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お嬢様は俺だけの素顔を知っている ~優等生をやめた夏、彼女と本当の恋が始まった~  作者: トンエリア


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第28話 はじめての、予行練習

「聞きません」


 彼女はそう言って、窓の方を向いた。


「聞かなくていい」


「では、なぜ来られたのですか」


「見せに来た」


 俺は一冊目を開いて、台の上に置いた。


 彼女は見なかった。


 見ないので、俺はページをめくった。めくる音だけが病室に落ちた。


「四枚目」


「……」


「電話の日だ。机の上の白い犬と、暗い画面のスマホ。お前は描いてない」


「存じております」


「あの日、リストは減ってる。七番だ」


「はい」


「じゃあ聞くけど、その絵のどこにリストがあるんだ」


 彼女の視線が、少しだけ動いた。


 ✱


「六枚目」


 俺はページをめくった。


 跳ねた髪。図書館の閲覧席。


「寝坊した日だ。リストは減ってない」


「……減っていません」


「十二枚目」


 もう一度めくった。


 閉じたピアノに背を向けて、床に座っている人。


「お前の部屋だ。あの日もリストは減ってない」


「はい」


「あの日、お前は何て言った」


 彼女は答えなかった。


「言えよ」


「……覚えていません」


「嘘つけ。お前は全部覚えてる」


 その言葉が出た瞬間、彼女の肩が動いた。


「リストにありません、って言ったんだよ」


 俺はページの端を指で押さえた。


「私が、そうしたかっただけです。って」


 ✱


 病室の空気が、動かなくなった。


 彼女はまだ窓の方を向いていた。向いているのに、目はもう外を見ていなかった。


「思い残しなんだろ、リストは」


「……はい」


「じゃあ、この三枚は何だ」


「それは」


「言えよ」


「……ただ」


 そこで止まった。


 この人が言葉に詰まるのを、俺は何度も見ている。悪口を言えなかったとき。名前を呼べなかったとき。全部、言いたいのに出てこない詰まり方だった。


 今日のも、同じだった。


「ただ、なんだよ」


「……ただ、そうしたかっただけです」


「そうだろ」


 俺はスマホを出して、画面を向けた。


 水族館のスロープで撮った写真だ。二人で写っている二枚目の方。


「これ、覚えてるか」


「覚えています」


「一枚目は距離が空いてた。二枚目は、お前が寄ってきた」


「……」


「その半歩、リストの何番だよ」


 彼女は答えなかった。


「消さないでくださいって言ったろ」


「言いました」


「残しておいてくれって意味だろ」


「……はい」


「残しておいてくれって言うやつが、もう来るなって言うな」


 ✱


 彼女の手が、シーツを掴んでいた。


 掴んでいる指が白かった。それはたぶん、力のせいだった。


「……ずるいです」


「ずるくない」


「ずるいです」


「三回言っても引かないからな、俺は」


 彼女は三回目を言わなかった。


 かわりに、顔が下を向いた。


 肩が一度、大きく上がって、下がった。


 この人が泣くのを、俺は初めて見た。


 図書館で「今、泣きそうです。ご報告です」と言われたことがある。あのときは泣かなかった。目のふちを二回押さえて、それで終わりだった。


 今日は、報告がなかった。


 報告がないまま、静かに泣いていた。


 俺は何もしなかった。


 何かした方がいいのは分かっていた。分かっていたけど、この人が自分の意志なしに出したものを、途中で止めるのは違う気がした。


 ✱


 しばらくして、彼女が言った。


「私は、計算をやめられません」


 声が、少し掠れていた。


「受けなければ二年です。受けて失敗すれば、その日で終わります。……その日で終わると、奏太さんに、何も残りません」


「残るだろ、十四枚」


「残るのは、そちらだけです」


「十分だろ」


「十分では、ありません」


 彼女は顔を上げた。


 目が赤かった。完璧な微笑みは、どこにもなかった。


「私は、奏太さんに、悲しい顔をさせたくないのです。それだけです。それだけのために、全部、決めました」


 ✱


 俺はスケッチブックを閉じた。


 閉じて、椅子を少しだけ前に引いた。


「じゃあ、俺の話をする」


「はい」


「お前のリスト、三十七項目あるよな」


「あります」


「あれ、思い残しなんだろ」


「はい」


「やめろ」


 彼女がこっちを見た。


「思い残しじゃなくて予行練習にしろ。全部、治ってからもう一回やる」


 ✱


 病室が、静かだった。


 廊下を台車が通る音がした。どこかで扉が閉まった。


