第29話 はじめての、対面
段取りをつけたのは、琴音さんだった。
俺が「会わせてくれ」と言ってから、返事が来るまで四日かかった。
『日曜の午前、少しだけお時間をいただきました』
『十分ほどかと存じます』
『それ以上は、お約束できません』
✱
日曜の朝、俺は制服を着た。
私服で行こうか迷って、やめた。私服で行っても、あの家の基準では私服にならない気がした。
塀は夏に見たときと同じ長さだった。
門の前で、琴音さんが待っていた。
「おはようございます」
「……おはようございます」
「顔が固いです」
「固いですよ」
「結構でございます」
あの人はそう言って、門を開けた。
✱
廊下を歩いた。
夏に一度歩いた廊下だ。あのとき、途中に閉まったドアが一つあった。琴音さんはそこだけ歩く速度を変えなかった。
今日は、そのドアの前で止まった。
「こちらでございます」
あの人はノックをして、中の返事を待たずにドアを開けた。
開けてから、俺の方を見た。
「桐谷様」
「はい」
「わたくしは、ここまでです」
✱
書斎は、思っていたより暗かった。
窓はある。ただ、カーテンが半分閉まっていて、光が机の端までしか届いていない。
壁は全部、本だった。読むための本じゃない気がした。並んでいる背の高さが、全部そろっていた。
机の向こうに、人が座っていた。
白鷺院宗一郎。
立ち上がらなかった。俺が入ってきたのを見て、書類から目を上げて、それだけだった。
「桐谷奏太くん」
「はい」
「かけなさい」
椅子が一つ、机の正面に置いてあった。俺はそこに座った。
座ってから気づいた。
この人の顔は、澪に似ている。
似ているというより、同じものが載っている。目の形も、口の端の角度も。完璧な微笑みの、元の型がここにあった。
✱
「娘のことだそうですね」
「はい」
「早坂から聞いています。手術のことを、話しに来られたと」
「そうです」
「では、聞きましょう」
この人は、こっちが喋るのを待つ姿勢をとった。
用意した言葉は、電車の中で全部捨てたつもりだった。捨てたのに、口を開いたら、いちばん上に残っていたやつが出てきた。
「本人が、受けると言っています」
「知っています」
「じゃあ」
「あの子は、君の前ではそう言うでしょう」
その言い方に、感情がなかった。
嫌味でもない。断定でもない。ただ、事実を並べる速度だった。
✱
「あの子は、相手に合わせて答えを変える子です」
「……変えてません」
「変えます。私の前では『分かりました』と言い、早坂の前では『大丈夫です』と言い、君の前では『受けます』と言う」
俺は膝の上で手を握った。
「それは、そういうふうに育ったからでしょう」
初めて、この人の目がこっちを見た。
まっすぐだった。逸らす気配が、まったくなかった。
「そうです」
✱
認められると思っていなかった。
俺は、そこで一度、言葉を失った。
「あの子は私が育てました。相手に合わせて答えを変えるのも、私が教えたことです」
「じゃあ」
「その私が、今、あの子の答えを信用していない。それだけの話です」
この人は、自分に不利なことを平気で並べる。並べたうえで、結論を変えない。
夏に琴音さんに測られたときとは、種類が違った。あの人は見ていた。この人は、計算している。
✱
「桐谷くん」
「はい」
「手術の話は、私も何度も聞いています。数字も見ています」
「数字」
「成功する見込みと、しない見込みです。私は数字を扱う仕事をしています。あの数字を、良い数字だとは言えません」
「でも、受けなかったら——」
「二年です。知っています」
この人は、俺が言おうとしたことを先に置いた。
「二年あります。私は、その二年を選んでいます」
「二年で終わるって、分かってて選ぶんですか」
「終わらせないために選んでいるのではありません」
カーテンの隙間から入っている光が、机の端で止まっていた。
「終わるまでの時間を、確実にするために選んでいます」
✱
「一つ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「その二年のあと、あなたはどうするんですか」
初めて、この人の指が止まった。
書類の角を揃えようとしていた指だ。止まって、それから、また動いた。
「質問の意味が分かりません」
「二年経って、確実に終わって、そのあとの話です」
「私の話は、今、関係がありません」
「関係ありますよ」
俺は自分の声が少し大きくなったのに気づいた。気づいたけど、下げなかった。
「二年って言ってるの、あなたです。あなたが決めた二年のあとに、あなたが残るんですよ」
この人は、少しのあいだ黙っていた。
黙ったのは、たぶん、答えを探していたからじゃない。
「桐谷くん」
「はい」
「私はこの十六年、必要な判断を全部してきました」
「はい」
「そのうち、後悔していないものは、一つもありません」
✱
その言い方に、感情が乗っていなかった。
乗っていないのに、俺はそこで初めて、この人が疲れていることに気づいた。
「あの人、笑いますよ」
俺は、気づいたら喋っていた。
「あの子は昔から笑います」
「そうじゃなくて」
「では、どういう意味ですか」
「……あなたが知ってる笑い方じゃないやつです」
この人の目が、ほんの少しだけ動いた。
動いたのは一度だけで、そのあとはもう動かなかった。
「知っています」
「知らないと思います」
「桐谷くん」
「はい」
「私は、あの子の父です」
その一文で、話は終わった。
終わらせるための一文だった。
✱
俺は、そこで何も言えなくなった。
この人は反対しているんじゃない。
賭けないことを選んでいる。それだけだ。
俺が用意していた言葉は、全部、反対している人間に向けたものだった。
「桐谷くん」
「……はい」
「一つだけ、聞かせてください」
この人は書類を閉じて、それを机の端に置いた。
「君は、あの子の何を知っているのですか」
✱
鞄の中に、二冊入っている。
一冊目には十五枚ある。ドリンクバーで固まっている顔も、跳ねた髪も、泣いた顔もある。
出そうとして、俺の手は動かなかった。
あれは俺が描いたものだ。でも、写っているのは俺じゃない。
この人に見せていいかどうかを、俺はあの人に聞いていない。
聞いていないものを、勝手に持ち出す資格が、俺にはなかった。
「……知ってます」
「何を」
「言えません」
「言えない」
「今日は、言えません」
この人は、少しのあいだ、俺を見ていた。
それから、机の書類を引き寄せた。
「そうですか」
✱
それで終わりだった。
言われた通り、十分もかからなかった。
立ち上がって、頭を下げて、ドアまで歩いて、俺は一度だけ振り返った。
この人は、もう書類を見ていた。
見ているのに、ページはめくっていなかった。
✱
門まで、琴音さんが送ってきた。
冬の午前は、光が薄い。
「負けました」
「そのようでございますね」
「慰めないんですね」
「わたくしは、嘘を申し上げません」
あの人は門の掛け金に手をかけて、そこで止まった。
「桐谷様」
「はい」
「旦那様は、日曜のご予定を、一度も動かされたことがございません」
俺は顔を上げた。
「わたくしがお伝えしたのは、月曜でございます。旦那様が日曜とおっしゃいました」
「……それ、どういう意味ですか」
「意味は、申し上げません」
あの人は掛け金を外した。
「ただ、あの方が日程を前に動かされたのは、わたくしの記憶にございません」
門が開いた。
「それだけでございます」
✱
帰りの電車で、俺は鞄の中の二冊に手を触れた。
出せなかった。
出せなかったのは、正しかったと思う。あれは俺のものじゃない。
ただ、正しかったからといって、何かが前に進んだわけでもなかった。
次に行くときまでに、一つだけ、やることがある。
あの人に、聞かないといけない。




