第21話 はじめての、誕生日
十一月三日は祝日だ。
十時に駅前へ行くと、彼女はもう改札の外にいた。
私服だった。今日は少し薄い色の上着を着ている。
「おはようございます」
「早いな」
「予定に、余裕を持たせました」
彼女は鞄から紙を出して、こっちに差し出した。
A4の、印刷したやつだった。
十時〇〇分、集合。十時四十分、水族館。十二時三十分、昼食。十五時、喫茶店。
「……これ、遠足のしおりだろ」
「予定表です」
「一分刻みじゃねえか」
「頑張って作りました」
✱
「十四番です」
電車の中で、彼女は手帳を開いた。
十四、誰かの誕生日を祝う。
「祝ったこと、ないのか」
「自分の誕生日は、毎年あります。食事が出て、贈り物が置いてあります」
「置いてある」
「はい。朝、部屋に」
誰が置いたかも書いていない、みたいな言い方だった。
「祝われたことはあります。祝ったことが、ありません」
「で、なんで水族館なんだ」
「調べました。誕生日に行く場所として、最初に出てきました」
「調べたのかよ」
「はい。……琴音にも、一度だけ聞きました」
「あの人なんて」
「『お好きな場所になさいませ』と」
役に立っていない。
✱
祝日の水族館は、思っていたより混んでいた。
入口で二十分並んだ時点で、彼女の眉が動いた。
「予定より、十分遅れています」
「遅れていいんだよ」
「予定表には、書いてありません」
「書いてなくても遅れるんだよ、こういうのは」
中に入ると、暗かった。
通路の両側が水槽で、光がそこからしか出ていない。人が多くて、流れがゆっくりしている。
彼女は最初の水槽の前で止まって、そのまま一分くらい動かなかった。
「これは、何をしているのですか」
銀色の細かいのが、大きな塊になってぐるぐる回っている。
「群れてるんだろ」
「なぜ、全員が同じ方を向くのですか」
「知らん」
「知らないのですか」
「魚に聞け」
彼女はもう一度水槽を見て、それから、小さく笑った。
暗いところで笑うと、この人の顔は輪郭が分からなくなる。分からなくなるぶん、口の形だけがよく見えた。
「奏太さん」
「うん」
「ここは、暗いですね」
「暗いな」
「顔が、見えません」
「見えてるだろ、近いんだから」
「他の方からは、見えません」
俺は少し黙った。
「……それで選んだのか、ここ」
「一つ目の理由です」
「二つ目は」
「本当に、来てみたかったのです」
どっちが本当かは聞かなかった。たぶん両方だ。
✱
大きな水槽のところで、人がつかえた。
後ろから来た家族連れに押されて、彼女の体が半歩ぶん流れた。
俺は手を出した。
夏祭りのときは、この人が先に手のひらを上に向けてきた。今日は、俺の方が先だった。
彼女は自分の手を見て、それから、俺の手を見た。
「……順番が、逆です」
「文句あんのか」
「ありません」
握った。
クラゲの水槽の前は青い光で、握った手までうっすら青かった。
人の流れが切れたところで離した。離すとき、向こうの指が一瞬だけ遅れた。
✱
順路の最後は、上りのスロープになっている。
登り切ると出口だ。
その途中で、彼女が立ち止まった。
「奏太さん」
「なんだ」
「写真を、撮っていただけますか」
「今?」
「ここが、いちばん明るいです」
言われてみれば、上の方から自然光が入っていて、たしかに明るかった。
俺はスマホを出して、二枚撮った。
一枚目は目をつぶっていて、二枚目はちゃんと写っていた。
彼女は画面を覗き込んで、少し長く見ていた。
「これは、消さないでください」
「消さないよ」
「奏太さん」
「なんだよ」
「二人で写っているものが、まだ一つしかありません」
プリクラだ。夏の、三枚目のやつ。
「撮るか」
「はい」
通りかかった人に頼んだ。若い人で、二枚撮ってくれた。
画面を確認して、彼女は少し不満そうな顔をした。
「距離が、空いています」
「そりゃ空くだろ」
「もう一枚、お願いできますか」
二回目は、向こうから半歩寄ってきた。
その半歩ぶんが、あとで見返すたびに効いてくることになる。
「では、行きましょう」
スロープを登り切るまでに、たぶん普段の倍くらいかかった。
混んでいたからだと思った。
✱
昼は、水族館の隣のビルの店に入った。
窓際で、海が見える席だった。
「いい店だな」