「……もう一回」


「もう一回だ」


「同じことを、ですか」


「同じことをだよ。ドリンクバーも、ゲーセンも、自転車も、全部だ」


「意味がありません。もう、済んでいます」


「済んでねえよ」


 俺は台の上の一冊目を、指で叩いた。


「一枚目、覚えてるか。かき氷の話をしてて、お前が笑った日だ」


「覚えています」


「あのとき俺、下描きを三回消してる。うまく描けなかったからだ」


「……気づきませんでした」


「気づかせてないからな」


 俺は二冊目を持ち上げた。まだ一枚も使っていない、新しい方だ。


「もう一回やったら、今度はもっとうまく描ける。お前ももっとうまく笑う。同じことを二回やるって、そういうことだろ」


「そんな理屈は」


「理屈だよ。俺は今、理屈で話してる」


 ✱


「失敗したら、どうするんですか」


 彼女の声は、静かだった。


「知らねえよ」


「知らない、では」


「そのときのことは、そのとき考える」


「考えないのですか」


「考えない」


 俺は椅子の背にもたれた。


「お前、いつも先に全部考えるだろ。断ったら誰が代わりに出るか、順位がどれだけ下がるか、二年あれば誰に何が起きないか。全部、先に考えてる」


「……はい」


「一回くらい、考えないでやれよ」


 彼女は口を開けて、それから、閉じた。


「私は、そういうふうにできていません」


「知ってる。だから練習しろよ」


 その言葉で、彼女の目がもう一度、揺れた。


「夏に、お前が俺に言ったことだぞ、それ」


 ✱


 彼女はしばらく、二冊目の表紙を見ていた。


 俺はそれを、彼女の膝の上に置いた。


「これ、まだ一枚も使ってない」


「……はい」


「一冊目が埋まったら渡す、って約束だったよな」


「はい」


「だから、埋めさせろ」


 彼女は表紙に手を置いた。


 置いて、指の腹で、そこを一度なでた。新品の紙の音がした。


 夏に俺が言ったことを、この人は覚えていて、二冊目を買った。買ったときに、この人はもう自分の終わりを計算に入れていた。


 入れたうえで、買った。


 それが答えだと、俺はずっと思っている。


 ✱


「動くな」


「今日は、だめです」


「動くな」


「顔が」


「知ってる」


 俺は鉛筆を出した。


 描いたのは、ベッドの上で、目のふちが赤いまま、こっちを見ている人だった。


 綺麗じゃなかった。この夏に描いたどの一枚より、崩れていた。


 十五枚目。


 見せると、彼女は長いこと黙っていた。


「……ひどい絵です」


「ひどいな」


「なぜ描いたのですか」


「今日のお前が、そうだったから」


 その返しを、俺はもう何度もしている。


 何度もしているのに、この人は毎回、同じ顔をする。


 ✱


 窓の外が暗くなってきた。


 面会の時間が終わる。


 俺は鞄を持って、立った。


「明日も来る」


「……はい」


「明後日も来る」


「はい」


 彼女は二冊目を膝に載せたままだった。


 載せたまま、こっちを見た。


「奏太さん」


「なんだよ」


「受けます」


 俺は、そこで止まった。


「手術を、受けます」


 声は小さかった。小さかったけど、はっきりしていた。


「……そうか」


「はい」


「よく言った」


「はい」


 彼女はうなずいて、それから、少し目を伏せた。


「ですが」


「なんだよ」


「父の、同意がいります」


 俺はその意味を、少し遅れて理解した。


 この人はまだ十七になっていない。手術を受けるのに、自分の署名だけでは足りない。


「反対してんのか、あの人」


「反対、とは少し違います」


 彼女は膝の上の二冊目を、両手で押さえた。


「父は、確実にある二年の方を選んでいます」


「……二年」


「手術は、賭けです。父は、娘を賭けの対象にはできない、と言いました」


 俺はその言い方を、どこかで聞いた気がした。


 思って、すぐに分かった。


 昨日、この人が言ったやつだ。


 ——二年あれば、高校を卒業できます。父にも、母にも、何も起きません。


 この人の計算は、この人が考えたものじゃなかった。


 その家では、それが正しい考え方として、ずっと使われてきたんだと思う。


「その計算、間違ってるって言うやついるのか」


「いません」


「一人もか」


「一人もいません。……父の計算は、いつも正しいので」


「正しくても間違ってることはあるだろ」


「そういう言い方を、聞いたことがありません」


「じゃあ、俺が言う」


「奏太さん」


「会わせろよ、その人に」


「……父は、人の話を聞く人ではありません」


「聞かせる」


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