第30話 はじめての、許可
月曜の放課後、病室に行った。
彼女はベッドの上で本を読んでいた。膝の横に二冊目のスケッチブックが置いてある。ずっとそこにあるらしい。
「日曜に、父と会われたそうですね」
「早いな」
「琴音が、朝いちばんに報告してきました」
あの人の報告経路は、どこかで一方通行が壊れている。
「どうでしたか」
「負けた」
「はい」
驚かなかった。うなずき方に、予想が入っていた。
「勝てるはずがありません」
「言い切るなよ」
「父に勝った人を、私は知りません」
「一個だけ、変な返しがあった」
「変な返し」
「二年のあと、あんたはどうするんですかって聞いた」
彼女の指が、本の表紙の上で止まった。
「そんなことを、聞かれたのですか」
「聞いた」
「……父は、なんと」
「十六年、必要な判断は全部してきた。そのうち後悔してないやつは一つもない、って」
彼女は何も言わなかった。
言わないまま、しばらく本の角を見ていた。
「それは」
「うん」
「初めて聞きました」
「だろうな」
「父が、そういうことを人に言うのを、聞いたことがありません」
俺はそこで気づいた。
あの部屋で、あの人は、たぶん誰にも言ったことのないやつを一つ落とした。
落とした相手が、なんで俺だったのかは分からない。
✱
「あと、琴音さんが変なこと言ってた」
「琴音が」
「面会の日、月曜で伝えたのに、あの人が日曜にしたって」
「……日曜に」
「動かしたことないらしいぞ、日曜は」
彼女は膝の上の本を、両手で持った。
「父は、日曜に予定を入れません」
「みたいだな」
「ゴルフでも、会食でもです。日曜は、家にいる日と決めています」
「なんでだよ」
「分かりません」
彼女は少し考えて、それから言った。
「……ですが、私が小さいころは、日曜だけ、家にいました」
✱
「なんで自分で言わないんだ」
俺は椅子に座って、そう聞いた。
「お前が言えばいいだろ。受けたいって」
「言いました」
「いつ」
「倒れた次の日と、その次の日と、正月にも」
彼女は本を閉じた。
「父は、そのたびに『分かりました』と言います」
「じゃあ」
「父の『分かりました』は、了承ではありません。話を終わらせる合図です」
俺は、それをどこかで聞いた気がした。
聞いた気がして、すぐに思い出した。
この人が言っていたやつだ。父は私を「澪」と呼ぶが、あれは名前ではなく呼びかけの合図で、次に来るのはだいたい注意か確認だ、と。
この家は、言葉が全部、合図でできている。
「私の言葉は、父に届きません」
「なんでだよ」
「私が、届く言い方を教わっていないからです」
彼女は自分の手を見た。
「父に何かを頼んだことが、一度もありません。頼み方を、知らないのです」
「頼めばいいだろ」
「奏太さん」
「なんだよ」
「では、頼みます」
✱
俺は顔を上げた。
彼女は膝の上で手を組んで、こっちを見ていた。
「父に、届く言葉を持っていってください」
「……持ってくって、何を」
言いながら、自分でも分かっていた。
鞄の中に、二冊入っている。
彼女もそこを見た。
「それを、父に見せるつもりですね」
「そのつもりだった」
「日曜は、出さなかったのですね」
「出せなかった」
「なぜですか」
「お前に聞いてないからだよ」
✱
彼女は少しのあいだ、黙っていた。
病室の窓の外で、風が鳴っていた。一月の午後は、四時を過ぎるともう終わりかけている。
「見せないでください、と言ったら」
「見せない」
「本当ですか」
「本当だ」
「……ずるいです」
「なんでだよ」
「そう言われると、断れません」
「断っていいんだよ」
「断れません」
彼女は組んだ手に、少しだけ力を入れた。
✱
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「あの絵を見て、父はどうなりますか」
俺は答えを持っていなかった。
「分からん」
「私は、分かります」
彼女は窓の方を見た。
「父は、自分を責めます」
「……」
「あの絵には、父が一度も見たことのない私が写っています。それを見たら、あの人は、十六年ぶんを一度に数え直します。父は、そういう人です」
この人は、こういうときだけ、父親のことを正確に喋る。
「だから見せたくないのか」
「はい」
「そこ庇うなよ」
「庇っています」
あっさり認めた。
✱
「じゃあ、俺が言う」
「はい」
「責めさせろよ、その人に」
彼女の目が、こっちを向いた。
「二年でいいって言ってるんだぞ、あの人。それ言えるのは、自分が正しいと思ってるからだ」
「父は、正しいです」
「正しいよ。正しいけど、それが全部だと思ってる」
俺は膝の上で拳を握って、それから、開いた。
「一回くらい、間違ってるかもしれないって思わせないと、あの人は動かない」
「……はい」
「間違ってるかもって思ったら、人は責める。自分を」
「はい」
「痛いけどな。痛くないと動かない」
彼女はしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吸った。
「私が痛いのは、平気です」
「知ってる」
「父が痛いのは、平気ではありません」
「知ってる」
「……それでも、ですか」
「それでもだ」
✱
彼女は、二冊目のスケッチブックに手を置いた。
置いたまま、しばらく動かなかった。
それから、こっちを見た。
「奏太さん」
「うん」
「見せてください」
俺は、その言い方を聞いていた。
この人が誰かに何かを頼むのを、俺は夏から数えるほどしか聞いていない。手を持って動かしてください。ここを支えてください。少しだけ、こちらを見てください。
全部、俺にだけだった。
「分かった」
「一つだけ、お願いがあります」
「なんだよ」
「一枚目から、順番に見せてください」
「順番」
「はい。父は、結論から先に読む人です。順番に見せてください」
✱
俺は一冊目を出して、彼女の膝の上に置いた。
「どれがいちばんいい」
「私が選ぶのですか」
「参考までに」
彼女は開いた。
ページをめくる音が、しばらく続いた。
途中で、手が止まった。
六枚目だった。
跳ねた髪。図書館。寝坊した日の絵だ。
「これです」
「なんでだ」
「これは、私が選んでいない顔です」
夏に、この人が言ったことだった。奏太さんに見られている顔は、全部、私が選んだ顔でした。今日のは選んでいません。勝手に出ています。
あのとき俺は、それがいちばんいいやつだと言った。
「じゃあ、それを最後に置く」
「順番が変わります」
「変えていいだろ、そこは」
「……はい」
✱
面会の時間が終わりかけていた。
俺は二冊を鞄に戻して、立った。
「次の日曜、また行く」
「入れてもらえますか」
「入れてもらえなかったら、門の前で待つ」
「寒いです」
「寒いな」
彼女は少し笑った。
笑って、それから、思い出したように言った。
「奏太さん」
「まだあんのか」
「父に会ったら、一つだけ、聞いていただけませんか」
「なんだよ」
彼女は手を、シーツの上に置いた。
「私の名前を、どうして『澪』になさったのか」
「……名前」
「はい」
「聞いたことないのか」
「ありません」
彼女は窓の方を見た。外はもう、ほとんど暗かった。
「父があの名前を呼ぶのを、私は十六年聞いています。ですが、あれが名前として呼ばれたのを、一度も聞いたことがありません」




