第27話 はじめての、反論
三学期は一月八日から始まった。
二組の窓際から二番目の席には、鞄がなかった。
その日も、次の日も、その次の日も。
廊下を、いつもの時間に歩いた。歩く理由はもうないのに、体が勝手にそこを通る。
誰ともすれ違わなかった。
二組の教室の前を通ると、話し声が聞こえる。
「白鷺院さん、いつ戻ってくるのかな」
「三学期いっぱい休むって聞いた」
「委員長どうすんだろ」
みんな普通に喋っていた。心配していないわけじゃない。ただ、心配は三日で日常に混ざる。
俺のクラスでも同じだった。二組の話は、二組の話だ。
混ざらなかったのは、たぶん、俺だけだった。
✱
教室での俺は、たぶん、いつも通りだった。
宿題を見せて、笑って、面倒な当番を引き受けた。三年かけて作ったものは、頭が働いていなくても勝手に動く。便利なものだ。
便利なものだと思ったところで、四時間目の途中に一度、頭が空になった。
教師が俺の名前を呼んだ。二回呼ばれて、俺は立った。
何を聞かれたのか分からなかった。
教室が静かになって、それから、誰かが小さく笑った。
「桐谷でも分かんないことあるんだ」
その笑いに、俺は普通に笑い返した。
笑い返してから、自分の口が動いたことに気づいた。
✱
放課後、大地が来た。
「桐谷」
「なんだよ」
「白鷺院さん、入院したって」
俺は鞄のファスナーを閉める手を止めた。
「そうらしいな」
「らしいな、じゃねえだろ」
あいつは俺の前の席の椅子を引いて、後ろ向きに座った。
「クリスマスに駅前で人が倒れたって話、二組の連中が言ってた」
「……」
「そのとき一緒にいたやつが、名前呼んで叫んでたって」
俺は何も言わなかった。
「桐谷」
「なんだよ」
「隠すのは勝手だけどな」
あいつは机の縁を、指で一度叩いた。
「今のお前の顔、めちゃくちゃ下手だぞ」
✱
俺は自分の顔を触った。
触っても、何も分からなかった。
「一学期からずっと見てたけどな」
「見るなよ」
「見えるんだよ、前の席なんだから」
大地は少しのあいだ黙って、それから言った。
「夏、お前、変わったろ」
「変わってない」
「変わったよ。前は、こっちが冗談言うと、いったん考えてから笑ってた」
俺はそれを知らなかった。
「今は、先に笑うか、普通に無視するかのどっちかだ。そっちの方がいい」
「……そうかよ」
「で、今は」
あいつは椅子から立った。
「今のお前、一学期より下手だ。一学期の桐谷は、少なくとも上手かった」
あいつは鞄を肩にかけて、ドアの方へ歩いた。
歩いてから、一度だけ振り返った。
「聞かないからな、俺は」
「聞けよ、そこまで言ったなら」
「聞いたら言うだろ、お前。言ったら楽になるだろ」
「なるだろ」
「楽になるとな、そのまま何もしないんだよ」
あいつは手を上げて、出ていった。
三好大地は、一学期からずっとこうだ。肝心なところだけ、正しい。
✱
その夜、俺は琴音さんに電話をかけた。
連絡先は、あの人から先に来た文のところに残っていた。かけていいのかは分からなかった。かけた。
『はい』
「桐谷です」
『存じております』
「あの」
そこで詰まった。
何を聞くつもりで押したのか、自分でも整理できていなかった。
『お嬢様は、面会をお断りになっております』
「……はい」
『わたくしから申し上げられるのは、そこまででございます』
「そうですか」
『わたくしは、お嬢様の使用人でございますので』
夏に、二階の廊下で聞いたのと同じ言葉だった。あのとき俺は、答えになっていない、と思った。
今度は、続きがあった。
『——ですが』
「はい」
『桐谷様は、お嬢様の使用人ではございません』
俺は、スマホを持ち直した。
『わたくしは、命じられたことしかできません。命じられていないことをできる方が、一人だけおられます』
「それ、俺に言っていいんですか」
『いけません』
