第31話 はじめての、名前の話
次の日曜も、琴音さんが門を開けた。
「本日は、少し長くいただいております」
「長くって、どのくらいですか」
「終わるまででございます」
あの人は、それだけ言って先を歩いた。
✱
書斎は、前と同じだった。
カーテンが半分閉まっていて、光が机の端で止まっている。本の背の高さがそろっている。机の向こうに、同じ人が座っている。
「桐谷くん」
「はい」
「先週、言えないと言いましたね」
「言いました」
「今日は」
俺は鞄から一冊目を出して、机の上に置いた。
置いてから、両手を引いた。
「本人に、許可をもらってきました」
この人の目が、初めてスケッチブックの方へ動いた。
「あの子が」
「はい」
「見せてよいと」
「見せてください、と言われました」
その言い方で、何かが伝わったのかどうかは分からない。
ただ、この人は椅子を少しだけ前に引いた。
✱
「順番に見てください、と言われました」
「順番に」
「結論から読む人だから、だそうです」
この人の口の端が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。断定はできない。
「開きます」
俺は表紙をめくった。
✱
一枚目。
「旧音楽室です。かき氷は何味かって話をしてたときの顔です」
この人は何も言わなかった。
二枚目。
「そのかき氷を食べてるところです。緑のやつを選んでました」
三枚目。
土手に座って、ペットボトルを両手で持っている横顔。
「自転車の練習をした日です」
「自転車」
「乗れないって言うんで、教えました。二時間くらいやって、乗れるようになりました」
この人の指が、ページの端で止まった。
「これは」
「疲れました、って言った日です」
「……」
「生まれて初めて言った、って本人が言ってました」
書斎が、静かになった。
外で車が通る音がした。この家の前の道は、日曜でも車が通る。
「めくります」
✱
四枚目。机の上の白い犬と、暗い画面のスマホ。
「用がないのに電話をした日です。この日、絵に本人はいません」
五枚目。浴衣。
「夏祭りです。射的で初めて勝ちました。跳ねてました」
「跳ねていた」
「跳ねてました。本人は跳ねてないって言い張ってましたけど」
この人は、ページから目を離さなかった。
✱
七枚目、焼きそばパン。八枚目、坂の上の後ろ姿。九枚目、鉛筆を両手で抱えて走っている姿。
「これは体育祭です。借り物競走で、うちのクラスまで来ました」
「何を借りに」
「たからもの、って札を引いたそうです」
この人が顔を上げた。
初めて、まっすぐこっちを見た。
「それで」
「俺のスケッチブックを持っていきました」
✱
十枚目。弁当箱を挟んで正面に座っている姿。
「初めて自分で作った弁当を持ってきた日です。」
十一枚目。俺の部屋の床。
十二枚目。閉じたピアノに背を向けて座っている姿。
「この家の、二階です」
この人の手が、そこで止まった。
止まって、しばらく動かなかった。
「……いつです」
「秋です」
「私は出張でした」
✱
十三枚目。喫茶店の席。十四枚目。ベンチで、マフラーに口元を埋めている姿。
「これがクリスマスです」
十五枚目。
ベッドの上で、目のふちが赤いままこっちを見ている顔。
「これは、病院です」
この人は、その一枚を長く見ていた。
「泣いていますね」
「泣きました」
「あの子が」
「泣きました」
✱
俺は最後に、六枚目を出した。
順番を変えたやつだ。
「これだけ、後にしました」
跳ねた髪。図書館の閲覧席。
「寝坊した日です」
「寝坊」
「前の夜に、俺と長電話して、寝坊しました。走ってきて、髪が跳ねたままでした」
この人は、その絵を見た。
見て、動かなくなった。
「本人に、どれがいちばんかって聞いたら、これを選びました」
「なぜ」
「これは、私が選んでいない顔ですから、だそうです」
✱
俺は机の上に手を置いた。
置いてから、言った。
「あなたの知らない娘さんの顔です」
この人は、何も言わなかった。
言わないまま、ページの端に指を置いていた。爪の形まで、澪と同じだった。
「全部、去年の夏からです。それより前の顔は、俺も知りません」
「……そうでしょうね」
「あの人、去年の夏より前のこと、覚えてないって言ってました」
この人の指が、少しだけ動いた。
「覚えるものが、ありませんでしたって」
✱
どのくらい黙っていたのかは分からない。
カーテンの隙間の光が、机の上を少しだけ移動した。
「桐谷くん」
「はい」
「私に、何か聞きたいことがあるのではないですか」
俺は姿勢を直した。
「あります」
「どうぞ」
「本人から、頼まれました」
「あの子から」
「はい」
俺は、預かってきた言葉をそのまま置いた。
「名前を、どうして『澪』にしたのか、聞いてほしいと言われました」
✱
この人は、しばらく動かなかった。
それから、椅子の背にもたれた。
もたれる音がした。この人がその音を立てたのを、俺は初めて聞いた。
「澪標という言葉があります」
「みお、つくし」
「浅いところに立てる標です。船が乗り上げないように、通れる道はこちらだと示すためのものです」
俺はその言葉を知らなかった。知らなかったので、頭の中で二回繰り返した。
「あの子が生まれたとき、医者に言われました」
この人の声が、少しだけ低くなった。
「心臓が弱い、と。長くはもたないかもしれない、と」
「……生まれたときから」
「生まれたときからです」
✱
「私は、それを受け入れませんでした」
「はい」
「通れる道があるはずだと思いました。浅くても、細くても、どこかに一本はあるはずだと。それで、その名前をつけました」
この人は、机の上の絵を見ていた。
「十六年、探しました」
俺は何も言えなかった。
「薬を替え、医者を替え、通れる道を探しました。見つかりませんでした」
「……」
「見つからないまま、あの子は大きくなりました」
この人は、そこで一度、言葉を切った。
「そして私は、いつのまにか、あの名前を呼べなくなっていました」
✱
「呼ぶと、思い出すからです」
声は、静かだった。
「呼ぶたびに、生まれた日のことを思い出します。だから、用があるときだけ呼ぶようにしました。そうすれば、名前ではなくなります」
俺は、この人の言っていることが分かってしまった。
分かってしまったのが、きつかった。
この人は、三年かけて仮面を作った俺と、同じことをしている。
やり方が同じで、かけた年数が違うだけだ。
「あの子は、気づいていましたか」
「気づいてました」
「……そうですか」
「呼ばれてるんじゃなくて、合図だって言ってました」
この人は、目を閉じた。
閉じて、それから、開けた。
✱
「桐谷くん」
「はい」
「私は、あの子に生きていてほしい」
「はい」
「二年でもいい、と言いました。あれは嘘ではありません」
「はい」
「ただ」
この人は、六枚目の絵に指を置いた。
「あれは、生きていてほしい、ではなかったのかもしれません」
俺は黙っていた。
「失いたくない、でした。順番が違います」
✱
机の上の絵を、この人は一枚ずつ、元の順に戻した。
戻し方が丁寧だった。
返すときの、澪の手つきと同じだった。
「これは、お返しします」
「はい」
「桐谷くん」
「はい」
「日曜は、家におります。ずっとそうしてきました」
「聞きました」
「あの子が小さいころ、日曜だけは家にいると決めました。守れたのは、最初の何年かだけです」
この人は立ち上がった。
立ち上がると、思っていたより背が高かった。
「明日から、病院におります」
俺も立った。
「同意されるんですか」
「あの子と、話をします」
この人はドアの方へ歩いて、そこで一度、止まった。
「順番に、聞きます」




