第08話 はじめての、かき氷
その日の気温は三十四度あった。
待ち合わせの改札で十分早く着いたのに、彼女はもう立っていた。
「早いって」
「桐谷さんも早いです」
「俺は五分前」
「私は二十分前です」
「なんで」
「電車の本数を、間違えて覚えていました」
この人は本当に、乗り物との相性が悪い。券売機の前で三分固まっていたのを俺は知っている。知っているけど、言わないでおいた。
駅から商店街に入るまでの五分で、俺のシャツは背中が終わった。
「桐谷さん」
「なに」
「なぜ、みなさん日傘を差さないのですか」
白鷺院澪は、白い日傘を涼しい顔で差していた。汗をかいている気配がまるでない。
「差してるやついるだろ」
「女性ばかりです」
「そういうもんなんだよ」
「合理的ではありません」
「合理で生きてないんだよ、人間は」
彼女は少し考えて、それから日傘を俺の方に傾けた。
半分だけ、影が伸びてきた。
「入りますか」
「入らない」
「なぜですか」
「合理じゃないから」
「今、ご自分で否定されました」
……この人、ときどき本当に手強い。
✱
商店街の外れに、青い旗が出ている店がある。
白地に赤で「氷」と一文字だけ書いてある、あれだ。
俺が中学のときからある店で、たぶんその四十年前からある。
「あれは、なんの店ですか」
「かき氷」
「氷、としか書いてありません」
「あれで通じるんだよ」
「一文字で、店の商品を伝えているのですね」
「そこ感心するとこか?」
彼女は旗をしばらく見ていた。旗を見上げている白鷺院澪を、通りかかったおばあさんが二度見していた。分かる。
中は狭くて、木のテーブルが四つだけ。冷房はあるけど弱い。ガラスケースの中に、たぶん昭和からある食品サンプルが並んでいる。
「桐谷さん」
「決めた?」
「メロンです」
即答だった。
「迷わないんだな」
「先週、決めました」
鉛筆を落としかけた日のことだ。かき氷は何味がいい、と俺が聞いて、この人が三秒考えて「緑」と答えた日。
覚えてたのか。
「じゃあ俺、宇治金時」
「それは、何色ですか」
「緑」
「一緒です」
「全然違うからな」
注文を取りに来たのは、たぶん八十歳くらいのおばあさんだった。伝票を持ってこない。
彼女はその後ろ姿を目で追っていた。
「書かずに覚えておられます」
「二種類しか出てないからな、うち」
「四十年、同じものを作っておられるのですね」
「たぶんな」
「すごいです」
「そこ、感動するとこ?」
「私は、同じことを四十年続けたことがありません」
「十六年しか生きてないだろ」
「十六年、同じことを続けたこともありません」
……この人、たまに、さらっと重いことを言う。
俺が返事に困っていたら、彼女は続けた。
「習い事は、上達すると先生が変わります。学年が上がると、通う場所も変わります。ずっと同じもの、というのが、あまり手元にないのです」
「琴音さんは」
「あの人は、そうですね」
彼女は少しだけ笑った。
「三歳から、同じです」
✱
運ばれてきたそれを見て、彼女は動きを止めた。
「大きいです」
「そういうもんだって」
「山です」
「山だな」
「崩れませんか」
「崩れる前に食え」
彼女はスプーンを持って、いちばん上を慎重に削った。ほんの少しだけ口に入れて、それから、目を見開いた。
「冷たい」
「かき氷だからな」
「思っていた冷たさの、三倍です」
彼女は二口目を食べた。今度はもう少し大きく。三口目はもっと大きく。
四口目で、動きが止まった。
スプーンを持ったまま、彼女の眉がゆっくり寄っていく。
「……あの」
「来たな」
「頭が」
「頭な」
「痛いです。なぜですか。冷たいものは口に入れたのに、痛いのは頭です」
「そういうもんなんだよ」
「説明になっていません」
「俺も知らねえよ理屈は」
彼女は片手で額を押さえて、しばらく固まっていた。
こめかみのあたりを、指で軽く押している。真剣な顔で。
「治りますか」
「二十秒待て」
「二十秒」
彼女は本当に二十秒待った。目を閉じて、姿勢を正して、額に手を当てたまま。
その姿があまりに神妙だったので、俺は笑わないように水を飲んだ。
「……治りました」
「だろ」
「桐谷さん、笑っていますね」
「笑ってない」
「水を飲むふりをされました」
「鋭いのやめろ」
✱
問題は、そのあとだった。
彼女は治った瞬間、また同じ速度で食べ始めた。
「おい」
