第24話 はじめての、クリスマス
十二月二十四日、五時。
俺は約束の十分前に着いた。
彼女は、来なかった。
五時を過ぎた。
あの人が遅れるのを、俺は夏に一度しか見ていない。あのときは寝坊で、それは俺のせいだった。
暫くしたら、改札から出てきた。
濃い色のコートを着ていた。歩き方はいつも通りで、髪も乱れていなかった。
「すいません、遅くなりました」
「どうした?」
「電車を、一本遅らせました」
あっさり言った。
あっさり言われると、こっちは何も返せない。
「なんかあるか」
毎日聞くと言った。言った以上は聞く。
「ありません」
「そうか」
✱
「十五番です」
彼女は手帳を出して、こっちに向けた。
十五、クリスマスを、誰かと過ごす。
「まだ何もしてないぞ」
「歩いています」
「歩いてるだけだろ」
「誰かと、歩いています」
消す気満々だった。
✱
駅前から公園までの通りが、この時期だけ光る。
並木の枝に電球が巻いてあって、上から下まで白い。人が全員そこを歩くので、進む速度は夏祭りの参道と同じだ。
彼女は通りの入口で立ち止まった。
しばらく、何も言わなかった。上を向いたまま、口も開けなかった。
「感想は」
「……あとで言います」
「今言えよ」
「今言うと、短くなります」
白い光が顔に当たっていて、輪郭が全部見えていた。
水族館のときと逆だ。あの日は暗くて、口の形しか見えなかった。
今日は、全部見える。
見えるところに、この人は立っている。
✱
人が増えて、流れが詰まった。
後ろから押されて、彼女の肩が半分ぶん流れた。
俺は手を出した。
彼女は自分の手を見て、それから、俺の手を見て、握った。今日は何も言わなかった。
手袋越しだった。夏の祭りとは違って、体温は来ない。
来ないのに、あのときより落ち着かなかった。
通りの真ん中あたりで、人の流れが切れた。
いつもならここで離す。夏の祭りのときも、水族館のときもそうだった。
俺は指の力を抜いた。
抜いた分だけ、向こうが握った。
「……まだです」
「まだって」
「まだです」
それ以上は言わなかった。
結局、通りを抜けるまで離さなかった。
✱
広場のところで、彼女が鞄から包みを出した。
包装の合わせ目が、まっすぐそろっている。自分で包んだやつだ。
「早くないか、渡すの」
「歩きながら食べられます」
「食い物かよ」
缶が入っていた。開けたら、クッキーだった。
丸いのと、星と、木と、あと一つはよく分からない形があった。
「これは何だ」
「トナカイです」
「……そうか」
「そうです」
角が片方しかなかった。焼いている途中で落ちたらしい。
一枚食べた。
「うまい」
彼女の動きが止まった。
「……早くありませんか、感想が」
「うまいもんはすぐ分かるだろ」
「もう少し、考えてから言っていただけると」
「うまい」
彼女は缶を両手で持ったまま、下を向いた。
誕生日のあとに弁当を食わされたとき、この人は「普通」で泣きそうになっていた。今日は「うまい」で下を向いている。
順調に上がってきている。
「琴音さんに教わったのか」
「はい。前より、早く覚えました」
「進歩だな」
「進歩です」
✱
俺の方も渡した。
紙袋のままだった。包装で勝てるわけがないので、最初から諦めた。
「これは」
「開けろよ」
マフラーだった。灰色の、地味なやつだ。
彼女はそれを両手で持って、しばらく見ていた。
「選ぶのに、時間がかかりましたか」
「聞くなよ」
「聞きます」
「……かかった」
「どのくらいですか」
「言わない」
「言ってください」
「言わない」
三回言えばこの人は引き下がる。自分がいつもやっている手なので、効くのは知っている。
彼女は首に巻いた。巻き方が分からないらしくて、途中でほどけて、やり直して、また崩れた。
見かねて、俺が直した。
