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お嬢様は俺だけの素顔を知っている ~優等生をやめた夏、彼女と本当の恋が始まった~  作者: トンエリア


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23/31

第23話 はじめての、嘘

 十一月の終わりから、週に一度、彼女が旧音楽室に来ない日ができた。


 最初は木曜だった。次の週も木曜。その次は水曜になった。


 理由は毎回同じだ。


「家の用事です」


 夏にも同じ言葉を聞いた。あのときは、それが嘘だと俺が知っていた。学校には家の用事、家には生徒会。二方向に嘘をついて、その真ん中に俺がいた。


 今度は、真ん中がない。


 ✱


 三度目の水曜、俺は放課後に校門まで行った。


 黒い車を探した。


 なかった。


 迎えが来ていないのに、彼女は昼で早退している。


 その日の夜、電話でそのことを聞かなかった。聞かない理由は自分でも説明できた。聞いたら、また同じ答えが返ってくる。同じ答えを二回聞くと、それは答えではなくなる。


 ✱


 金曜、旧音楽室のドアを開けたら、彼女は座っていた。


 最近はいつも先に来ている。掃除を抜けているんじゃなくて、たぶん、階段を先に上っておきたいんだと思う。


 そう考えた自分に、少し驚いた。


「今日は寒いな」


「寒いです」


「暖房入ってないからな、この部屋」


 彼女は上着の前を合わせた。合わせる動きが、いつもより遅かった。


 ✱


 四時二十分に、スマホが鳴った。


 彼女は画面を見て、出て、二言だけ喋って、切った。


「四時半です」


「だろうな」


 彼女は鞄を持った。持ったけど、立たなかった。


 膝の上に鞄を載せたまま、そのまま座っていた。


 十秒くらい経った。


「立てないのか」


「立ちます」


 立った。


 立ち方が、俺の知っているこの人の立ち方じゃなかった。机に片手をついていた。


「送る」


「結構です」


「校門までだよ」


「毎日、そうしています」


「今日は違うだろ」


 彼女は俺を見た。


「何が違うのですか」


 その聞き方が、あまりにも普通だった。


 ✱


「なあ」


「はい」


「週に一回、何してるんだ」


「家の用事です」


「先週の水曜、迎え来てなかったぞ」


 彼女の指が、鞄の紐の上で止まった。


「見ていたのですか」


「見てた」


「……そうですか」


「それだけか」


「はい」


「何も言わないのか」


「言うことが、ありません」


 俺は椅子から立った。


 立ってから、自分の声が思ったより大きいことに気づいた。


「なんで隠すんだよ」


「隠していません」


「二日休んで、迎えが早くなって、週に一回いなくなって、それで何もないのかよ」


「はい」


「立つのに机に手をついただろ、さっき」


「寒かったので」


「寒いと手をつくのか」


「つきます」


 言い切った。


「じゃあ、夏は何だったんだ」


「夏、とは」


「河川敷で疲れましたって言っただろ。あれ、言うのにどれだけかかったんだよ」


 彼女は何も言わなかった。


「あれ言えたやつが、なんで今言えないんだ」


「……言えないことも、あります」


 初めて、目が下を向いた。


 その一言を、彼女は目を逸らさずに言った。


 この人は、俺に嘘をつくのが下手なはずだった。夏に一度、琴音さんについた嘘は震えていた。生徒会に長引かせられたと言うだけで、三十分前から準備していた人だ。


 今のは、震えていなかった。


 上手くなったんだ。


 その事実の方が、内容よりこたえた。


「……分かった」


「奏太さん」


「先に出る」


 俺はスケッチブックを鞄に入れて、ドアを開けた。


 開けてから、一度も振り返らなかった。


 振り返らなかったことを、階段を下りている途中から後悔していた。


 ✱


 校門の五十メートル手前で立ち止まって、俺はそこから見ていた。


 彼女が出てきた。いつもより遅かった。


 琴音さんがドアを開けて、彼女が乗って、車が出ていった。


 こっちは見なかった。


 当たり前だ。俺が先に出たんだから。


 俺は坂を下って、川沿いを歩いて、あの短い坂を登った。


 登り切ったところで、街が半分見えた。


 九月に、この人が「景色を見ています」と言って止まった場所だ。


