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お嬢様は俺だけの素顔を知っている ~優等生をやめた夏、彼女と本当の恋が始まった~  作者: トンエリア


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第20話 はじめての、招待

「行くよ」


 月曜の放課後、旧音楽室で、俺はそれだけ言った。


 彼女は手帳を出しかけた手を止めて、こっちを見た。


「分かっています。……三日、かかりましたね」


「早い方だろ」


「早くはありません」


 ✱


「日曜でよろしいですか」


「いいけど、大丈夫なのか」


「父は、水曜から出張です。母は、ほとんど家にいません」


 あっさりした言い方だった。


「じゃあ、いるのは」


「琴音です」


 いちばん厄介なのがいる。


「あの人、いいって言ったのか」


「言っていません」


「聞けよ」


「聞くと、断られる可能性があります」


 この人、こういうところだけ急に賢い。


「これ、リストの何番だ」


「ありません」


 彼女は手帳を閉じた。


「リストにありません。……私が、そうしたかっただけです」


 俺は何か言おうとして、言葉が出てこなかった。


 この夏からずっと、この人が何かをするのには、いつも番号がついていた。


 今日、初めてつかなかった。


 ✱


 日曜、二時。


 教えられた住所で降りて、地図を見て、それから、自分が場所を間違えたと思った。


 塀が長い。角を曲がっても終わらない。三十メートル歩いて、やっと門が出てきた。


 門の中はもう庭で、その奥に家がある。家の形をした、家じゃない何かだ。


 インターホンを押す前に、門が開いた。


「桐谷様」


 早坂琴音だった。


 紺のスーツ。夏に見たときと、たぶん同じものだ。


「どうぞ」


「……あの」


「お嬢様が、二階でお待ちです」


 止められると思っていた。少なくとも、何か一つは言われると思っていた。


 あの人は何も言わずに、俺の三歩前を歩いた。


 ✱


 玄関を上がって、廊下を歩いた。


 廊下が長い。長い廊下の話は、夏の電話で聞いていた。実際に見ると、話で聞いたより長かった。


 途中に、閉まったドアが一つあった。


 琴音さんは、そこだけ歩く速度を変えなかった。変えなかったのが、逆に分かりやすかった。


 書斎だ、と思った。


 二階の突き当たりで、あの人は止まった。


「こちらです」


「あの、早坂さん」


「はい」


「怒らないんですか」


 あの人は、少しだけこっちを見た。


「わたくしは、お嬢様の使用人でございます」


 それだけ言って、階段を降りていった。


 答えになっていない。なっていないのに、答えられた気がした。


 ✱


 ドアを開けたのは、向こうからだった。


「いらっしゃいませ」


 澪が立っていた。私服だった。家の中なのに、きちんとした格好をしていた。


「おじゃまします」


「練習はしていません」


「今しなくていいだろ」


 部屋に入って、俺は少し止まった。


 広い。俺の部屋の三倍はある。


 そして、何もなかった。


 机が二つ。本棚が一つ。ベッド。ピアノ。壁には何も貼っていない。床にも何も落ちていない。


 生活している人間の部屋じゃなくて、生活してもいい部屋、みたいな見え方だった。


「何もありませんね」


「言うなよ、それ自分で」


「事実です」


 彼女は机の方を見た。手紙用の机の上に、鉛筆立てが一つある。


 その横に、封筒でも便箋でもないものが立てかけてあった。


 俺が描いた絵だ。四枚目の、白い犬とスマホのやつ。


「……持って帰ってたのか」


「一枚だけ、いただきました。覚えておられませんか」


「覚えてない」


「押しつけられました」


 言い方が悪い。


「片づけたのか、今日のために」


「片づけていません。いつも、こうです」


「じゃあ、あの絵だけか。出てるの」


「はい」


 この部屋で、俺の描いた絵だけが、置きっぱなしになっている。


 ✱


 ノックがあって、琴音さんが紅茶を持ってきた。


 カップを二つ置いて、下がる前に、一度だけ部屋を見た。


 見て、それから何も言わずにドアを閉めた。


「何か言われたか、あの人に」


「何も。……ただ、今朝、廊下の花が変わっていました」


「花?」


「玄関と、階段の踊り場です。日曜に変えることは、ありません」


 俺はドアの方を見た。


 ✱


「弾きましょうか」


 ピアノの前に座って、彼女はそう言った。


「弾けるのか」


「もちろん、十三年やっています。」


 蓋を開けて、彼女は少し姿勢を直した。


 直した瞬間に、顔が変わった。


 教室の顔だった。


 弾き始めた曲は、俺でも知っているやつだった。名前は出てこない。テレビか、店か、そういうところで聞いたことがある。


 うまかった。


 うますぎて、途中から、俺は少し落ち着かなくなった。


 その手つきも、背中も、全部、俺の知らない白鷺院澪だった。


 二分くらい弾いて、彼女は手を止めた。


 止めて、鍵盤の上に指を置いたまま、動かなくなった。


「どうした」


「……今日は、ここまでにします」


「まだ途中だろ」


「少し、疲れました」


 彼女は蓋を閉めた。


 夏の河川敷で同じ言葉を聞いたときは、俺はそれを勝ちだと思った。この人が初めて弱音を吐いた日だ。


 今日も、同じように思った。


 だから何も聞かなかった。


 ✱


 描いたのは、閉じたピアノに背を向けて、床に座っている人だった。


 部屋の広さが分かるように、余白を多めに取った。


 十二枚目。


「これは、私が小さく見えます」


「部屋がでかいんだよ」


「そうでしょうか」


「そうだよ」


 彼女は絵を持ったまま、部屋を見回した。


「この部屋にいる私を、初めて見ました」


 ✱


「奏太さん」


「うん」


「十一月の三日は、何の日ですか」


 俺はカップを持ったまま止まった。


「なんで知ってんだよ」


「四月に、書類を見ました。生徒会で、名簿を扱いますので」


「職権乱用だろ」


「半年、覚えていました」


 半年。


 この人は、四月の時点で俺の誕生日を記憶して、それを今日まで持っていたことになる。


「言っておきますが、四月は、まだ嫌いでした」


「嫌いだったのかよ」


「完璧な人が、嫌いでした」


「同族嫌悪じゃねえか」


「今は、違います」


 彼女はカップを両手で持った。


「今年は、何かしてもよいですか」


 ✱


 帰りは、門まで琴音さんが送ってきた。


 門の手前で、あの人が立ち止まった。


「桐谷様」


「はい」


「お嬢様は、最近よくお笑いになります」


 俺は足を止めた。


「三歳から見ておりますが、あんなに笑われるお嬢様は、初めてでございます」


 あの人の声は、いつもと同じ高さだった。


「ですので、一つだけ、お願いがございます」


「……はい」


「あの方が何かを我慢しておられたら、気づいてさしあげてください」


 夏に、車の横で聞いたのと同じ話だった。


 同じ話なのに、あのときより静かだった。


「あの方は、ご自分からは、おっしゃいませんので」


 門が閉まった。


 俺は塀に沿って三十メートル歩いて、角を曲がって、それから、一度だけ振り返った。


 二階の窓に、明かりがついていた。


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