直しているあいだ、この人は動かなかった。息もあまりしていなかった気がする。
「暖かいです」
「マフラーだからな」
「そうではなく」
彼女は顎を少し引いて、灰色に口元を埋めた。
「今、暖かいです」
✱
広場を抜けたところに、ベンチがあった。
彼女が立ち止まった。
「奏太さん」
「うん」
「少し、座ります」
俺は、たぶん止まった。
この人が自分から「座ります」と言ったのを、俺は聞いたことがない。
立ち止まったことはある。景色を見ていると言ったことも、写真を撮ってくれと言ったこともある。
全部、理由がついていた。
今日は、理由がついていなかった。
「……疲れたか」
「はい」
あっさり言った。
あっさり言われたので、俺はそれ以上聞かなかった。
人混みの中を、押されながらずっと歩いていた。寒い。誰だって疲れる。
俺たちはベンチに座った。
人が歩いていく。ほとんどが二人だ。手をつないでいるのも、腕を組んでいるのも、笑っているのもいる。
「多いですね」
「今日だけだな」
「では、今のうちに、見ておきます」
その言い方を、俺はそのとき、ただの感想だと思った。
「そういえば、感想」
「はい」
「あとで言うって言ったろ」
彼女は少し考えて、それから、通りの方を向いたまま言った。
「明るすぎます」
「けなしてんのか」
「けなしていません。……明るすぎて、終わったあとが暗いだろうな、と思いました」
「変な感想だな」
「変です。ですので、あとにしました」
✱
「奏太さん」
「うん」
「言いましたよ、さっき」
「何を」
「疲れました、と」
彼女はこっちを見た。
「夏は、言うまでにずいぶんかかりました」
「かかったな」
「今日は、すぐ言えました」
「進歩だな」
「進歩です」
俺は笑った。
笑いながら、どこかで一つ、噛み合っていない音を聞いた気がした。
気がしただけだった。
✱
俺はスケッチブックを出した。
「動くな」
「ここでですか」
「明るいからな、今日は」
描いたのは、ベンチに座って、灰色のマフラーに口元を埋めている人だった。
後ろに光の帯がある。夏祭りの絵と、構図が少し似た。
「これは、綺麗に描いてくださいましたね」
「今日はな」
「なぜですか」
「今日のお前が、そういう顔してたから」
彼女は絵を見て、それから、少し長く黙った。
「同じことを、夏にも言われました」
「言ったな」
「覚えています」
「お前、全部覚えてるからな」
「覚えます。覚えるのは、得意です」
「昔からか」
「いいえ」
彼女は絵から目を上げた。
「今年の、夏からのぶんだけです。それより前は、覚えていません」
「なんでだよ」
「覚えるものが、ありませんでした」
✱
「奏太さん」
「うん」
「来年も、ここに来ましょう」
夏祭りのときは、俺が「来るよ」と言った。誕生日のときも、俺が言った。
今日は、この人から言った。
「来る」
「約束ですか」
「約束」
「夏の花火も、まだ残っています」
「川の方な」
「はい」
「行くよ」
「約束が、増えました」
「増えたな」
彼女はマフラーの端を、指で一度たぐった。
✱
帰りは、改札まで一緒に歩いた。
今日は迎えを頼まなかったらしい。電車で帰る、と言っていた。
「明日は」
「五時に、同じ場所で」
「二日連続かよ」
「両方、と申し上げました」
「言ったな」
改札の前で、彼女は一度、マフラーを直した。
直してから、こっちを見た。
「奏太さん」
「まだあんのか」
「今日は、いい日でした」
「明日もそうしろよ」
「はい」
彼女は改札を通って、少し進んで、それから振り返った。
振り返ったまま、動かなかった。
人が横を通り過ぎていく。
「どうした」
彼女は首を振って、それから、いつもの完璧な角度で頭を下げた。
「なんでもありません」
その言い方が、今までのどの「ありません」とも違っていた。