「調べました。窓から海が見えると書いてありました」
「合ってるな、書いてあったこと」
「今日は、これが初めてです」
彼女はメニューを開いて、それから閉じた。
「決まりません」
「早いな、閉じるの」
「多すぎます」
「じゃあ写真がいちばんうまそうなやつにしろ」
「そういう決め方があるのですか」
「ある」
彼女はもう一度開いて、しばらく見て、パスタを指した。
俺も同じものにした。
運ばれてきたのを、彼女は器用に巻いて食べた。フォークの持ち方も、巻き方も、たぶん教わったやつだ。
それから、途中で手を止めた。
「奏太さん」
「うん」
「今日は、私が払います」
「は?」
「誕生日ですので」
「いや、それは」
「調べました。祝う側が払うと書いてありました」
「どこ調べたんだよ」
「三つのうち、二つにそう書いてありました」
「多数決かよ」
結局、押し切られた。財布の出し方が異様に速かった。用意していたな、あれは。
✱
三時に、駅前の喫茶店に入った。
予定表の最後の行だ。
古い建物の二階で、窓が大きくて、天井から下がっている照明が黄色い。客は静かに喋っている。俺が普段行く店ではない。
「ここも調べたのか」
「はい。ケーキが有名だそうです」
彼女はメニューの、ケーキの並んでいるページを開いた。
六種類あった。
「決まりません」
「また出た、それ」
「多すぎます」
「二つ頼んで半分ずつにするか」
彼女の動きが止まった。
「……そういうことが、できるのですか」
「できるだろ」
「ずるくないですか」
「ずるくない」
結局、モンブランとチーズケーキになった。
彼女は自分の皿から一切れ分を切り分けて、こっちの皿に移した。移し方が異様に丁寧で、形が崩れていなかった。
✱
「奏太さん」
「うん」
彼女はフォークを置いて、姿勢を直した。
直し方が、ピアノの前に座るときと同じだった。
「今日、まだ言っていませんでした」
「何を」
「お誕生日、おめでとうございます」
店の音が、少しだけ遠くなった。
俺はケーキを口に運ぼうとして、その手を止めた。
「……朝、言えよそれ」
「朝は、言えませんでした」
「なんで」
「言うと、その日が始まってしまいます」
彼女は窓の方を見た。
「始まったら、終わります。ですので、なるべく後ろにしました」
「祝う側の言うことじゃないだろ」
「そうですね」
彼女は少し笑って、フォークを持ち直した。
✱
贈り物は、包装がやたら丁寧だった。
紙の合わせ目が、まっすぐそろっている。あれは自分で包んだやつだ。
開けた。
スケッチブックだった。
今使っているのと、同じやつ。同じ大きさ、同じ紙、同じ表紙の色。
「まだ一冊目、半分も埋まってないぞ」
「はい」
「気が早すぎるだろ」
「はい」
彼女はカップを両手で持った。
「夏に、おっしゃいました。ページが足りなくなったら、二冊目を買うと」
「……言ったな」
「では、もう買ってあります」
「同じ店で買ったのか、これ」
「同じ店です。背の文字を、覚えていました」
「いつ覚えたんだよ」
「夏です」
俺は表紙を、指で一度なでた。新品の紙の音がした。
「なあ」
「はい」
「一冊目が埋まったら、渡す約束だったよな」
「はい」
「二冊目があると、終わらないぞ」
彼女は少しのあいだ、黙っていた。
「はい」
「分かってて買ったのか」
「分かって、買いました」
✱
描いたのは、店の席で、半分になったケーキの皿を前にしている人だった。
窓の外が明るくて、顔の左側だけ光っている。
十三枚目。一冊目の方に描いた。
「二冊目には、描かないのですか」
「まだ早い」
「私が渡したのに」
「早いんだよ」
彼女は絵を受け取って、しばらく見ていた。
「奏太さん」
「うん」
「私は、去年の今日、奏太さんが生まれた日だと知りませんでした」
「知らないだろ、普通」
「来年は、知っています。再来年も、知っています」
✱
帰り道、駅の手前で、俺は言った。
「来年もやれよ、これ」
彼女は歩きながら、少しだけこっちを見た。
「予定表は、作りますか」
「作らなくていい」
「では、何をしますか」
「その日、決める」
彼女はしばらく黙っていた。
黙ったまま、五歩か六歩、歩いた。
「……はい」
その「はい」が、いつもより遅かった。
俺はそのとき、その遅さを何とも思わなかった。




