第23話 はじめての、嘘
十一月の終わりから、週に一度、彼女が旧音楽室に来ない日ができた。
最初は木曜だった。次の週も木曜。その次は水曜になった。
理由は毎回同じだ。
「家の用事です」
夏にも同じ言葉を聞いた。あのときは、それが嘘だと俺が知っていた。学校には家の用事、家には生徒会。二方向に嘘をついて、その真ん中に俺がいた。
今度は、真ん中がない。
✱
三度目の水曜、俺は放課後に校門まで行った。
黒い車を探した。
なかった。
迎えが来ていないのに、彼女は昼で早退している。
その日の夜、電話でそのことを聞かなかった。聞かない理由は自分でも説明できた。聞いたら、また同じ答えが返ってくる。同じ答えを二回聞くと、それは答えではなくなる。
✱
金曜、旧音楽室のドアを開けたら、彼女は座っていた。
最近はいつも先に来ている。掃除を抜けているんじゃなくて、たぶん、階段を先に上っておきたいんだと思う。
そう考えた自分に、少し驚いた。
「今日は寒いな」
「寒いです」
「暖房入ってないからな、この部屋」
彼女は上着の前を合わせた。合わせる動きが、いつもより遅かった。
✱
四時二十分に、スマホが鳴った。
彼女は画面を見て、出て、二言だけ喋って、切った。
「四時半です」
「だろうな」
彼女は鞄を持った。持ったけど、立たなかった。
膝の上に鞄を載せたまま、そのまま座っていた。
十秒くらい経った。
「立てないのか」
「立ちます」
立った。
立ち方が、俺の知っているこの人の立ち方じゃなかった。机に片手をついていた。
「送る」
「結構です」
「校門までだよ」
「毎日、そうしています」
「今日は違うだろ」
彼女は俺を見た。
「何が違うのですか」
その聞き方が、あまりにも普通だった。
✱
「なあ」
「はい」
「週に一回、何してるんだ」
「家の用事です」
「先週の水曜、迎え来てなかったぞ」
彼女の指が、鞄の紐の上で止まった。
「見ていたのですか」
「見てた」
「……そうですか」
「それだけか」
「はい」
「何も言わないのか」
「言うことが、ありません」
俺は椅子から立った。
立ってから、自分の声が思ったより大きいことに気づいた。
「なんで隠すんだよ」
「隠していません」
「二日休んで、迎えが早くなって、週に一回いなくなって、それで何もないのかよ」
「はい」
「立つのに机に手をついただろ、さっき」
「寒かったので」
「寒いと手をつくのか」
「つきます」
言い切った。
「じゃあ、夏は何だったんだ」
「夏、とは」
「河川敷で疲れましたって言っただろ。あれ、言うのにどれだけかかったんだよ」
彼女は何も言わなかった。
「あれ言えたやつが、なんで今言えないんだ」
「……言えないことも、あります」
初めて、目が下を向いた。
その一言を、彼女は目を逸らさずに言った。
この人は、俺に嘘をつくのが下手なはずだった。夏に一度、琴音さんについた嘘は震えていた。生徒会に長引かせられたと言うだけで、三十分前から準備していた人だ。
今のは、震えていなかった。
上手くなったんだ。
その事実の方が、内容よりこたえた。
「……分かった」
「奏太さん」
「先に出る」
俺はスケッチブックを鞄に入れて、ドアを開けた。
開けてから、一度も振り返らなかった。
振り返らなかったことを、階段を下りている途中から後悔していた。
✱
校門の五十メートル手前で立ち止まって、俺はそこから見ていた。
彼女が出てきた。いつもより遅かった。
琴音さんがドアを開けて、彼女が乗って、車が出ていった。
こっちは見なかった。
当たり前だ。俺が先に出たんだから。
俺は坂を下って、川沿いを歩いて、あの短い坂を登った。
登り切ったところで、街が半分見えた。
九月に、この人が「景色を見ています」と言って止まった場所だ。
あのとき俺は、いい景色だな、と言った。
言っただけだった。
