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お嬢様は俺だけの素顔を知っている ~優等生をやめた夏、彼女と本当の恋が始まった~  作者: トンエリア


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第26話 はじめての、病名

 年が明けるまでの六日間、俺は毎日病院に行った。


 毎日、会えなかった。


 受付で名前を言うと、面会はできませんと言われる。それだけだ。理由は教えてもらえない。俺は家族じゃないので、教えてもらう資格がない。


 琴音さんからは、二日に一度、短い文が来た。


『本日も、面会はお控えください』


『命に別状はございません』


『年内は難しいかと存じます』


 文面はいつも同じ調子で、そこから何かを読み取ろうとするのは無駄だった。


 俺は正月をほとんど覚えていない。テレビがついていて、母が何か作っていて、俺は自分の部屋で二冊目のスケッチブックを開いて、また閉じた。


 ✱


 一月四日に、連絡が来た。


『本日の午後、面会が可能でございます』


『お嬢様が、お呼びでございます』


 ✱


 病室は、四階の端だった。


 個室で、窓が大きくて、ベッドの周りに何もない。


 あの部屋と似ていた。広くて、何も置いていない、あの部屋と。


 彼女はベッドの上で、上半身を起こして座っていた。


 髪は下ろしている。パジャマの上に薄い上着を羽織っていて、枕元に、灰色のマフラーが畳んで置いてあった。


「奏太さん」


「……よう」


 言ってから、自分の第一声のひどさに気づいた。


「ずいぶん間が空きましたね」


「毎日来てた」


「知っています」


「知ってたのかよ」


「琴音が、毎日報告してきました。今日も来られました、と」


 あの人は、報告する相手を間違えている。いや、間違えていない。


 彼女は少しだけ笑った。


 顔は、まだ白かった。白いのに、目の下の色は前より薄くなっていた。


「見られたくない顔です」


「今さらだろ」


「今さらでは、ありません」


 寝坊した日と同じやりとりだった。あのときは、俺が勝った。


 今日は勝てる気がしなかった。


 ✱


「座ってください」


 丸椅子が一つあった。俺はそこに座った。


 座ったら、二人とも黙った。


 病室というのは、黙ると音がない。廊下の音が遠くから来るだけだ。


 沈黙が平気だったのは、あれは電話と、河川敷と、あの部屋の話だ。


 ここでは、平気じゃなかった。


「話、あるんだろ」


「あります」


「二十六日に聞くはずだったやつだな」


「……はい」


 彼女は自分の手を見た。指に何もついていない。指輪も、絆創膏も、鉛筆の跡も。


「順番に、お話しします」


「うん」


「途中で、口を挟まないでください」


「挟むかもしれない」


「挟まないでください」


 三回目を言われる前に、俺はうなずいた。


 ✱


「私の心臓は、生まれつき、弱いのだそうです」


 最初の一文が、それだった。


「筋肉が、少しずつ、うまく動かなくなっていきます。すぐにではありません。何年もかけて、少しずつです」


 彼女は淡々と喋った。何度も説明されて、何度も自分で言い直した人の喋り方だった。


「小さいころは、走らないようにしていれば、それで済みました。だから、走らない人として育ちました」


 息を乱さない歩き方。腕を振らない。歩幅を広げる。


 あれは、しつけじゃなかった。


「薬を飲んでいます。ずっと飲んでいます。薬は、進むのを遅くするだけで、止めるものではありません」


「……いつからだ」


「口を、挟まないでください」


「悪い」


「中学の、三年の冬です」


 答えてから、彼女は少し言い直した。


「その冬に、最後まで進んだときにどうなるかを、教えられました」


 ✱


「手術の話が、ずっとあります」


 彼女はそこで一度、窓の方を見た。


「受ければ、助かるかもしれません。受けなければ、あと一年か、二年です」


「じゃあ——」


