」
「はい」
俺は、それに返す言葉を持っていなかった。持っていなかったので、麦茶の残りを飲んだ。
氷はもう溶けていて、味が薄くなっていた。
✱
玄関で、彼女は靴を履いて、それから振り返った。
「奏太さん」
「なんだ」
「今日、私は何も置いていきませんでした」
「置いてかれても困るけどな」
「絵を、置いていただきました」
「あれは俺のだろ」
「私の絵です」
譲る気がない。
「では、次は」
彼女は一度、言葉を切った。
「次は、私の家に来ていただけますか」
俺は返事をしなかった。
できなかった、の方が正確だ。
あの家には、あの人がいる。あの人だけじゃない、たぶんもっと面倒なのもいる。
「……六時、来るぞ」
「逃げましたね」
「逃げてない」
「逃げました」
彼女は少しだけ笑って、門のところまで歩いて、そこで振り返った。
「返事は、今度で構いません」