「早く食べないと、崩れます」
「ゆっくり食えば痛くならないんだよ」
「時間をかけると、溶けます」
「溶けても味は同じだろ」
「同じではありません。今がいちばん美味しい形です」
言い切って、彼女はまた大きく一口いった。
三秒後、額を押さえた。
「……痛」
「言っただろ」
「今のは、さっきより痛いです」
「学習しろって」
「二十秒待てば治るのだから、待てばいいのです」
「その計算やめろ」
結局、彼女はそれを四回繰り返した。
食べる、痛くなる、二十秒待つ、また食べる。四回目には、痛くなるタイミングを自分で読めるようになっていた。読めても防いではいなかった。
「白鷺院さん」
「はい」
「それ、勝てない勝負だからな」
「勝ちました。全部食べました」
空になった器を見て、彼女は本当に満足そうな顔をした。
俺は鞄からスケッチブックを出して、隅に線を引いた。
「今、描いていますか」
「動くな」
「もう食べ終わりました」
「今の顔でいい」
三分で描いた。器と、スプーンと、それを見下ろしている人の輪郭。顔はほとんど描き込まなかった。目の位置と、上がった口の端だけでいい。
彼女はそれを覗き込んで、しばらく黙った。
「二枚目ですね」
「二枚目な」
「あと、三十二枚です」
「多いな」
「多いです」
その言い方が、なぜか嬉しそうだった。
✱
店を出る前に、彼女が言った。
「桐谷さん。私の舌、緑ですか」
振り返ったら、彼女が口を開けていた。
全開ではない。ちょっとだけ。でも、その、なんというか。
「……緑です」
「やはり」
「なんで分かった」
「窓に映りました」
彼女は満足そうにうなずいて、それから、俺を見た。
「桐谷さんのも、見せてください」
「見せない」
「不公平です」
「不公平でいい」
「桐谷さん、宇治金時も緑だとおっしゃいました」
「だから見せないんだよ」
彼女は最後まで納得しない顔をしていた。
✱
外に出たら、日差しが少し傾いていた。
商店街のアーケードが切れるところで、彼女が日傘を開いた。開いて、また少しだけ俺の方に傾けた。
今度は何も言わなかった。ただ、傾けたままにしていた。
俺は三歩ぶんだけ、その影の中を歩いた。
「桐谷さん」
「うん」
「私、今日はじめて、家に帰りたくないと思いました。ご報告です」
立ち止まりそうになった。
止まったら負けだと思って、歩き続けた。
「……報告するな、そういうのは」
「報告すると、いけませんか」
「いけなくはないけど」
「けど」
「……こっちの用意ができてない」
「用意」
「なんでもない」
彼女は少し黙って、それから、日傘の柄を持ち替えた。
「桐谷さんは、夏休みが終わるとどうなりますか」
「どうって」
「また、優等生に戻られますか」
アーケードの切れ目から、日差しがまっすぐ落ちていた。
「戻るよ」
「そうですか」
「戻らないと面倒だからな。教室に、あの顔の桐谷奏太がいる前提で全部回ってる」
「私も、戻ります」
「知ってる」
「知っておられるのですね」
「毎日見てるからな。中庭のあれ」
彼女は少しだけ目を大きくして、それから、うつむいた。
「あの顔は、そんなに分かりやすいですか」
「他のやつには分からない」
「桐谷さんには」
「俺には分かる。同じことやってるから」
彼女はしばらく何も言わなかった。
日傘の影が、二人ぶんの足元で少しだけ揺れていた。
「では、夏休みのあいだだけは」
「うん」
「今の桐谷さんで、いてください」
彼女は最後に少しだけ首をかしげた。その角度が、最近ちょっとずつ雑になってきている。前はもっと、几帳面な首のかしげ方だった。
✱
駅の手前で、彼女が手帳を開いた。
五番の上に線が引かれる。
「三十二です」
「減ってきたな」
「はい」
「そんな嬉しそうに言うことか?」
「嬉しいです。線が引けるので」
「次、なに」
彼女はページを指でたどって、それから顔を上げた。
「六番。自転車に乗る、です」
「自転車? それ『初めて』枠に入れるようなもんか?」
「……あの」
「なに」
「一つ、先に申し上げておきたいことが」
「どうしたの?」
「私、自転車に」
「うん」
「乗ったことが、ありません」
足が止まった。
「一回も?」
「一回も」
「補助輪は」
「補助輪という言葉を、今日はじめて聞きました」
「……そこからか」
「順番に消したいので、六番からお願いします」
「順番の問題じゃないんだよなあ」




