第22話 はじめての、空席
月曜の朝、廊下ですれ違わなかった。
二時間目と三時間目の間。四時間目のあと。昼休み。いつも通る場所を、いつも通る時間に歩いた。
来なかった。
三年もやっていると、教室の空気で分かる。二組の前を通ったとき、窓際から二番目の席に、鞄がなかった。
欠席だ。
✱
昼休みに、旧音楽室に行った。
行く理由はなかった。今日は来ないと分かっている。
ドアを開けて、誰もいない部屋を見て、それから閉めた。
埃の匂いが、いつもより濃かった。
✱
夜、九時に電話をかけた。
出なかった。
しばらくしたら、向こうからかかってきた。
『すみません。気づきませんでした』
「休んだろ、今日」
『はい』
「なんかあったのか」
『少し、熱が出ました』
声は普通だった。少し低いけど、寝起きならこんなものだ。
「今は」
『下がりました』
「じゃあ明日は」
『行きます』
「無理すんなよ」
『無理はしません』
この人の「無理はしません」は、あまり信用していない。信用していないけど、そのときの俺は、それ以上追わなかった。
✱
火曜も、空席だった。
俺は三時間目の途中で、一度だけ窓の外を見た。
グラウンドで一年が走っている。空が高い。十一月の空は、無駄に綺麗だ。
二日続けて休んだのを、俺は見たことがない。
夏の四十日で一度も遅刻をしなかった人だ。寝坊が一回あっただけで、あれは俺のせいだった。
昼休み、二組の女子が廊下で話しているのが聞こえた。
「白鷺院さん、今日も休みだって」
「珍しいね」
「風邪でしょ、この時期」
その通りだと思った。
思ったのに、俺は自分の教室に戻ってから、机の上で三十分くらい何もしなかった。
「桐谷」
五時間目の前に、大地が前の席に座ってきた。
「なんだよ」
「お前、今日ずっと窓見てるだろ」
「見てない」
「三回見た」
「数えるなよ」
「暇だったからな」
あいつは椅子の背に肘を掛けて、それ以上は言わなかった。
✱
その夜の電話は、一回目で出た。
『奏太さん』
「二日目だな」
『二日目です』
「熱は」
『ありません』
「じゃあなんで休んだ」
少し、間が空いた。
『……大事を取りました』
「誰が取ったんだ、それ」
『琴音です』
あの人が言うなら、その方がいい。そう思った。
そう思ったことにした。
✱
水曜の朝、廊下ですれ違った。
二組の教室から出てきて、女子二人と歩いていた。背筋が伸びていて、口の端が音もなく上がっている。
完璧だった。
一秒だけ、こっちを見た。
俺も見た。取り決め通りだ。
すれ違って、五歩進んで、それから、俺は自分の中に残ったものの正体を考えた。
顔色だ。
いつもより白い。この人はもともと白いので、白いのは普通だ。普通なのに、目の下だけ、色が違った。
教室ではみんな、いつも通りに接していた。
四時間目の前、二組の前を通ったとき、女子の声が聞こえた。
「白鷺院さん、大丈夫?」
「はい。ご心配をおかけしました」
「顔白いよ」
「もともとです」
笑い声がした。それで終わりだった。
あの答え方を、俺は知っている。夏の中庭で、初めて聞いたやつだ。
完璧に答えると、人は次を聞かない。
だから俺も、その場では何も言わなかった。
✱
放課後、旧音楽室のドアを開けたら、彼女はもう座っていた。
鞄を下ろしていなかった。膝の上に載せたまま、両手を置いている。
「早いな」
俺は自分の椅子に座った。
「二日ぶりだな」
「二日ぶりです」
「長かったぞ」
彼女は少しだけ顔を上げた。
「……長かったですか」
「長かった」
「はい」
その「はい」の言い方が、嬉しそうで、それから、少しだけ困っていた。
✱
四時二十分に、彼女のスマホが鳴った。
画面を見て、彼女は一度、俺の方を見た。それから出た。
「はい。……はい。分かりました」
切った。
「迎えです。四時半に」
「早くないか」
「早いです」
「五時までって言ってなかったか」
「言っていました」
彼女は鞄の紐を、指で一度なぞった。
「今週から、四時半になりました」
「理由は」
「聞いていません」
「聞けよ」
「……聞きました」
言い直した。
「『そのようにいたします』とだけ、言われました」
あの人が理由を言わないのは、いつものことだ。
いつものことなのに、今日のは、少し違う気がした。
✱
「なあ」
「はい」
「なんかあんのか」
彼女は俺を見た。
見て、少し首をかしげて、それから、いつもの声で言った。
「ありません」
「二日休むだろ、迎えが早くなるだろ」
「時期が重なっただけです」
「本当か」
「本当です」
「白鷺院」
名字で呼んだ。人がいないのに、名字で呼んだ。
自分でも、なんでそう呼んだのか分からなかった。
「大丈夫です」
彼女は先に言った。
「大丈夫です。心配していただくようなことは、何もありません」
「三回言ったぞ、今」
「二回です」
「数えてんじゃねえよ」
彼女は少し笑った。
笑ったので、俺はそこで止めた。
止めたのは、たぶん、これ以上聞いたら本当のことが出てくると思ったからじゃない。
出てこないと思ったからだ。
✱
俺はスケッチブックを出した。
出して、開いて、鉛筆を持って、そこで手が止まった。
「動かないでください」
「まだ何も言ってない」
「言われる前に、止まりました」
彼女は姿勢を作って待っていた。
俺は、そのままの姿勢の人を、しばらく見ていた。
「……今日は、やめとく」
「なぜですか」
「気分」
「初めてです、それ」
「初めてだな」
彼女は姿勢を崩した。
崩し方が、俺の部屋で覚えたやつだった。
「では、次に描いてください」
「描く」
「約束ですか」
「約束」
鉛筆を戻すとき、俺は自分の手が少し冷たいことに気づいた。
✱
校門まで、二人で歩いた。
四時半前の校舎は、まだ人が残っている。俺たちは一メートルくらい離れて歩いた。
昇降口を出て、坂を下って、門までは百歩もない。
その途中で、彼女が言った。
「奏太さん」
「なんだ」
「少しだけ、ゆっくり歩いていただけますか」
俺は速度を落とした。
落としてから、その言葉を頭の中でもう一度再生した。
この人がこっちの歩く速さに注文をつけたのは、初めてだった。
「疲れてんのか」
「今日は、久しぶりに来ましたので」
理由になっていた。
なっていたので、俺は納得した。
門の外に、黒い車が停まっていた。
早坂琴音が、車の横に立っていた。
あの人は俺たちが門を出るのを待って、それから後部座席のドアを開けた。
「お嬢様」
「はい」
澪が乗り込んだ。乗り込む前に一度だけこっちを見て、それきり何も言わなかった。
ドアが閉まった。
琴音さんは運転席に回らずに、その場に立っていた。
「桐谷様」
「……はい」
「先日のお願いを、覚えておいでですか」
門のところで聞いた話だ。あの方が何かを我慢していたら、気づいてやってほしい。
「覚えてます」
「それだけでございます」
あの人は頭を下げて、運転席に乗った。
車が出ていって、角を曲がって、見えなくなった。
俺は坂の上でしばらく立っていた。
立っていて、それから、自分が四時半に一人で校門にいることに気づいた。
夏の間、この時間はいつも二人だった。