あの人は、少しも声を変えなかった。
『ですので、これも、わたくしが勝手に申し上げております』
✱
電話を切って、俺は机の前に座った。
スケッチブックが二冊、置いてある。
一冊目を開いた。
一枚目。旧音楽室で、かき氷は何味かという話をしていたときの顔。
二枚目。器を見下ろしている横顔。
三枚目。土手に座って、ペットボトルを両手で持っている人。
四枚目。机の上の白い犬と、暗い画面のスマホ。
五枚目。浴衣で、ぬいぐるみを両手で持っている人。
六枚目。跳ねた髪。
俺は、それを順番にめくった。
全部、思い残しの記録だ。
そう思って見ると、実際にそう見えた。この人はリストを消していて、俺はその横で笑っていて、線が一本ずつ減っていく。
三十七から、二十二まで。
✱
七枚目でめくる手が止まったのは、たまたまだった。
焼きそばパンを持っている絵だ。あれはリストの九番。購買でパンを買う。
その前のページに戻った。
六枚目。
跳ねた髪。図書館。寝坊した日。
あの日、リストは減っていない。
俺はもう一度、前に戻った。
四枚目。電話の夜。あれもリストの七番だ。ただし絵に描いてあるのは白い犬とスマホで、この人はどこにもいない。
もう一度、後ろへ。
十二枚目。
閉じたピアノに背を向けて、広い部屋の床に座っている人。
あの日、リストは減っていない。
俺は絵から目を上げた。
あの日、この人は何と言ったか。
——リストにありません。私が、そうしたかっただけです。
✱
俺は一冊目を最初から並べ直した。
机の上に、十四枚ぶんのページを開いて、順番に。
リストの番号がついている日と、ついていない日がある。
ついていない日が、三枚あった。
四枚目。六枚目。十二枚目。
三枚とも、この人が笑っている絵だった。
思い残しは、番号がついている方だ。番号がついていない日は、思い残しじゃない。
あれは、ただ、この人がそうしたかった日だ。
スマホを出した。
十一月の写真が残っている。水族館の、明るいスロープのところで撮ったやつだ。
一枚目は目をつぶっていて、二枚目はちゃんと写っている。
その次に、二人で写ったのが二枚。一枚目は距離が空いていて、二枚目は向こうが半歩寄っている。
あの半歩は、リストのどこにも書いていない。
俺はその写真を、しばらく見ていた。
消さないでください、とこの人は言った。
消さないでください、というのは、残しておいてくださいということだ。
残しておいてくれと言うやつが、もう来るなと言うな。
✱
俺はページを閉じた。
閉じて、しばらく、二冊目の表紙を見ていた。
一冊目が埋まったら渡す約束だった。だから、二冊目があると終わらない。
分かって買いました、とこの人は言った。
分かって買ったやつが、もう来るなと言うな。
✱
次の日、俺は学校を早退した。
仮病だ。夏に一度使った手を、二回目に使った。
病院までは電車で二十分かかる。その二十分で、言うことを考えた。
考えて、全部やめた。
用意した言葉は、たぶん、この人には効かない。あの人は用意された言葉を十六年聞いて生きてきた人だ。用意されたものは全部、聞き流す訓練ができている。
だから、持っていったのは二冊だけにした。
電車の窓に、自分の顔が映っていた。
大地の言う通りだった。下手だった。
直そうとして、途中でやめた。今日は、直さないで行く。
✱
四階の端。
ドアの前に立って、俺は一度だけ息を吸った。
中から音はしない。
ノックをした。
返事はなかった。
もう一度ノックをして、それでも返事がなかったので、俺はドアを開けた。
彼女はベッドの上で、窓の方を向いて座っていた。
こっちを見て、顔が止まった。
「……来ないでくださいと、申し上げました」
「聞いた」
「では」
「聞いたけど、それは断る」
俺は椅子を引いて、そこに座った。
鞄からスケッチブックを二冊出して、ベッドの脇の台に置いた。
「話がある」




