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お嬢様は俺だけの素顔を知っている ~優等生をやめた夏、彼女と本当の恋が始まった~  作者: トンエリア


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第25話 はじめての、聖夜

 十二月二十五日、五時。


 今日は、彼女の方が先にいた。


 昨日と同じ柱のところに立って、昨日と同じコートを着て、首に灰色のマフラーを巻いていた。


 巻き方が、昨日俺が直したままだった。


「早いな」


「今日は、勝ちました」


「勝ち負けじゃないだろ」


「勝ちです」


 得意げなときの、あごの角度だった。


 顔は、昨日より白かった。


 白いのはこの人の標準だ。標準なのに、目の下だけ違う。


「なんかあるか」


「ありません」


「そうか」


 いつもの一往復だった。


 いつもの一往復のはずだった。


 ✱


「奏太さん」


「うん」


「今日は、あまり歩けません」


 俺は足を止めた。


 この人が、自分の側から条件を出したのは初めてだった。ゆっくり歩いてくれと言ったことはある。座りますと言ったこともある。でも、最初から「歩けない」と言ったことはない。


「じゃあ、どっか座るか」


「少しは歩きます」


「どっちだよ」


「少しだけ、歩きたいのです」


 ✱


 昨日と同じ通りを歩いた。


 電球は昨日と同じように光っていて、人は昨日より少なかった。


 俺たちは、昨日の半分くらいの速度で歩いた。


 手はつながなかった。今日は人に押されなかったからだ。


 つながなかったことを、俺はあとで何度も思い出すことになる。


「奏太さん」


「うん」


「明日、お話ししたいことがあります」


 俺は横を見た。


 彼女は前を向いていた。マフラーで口元が半分隠れている。


「今じゃ駄目なのか」


「今日は、いい日にしたいので」


「昨日もいい日にしただろ」


「はい。ですので、今日もです」


 連続でいい日にしたい人間の言い分としては、正しかった。


 正しかったので、俺は待つことにした。


 毎日聞くと言った。言った以上は聞く。でも、向こうから言うと言われたなら、待つ方が先だ。


 俺はそう判断した。


 その判断を、俺は今でも許していない。


 ✱


 通りの終わりが見えたあたりで、彼女が言った。


「明日は、リストの十六番にしましょう」


「何だ、それ」


「まだ言いません」


「もったいぶるなよ」


「もったいぶっています」


 少し笑った。


 笑って、それから、彼女の歩幅が変わった。


 変わった、というより、止まった。


「白鷺院」


 声が出るより先に、名字が出た。


 彼女はこっちを見た。見て、口を開けた。


「奏太さ——」


 そこで止まった。


 体が、前に落ちた。


 ✱


 受け止めたのは、たぶん、体が勝手に動いたからだ。


 夏に自転車から落ちそうになったこの人を、俺は一度受け止めている。あのときは走って追いついた。


 今日は、隣にいた。


 隣にいたのに、間に合ったという感じが、まったくしなかった。


 軽かった。


 持ち上げているわけでもないのに、腕にかかっている重さが、記憶より軽かった。


 マフラーが片方、地面に垂れていた。


「おい」


 返事がない。


「おい、白鷺院」


 目が閉じている。


 顔の色が、白いを通り越して、何かが抜けた色になっていた。


 周りの音が、遠くなった。


 電球はまだ光っていた。曲もまだ流れていた。誰かが「え」と言った。誰かが走ってきた。


「救急車!」


 俺が叫んだのか、他の誰かが叫んだのか、分からない。


 ✱


 人が集まってきた。


 誰かが「離して寝かせて」と言った。俺は言われた通りにした。


 膝をついて、彼女の手を持った。


 手袋を外した。


 冷たかった。


 九月に、この人の手が冷たかったことがある。あのとき俺は、力が入っているだけだと思った。


「澪」


 声が出た。


 人前で、その名前を呼んだのは初めてだった。


 三年かけて作った顔が、そのとき、たぶん全部剥がれていた。剥がれたことに、俺は気づきもしなかった。


「澪」


 サイレンの音が、遠くから近づいてきた。


 ✱


 救急車に乗せられるとき、俺は一度、止められた。


「ご家族の方ですか」


「違います」


 違います、と言った自分の声を、俺は覚えている。


 違わない、と言えるものを、俺は何も持っていなかった。同じクラスでもない。親戚でもない。この人の家に上がったことはあるけれど、それを説明する言葉がない。


「学校の、同級生です」


 結局、そう言った。


 乗せてもらえた。誰かが気を利かせたんだと思う。あとになって考えると、あの判断をした人に、俺は礼を言い損ねている。


 車の中は狭くて、明るくて、うるさかった。


 地面に落ちていたマフラーを、俺はいつのまにか握っていた。


 病院の廊下は、どこも同じ形をしている。


 長い椅子があって、壁が薄い色をしていて、天井の灯りが白い。


 俺はそこに座っていた。


 何時間座っていたのかは分からない。時計はあったけど、見ても数字が入ってこなかった。


 救急の人に聞かれたことには、全部答えた。名前。学校。連絡先。倒れる前に何をしていたか。歩いていました、と俺は言った。歩いていただけです、とも言った。


 言いながら、それが答えになっていないことは分かっていた。


 三時間前、俺はこの人と手をつながなかった。


 人に押されなかったからだ。


 その理由を、俺は何度も頭の中で並べ直した。並べ直しても、順番は変わらなかった。


 途中で、母から着信があった。


 遅いけどどこにいるのか、という内容だった。俺は、友達が具合悪くなったから病院にいる、とだけ言った。


『大丈夫なの』


「分かんない」


 その三文字を言うのに、少しかかった。


 ✱


 早坂琴音が来たのは、それから少し経ってからだった。


 廊下の向こうから、あの人が歩いてきた。


 歩いてきた、というのは正確じゃない。


 あの人は、走っていた。


 紺のスーツで、髪が乱れていて、片手にコートを持ったまま、走ってきた。


 俺はその人を、夏から何度も見ている。


 走っているところは、一度も見たことがなかった。


 俺の前で止まって、それから、いつもの声を出そうとして、失敗した。


「……ご一緒でしたか」


「はい」


「そうですか」


 あの人は、それだけ言って、看護師のいる方へ行った。


 しばらくして、戻ってきた。


 戻ってきたときには、髪も直っていたし、コートも腕にかけ直されていた。


 あの人は俺の隣に立って、廊下の白い床を見ていた。


「桐谷様」


「はい」


「わたくしは、お嬢様に口止めをされております」


 俺は顔を上げた。


「ですので、これから申し上げることは、わたくしが勝手に申し上げることでございます」


「……はい」


「お嬢様、来年の夏を越えられないかもしれません」


 ✱


 廊下の灯りが、白かった。


 昨日の夜、通りの電球も白かった。


 あれは明るすぎる、とこの人は言った。明るすぎて、終わったあとが暗いだろうな、と。


 俺はそれを、変な感想だと言った。


 変な感想だと言って、笑った。


 夏の花火に行く約束をした。来年もここに来る約束をした。


 どっちも、この人は、知っていて言った。


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