景色を見ていたんじゃない。あの人はあの日、この坂の途中で息を整えていた。
今なら分かる。今なら分かる、というのは、あのときは分からなかったということだ。
校門で、あの人に言われたことを思い出した。
——あの方が何かを我慢しておられたら、気づいてさしあげてください。
気づいている。
気づいているのに、この二か月、俺がやったのは「そうですか」と言うことだけだった。
九月の坂。十月の水族館のスロープ。十一月の空席。全部、理由がついていた。理由がついていたから、俺はそのたびに納得した。
納得したかったんだ、たぶん。
✱
夜の九時十分に、電話が鳴った。
向こうからだった。
『……もしもし』
「うん」
『……』
「なんか言えよ」
『何を言えばよいか、考えてました』
「で、決まったのか」
『決まりませんでした』
俺は天井を見た。自分の部屋の天井には、ひび割れがない。
「悪かった。声でかかった」
『いいえ』
「よくないだろ」
『よくないのは、私です』
息を吸う音がした。
『奏太さん』
「うん」
『一つだけ、本当のことを言います』
俺はスマホを持ち直した。
『私は、奏太さんに、嘘をついています』
✱
部屋の音が、全部なくなった気がした。
「……知ってる」
『はい』
「内容は」
『言えません』
「言えないのか、言わないのか」
『言いません』
はっきりしていた。
「なんで」
『言うと、変わってしまいます』
「何が」
『奏太さんが、私を見る目が』
「変わらねえよ」
『変わります』
その言い方に、迷いがなかった。この人がこんなに断定するのを、俺は初めて聞いた。
『変わらない人を、私は知りません』
「じゃあ、俺が最初になる」
少し、間が空いた。
『……ずるいです、それは』
「ずるくない」
『ずるいです』
『そういうことを、確かめずに言うのは、ずるいです』
「確かめようがないだろ、言われてないんだから」
『言いません』
「言えよ」
『言いません』
三回目だった。三回同じことを言うときのこの人は、絶対に折れない。悪口の練習のときも、名前のときも、そうだった。
折れないところだけ、俺の知っている白鷺院澪だった。
✱
「いつまでだ」
『何がですか』
「嘘。いつまでつくんだ」
しばらく、返事がなかった。
『……もう少しだけです』
「もう少しって、どのくらいだ」
『分かりません』
「それは本当か」
『それは、本当です』
俺は、その言葉を信じることにした。
信じるというより、そこしか掴むところがなかった。
「じゃあ、待つ」
『待たないでください、と言ったら』
「待つ」
『……そうですか』
「言っとくけど、俺は聞くのやめないからな。毎日聞く」
『毎日は、困ります』
「困れよ」
少し、笑う音がした。
笑ったので、俺はそこで少しだけ息ができた。
✱
『奏太さん』
「うん」
『十二月に、してみたいことがあります』
「リストか」
『はい。十五番です』
紙をめくる音がした。
『十五、クリスマスを、誰かと過ごす』
「家でやらないのか、あれ」
『食事が出ます。贈り物が置いてあります』
誕生日と同じだった。
「じゃあ、やるか」
『よろしいのですか』
「二十四か、二十五か」
『……両方は、無理でしょうか』
「欲張りだな」
『欲張りです』
言い方が、少しだけ夏に戻っていた。
『奏太さん』
「まだあんのか」
『今日、絵を描いていただけませんでした』
「そうだな」
『二回目です』
数えられていた。全部。
「次は描く」
『約束ですか』
「約束」
電話を切ってから、俺は机の上のスケッチブックを見た。
一冊目と、二冊目。二冊目はまだ、一枚も使っていない。
シロとハイイロが、その横に並んでいる。
俺はしばらく、その四つを見ていた。
嘘をつかれている。それは分かった。
分かったのに、腹が立たなかった。腹が立たないというのが、いちばんまずい気がした。