「口を」


「……ああ」


「受けなければ、二年です。受けて、失敗すれば、その日で終わります」


 俺は自分の膝を見ていた。


「私は、受けないことにしていました」


 彼女の声が、初めて少し落ちた。


「二年あれば、高校を卒業できます。父にも、母にも、何も起きません。琴音も、そのまま勤めていられます」


「お前は」


「私は、いなくなります。ですが、それは、いつかそうなることです」


「そんな計算するなよ」


「計算しか、ありませんでした」


 ✱


 彼女は枕元の引き出しを開けて、手帳を出した。


 夏からずっと見てきた、あの黒い手帳だ。


 こっちに差し出した。


「開いてください」


 俺は開いた。


 三十七項目。最初の何行かには線が引いてある。学校をサボる。コンビニに入る。ゲームセンター。写真を撮る機械。かき氷。自転車に乗る。用がないのに電話をする。夏祭りに行く。購買でパンを買う。誰かと一緒に帰る。人にものを借りる。自分で作ったものを食べてもらう。人の家に遊びに行く。誰かの誕生日を祝う。クリスマスを誰かと過ごす。


 全部、俺が横にいた。


「奏太さん」


「うん」


「それは、したいことのリストではありません」


 俺は顔を上げた。


「書いたのは、中学三年の冬です。教えられた日の、夜です」


 紙をめくる音が、頭の中で鳴った。夏の電話だ。あのとき俺は、いつ書いたのかを聞いた。この人は「何年か前です」と言って、そこで間が空いた。


 覚えていない人の間の空け方じゃない、と俺は思った。


 思っただけだった。


「そこに書いてあるのは、」


 彼女は一度、息を吸った。


「このまま終わったら、心残りだな、と思ったことです」


 ✱


 病室の音が、なくなった。


 なくなったというより、俺の側で何かが止まった。


 思い残し。


 ドリンクバーの前で固まっていたのも。プリクラの三枚目も。自転車で三十メートル走ったのも。射的で当たったと二回言ったのも。焼きそばパンも。寝癖も。弁当の卵焼きも。予定表も。


 全部、消化だった。


 この人は、この夏、終わらせる準備をしていた。


 俺は、それを手伝っていた。


 毎回、笑いながら。


「奏太さん」


「……」


「顔が」


「うるさい」


 俺は手帳を閉じた。閉じたのに、開いていたページが目に残っていた。


 ✱


「一つだけ、訂正させてください」


「なんだよ」


「最初は、そうでした」


 彼女は自分の膝の上で、手を組んだ。


「六月に、旧音楽室で奏太さんを見つけたとき、私は、あと二年で終わる人でした。だから、練習をお願いしました。終わる前に、一度くらい、完璧でない自分を見てみたかったので」


「……うん」


「途中から、変わりました」


「どこからだ」


「分かりません。……ただ、夏の終わりに、雨が降った日があります」


 神社の軒下だ。


「あの日、終わってほしくないと言いました。あれは、夏のことではありません」


 俺は何も言えなかった。


「終わりたくない、と思ったのは、あれが初めてです」


 ✱


 窓の外が、少し暗くなってきていた。


 冬の四時は、もう夕方だ。


「じゃあ、手術受けろよ」


 言ってから、自分の声が固いのが分かった。


「受ければ助かるかもしれないんだろ。だったら」


「奏太さん」


「受けろよ」


「今日は、そのお話ではありません」


「じゃあ何の話だよ」


 彼女はこっちを見た。


 完璧な微笑みだった。夏の中庭で見たのと、同じやつだ。


「全部お話ししましたので、もう、いいのです」


「よくないだろ」


「よいのです」


 その声が、二学期のあいだずっと聞いていた「大丈夫です」と、同じ高さだった。


「奏太さんは、リストを手伝ってくださいました。ありがとうございました」


「おい」


「ですので、もう」


 彼女はそこで一度だけ、言葉を止めた。


 止めて、それでも最後まで言った。


「もう、来ないでください」


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