 あのとき俺は、いい景色だな、と言った。


 言っただけだった。


 景色を見ていたんじゃない。あの人はあの日、この坂の途中で息を整えていた。


 今なら分かる。今なら分かる、というのは、あのときは分からなかったということだ。


 校門で、あの人に言われたことを思い出した。


 ——あの方が何かを我慢しておられたら、気づいてさしあげてください。


 気づいている。


 気づいているのに、この二か月、俺がやったのは「そうですか」と言うことだけだった。


 九月の坂。十月の水族館のスロープ。十一月の空席。全部、理由がついていた。理由がついていたから、俺はそのたびに納得した。


 納得したかったんだ、たぶん。


 ✱


 夜の九時十分に、電話が鳴った。


 向こうからだった。


『……もしもし』


「うん」


『……』


「なんか言えよ」


『何を言えばよいか、考えてました』


「で、決まったのか」


『決まりませんでした』


 俺は天井を見た。自分の部屋の天井には、ひび割れがない。


「悪かった。声でかかった」


『いいえ』


「よくないだろ」


『よくないのは、私です』


 息を吸う音がした。


『奏太さん』


「うん」


『一つだけ、本当のことを言います』


 俺はスマホを持ち直した。


『私は、奏太さんに、嘘をついています』


 ✱


 部屋の音が、全部なくなった気がした。


「……知ってる」


『はい』


「内容は」


『言えません』


「言えないのか、言わないのか」


『言いません』


 はっきりしていた。


「なんで」


『言うと、変わってしまいます』


「何が」


『奏太さんが、私を見る目が』


「変わらねえよ」


『変わります』


 その言い方に、迷いがなかった。この人がこんなに断定するのを、俺は初めて聞いた。


『変わらない人を、私は知りません』


「じゃあ、俺が最初になる」


 少し、間が空いた。


『……ずるいです、それは』


「ずるくない」


『ずるいです』


『そういうことを、確かめずに言うのは、ずるいです』


「確かめようがないだろ、言われてないんだから」


『言いません』


「言えよ」


『言いません』


 三回目だった。三回同じことを言うときのこの人は、絶対に折れない。悪口の練習のときも、名前のときも、そうだった。


 折れないところだけ、俺の知っている白鷺院澪だった。


 ✱


「いつまでだ」


『何がですか』


「嘘。いつまでつくんだ」


 しばらく、返事がなかった。


『……もう少しだけです』


「もう少しって、どのくらいだ」


『分かりません』


「それは本当か」


『それは、本当です』


 俺は、その言葉を信じることにした。


 信じるというより、そこしか掴むところがなかった。


「じゃあ、待つ」


『待たないでください、と言ったら』


「待つ」


『……そうですか』


「言っとくけど、俺は聞くのやめないからな。毎日聞く」


『毎日は、困ります』


「困れよ」


 少し、笑う音がした。


 笑ったので、俺はそこで少しだけ息ができた。


 ✱


『奏太さん』


「うん」


『十二月に、してみたいことがあります』


「リストか」


『はい。十五番です』


 紙をめくる音がした。


『十五、クリスマスを、誰かと過ごす』


「家でやらないのか、あれ」


『食事が出ます。贈り物が置いてあります』


 誕生日と同じだった。


「じゃあ、やるか」


『よろしいのですか』


「二十四か、二十五か」


『……両方は、無理でしょうか』


「欲張りだな」


『欲張りです』


 言い方が、少しだけ夏に戻っていた。


『奏太さん』


「まだあんのか」


『今日、絵を描いていただけませんでした』


「そうだな」


『二回目です』


 数えられていた。全部。


「次は描く」


『約束ですか』


「約束」


 電話を切ってから、俺は机の上のスケッチブックを見た。


 一冊目と、二冊目。二冊目はまだ、一枚も使っていない。


 シロとハイイロが、その横に並んでいる。


 俺はしばらく、その四つを見ていた。


 嘘をつかれている。それは分かった。


 分かったのに、腹が立たなかった。腹が立たないというのが、いちばんまずい気がした。

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