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お嬢様は俺だけの素顔を知っている ~優等生をやめた夏、彼女と本当の恋が始まった~  作者: トンエリア


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第07話 はじめての、モデル

 夏休みの学校は、廊下がやたら広く感じる。


 人がいないぶん、蝉の音が建物の中まで入ってくる。生徒会の当番と、文化祭実行委員の準備。俺たちの表向きの理由はそれで、実際、午前中はちゃんとその仕事をした。


 三階まで上がる途中、二年の教室が並ぶ廊下を通った。


 窓が全部閉まっていて、床にワックスの匂いが残っている。誰もいない学校というのは、同じ建物なのに別の場所みたいだ。演技をしなくていい場所が、今日は校舎ごと全部そうなっている。


 昼を過ぎて、旧音楽室のドアを開けたとき、白鷺院澪はもう椅子を用意していた。


 ピアノの横に一脚。窓に対して四十五度。


「準備がいい」


「昨日、角度を考えました」


「昨日から?」


「光の入り方が、時間で変わりますので」


 すごい、本気だ。


 俺は鞄からスケッチブックを出した。出すときに、少し迷った。三本の線が引かれたページは、後ろの方に隠してある。


「言っとくけど、俺、人はほとんど描いたことないからな」


「知っています」


「上手くいかなくても文句言うなよ」


「言いませんよ」


 彼女は椅子に座った。


 座って、背筋を伸ばして、膝の上で手を重ねて、あごの角度を一度だけ下げた。


 完璧な微笑みが、そこに出来上がった。


 ……ああ、これは。


「白鷺院さん」


「はい」


「それ、無理だよ」


「え」


「その顔、描けない」


 彼女の微笑みが、少しだけ揺れた。


「変ですか」


「変じゃない。上手すぎる」


 俺は鉛筆の先を紙に当てたまま、動かせなかった。


 輪郭は取れる。目も鼻も口も、位置は分かる。でもそれを線にした瞬間、あれになる。学校の廊下に貼ってある、優等生の写真。誰の顔でもない顔。


「そっちの顔なら、写真でいい」


「では、どうすれば」


「普通にしてて」


「普通が、いちばん難しいです」


 この会話、二回目だ。


 ✱


 十五分やって、二枚だめにした。


 彼女はまばたきの回数まで一定だった。動かないでくれと言われたわけでもないのに、置物みたいに止まっている。


「白鷺院さん」


「はい」


「モデルって、そんなに固まらなくていいんだよ」


「動いてよいのですか」


「多少は。しゃべってもいい」


「では、何を話せば」


「なんでも」


「なんでも、がいちばん難しいです」


 この人、さっきから難しい難しいって言ってるな。


 俺は鉛筆を置いて、椅子の背にもたれた。


「じゃあ質問する。答えて」


「はい」


「かき氷、何味がいい」


「……食べたことがありません」


「やっぱり。想像で言ってみて」


 彼女は真剣に考え込んだ。


 三秒、五秒。眉の間に、小さく皺が寄る。


「……緑」


「味を聞いたんだけど」


「緑の味がいいです」


「メロンな」


「メロンです」


 その言い方があんまり真剣だったので、俺は少し笑ってしまった。


 笑ったら、彼女も少しだけ、口の端を動かした。


 ——今だ。


 俺は鉛筆を取った。


 ✱


 そこからは早かった。


 しゃべりながら描くのは初めてだったけど、意外とできた。というより、しゃべらせておかないと、この人はすぐ完璧な顔に戻ってしまう。


「白鷺院さん、去年の夏なにしてた」


「ピアノと、フランス語と、あとは検定の勉強を」


「遊びは」


「……予定表に、その欄がありません」


「作ろうよ、欄」


「今年、作りました」


 鉛筆を止めそうになった。


 止めなかった。止めたら、この顔が消える。


「それ、いつ作った?」


「旧音楽室で、桐谷さんが悪口を言っていた日です」


「あの日か」


「あの日です」


 俺は手を止めずに聞いた。


「なんであの日なの。俺、ただ愚痴ってただけだぞ」


「愚痴に、名前がついていました」


「名前」


「四十七ページ、と。三組の田辺さん、と。ノートの角、と」


 彼女は少し首をかしげた。


「私の中には、名前のついた不満が、一つもありませんでした」


 鉛筆が、紙の上で二回、跳ねた。


「ないなら、いいことだろ」


「ないのではなくて、名前をつけたことがないのだと思います」


「……それ、わりと怖いこと言ってるからな」


「怖いですか」


「怖い」


 彼女は考える顔になって、それから、少しだけ笑った。


 笑ったところの線を、俺は急いで拾った。


 彼女は窓の方を見て、それから、俺の方に戻ってきた。


 その戻ってくるときの目が、ちょっとだけ、ずるかった。


「桐谷さん」


「なに」


「私、こんなに長く人に見られたのは、初めてです」


「そりゃ、描いてるからな」


「もっと見てください、と言ったら、変ですか」


 鉛筆の芯が、折れた。


 彼女はきょとんとしていた。


「どうかしましたか」


「……なんでもない」


「今、手が止まりました」


「削ってるだけ」


 削りながら、俺は本気で思った。この人に悪意がないのは知ってる。知ってるけど、そろそろ誰か、この人に一般常識を教えてやってくれ。


 いや。


 教えたら、たぶん、こういうことを言わなくなる。


 それはそれで、なんか、嫌だな。


 ✱


 三十分くらいで、線がまとまった。


 俺は最後に一本だけ足して、鉛筆を置いた。


「できた」


 彼女が立ち上がる音がした。


 スケッチブックを渡すとき、少しだけ手が重かった。


 白鷺院澪は、それを両手で持って、じっと見た。


 長かった。


 一分くらい、何も言わなかった。


「……これは」


「うん」


「私、ですか」


「そう見えないなら失敗だな」


「いいえ」


 彼女は首を横に振った。強めに。


「そうではなくて。私、こういう顔を、するのですね」


 紙の中の彼女は、少し笑っていた。


 完璧じゃない。口の端が左右でずれていて、目が半分細くなっていて、あごの角度も直っていない。


 鏡には、たぶん一生映らない顔だ。


 彼女は指で、紙の上をなぞろうとして、途中でやめた。汚したくなかったんだと思う。


「桐谷さん」


「うん」


「私、この顔を、知りませんでした」


 声が、少し詰まっていた。


 俺は窓の外を見た。見ておいた方がいい気がした。


 蝉が一匹、急に鳴きやんで、また鳴き出した。


「桐谷さん」


「うん」


「この顔は、いつのものですか」


「さっきの、かき氷の話してるとき」


「あんな話で、こんな顔になるのですか」


「なるんだよ」


「……緑の味の話で」


「緑の味の話でな」


 彼女は絵をもう一度見て、それから、絵に向かって少しだけうなずいた。


 自分に会いに行ったみたいな、変な仕草だった。


 ✱


 そのあと、彼女がページをめくろうとしたので、俺は止めなかった。


 止められなかった、が正しい。


 後ろの方に、線が三本だけ引かれたページがある。肩と、あごと、口の端。


 彼女はそこで手を止めた。


「これは」


「……失敗作」


「日付が、先週です」


「日付見るなよ」


「先週、私はまだ、描いてくださいとお願いしていません」


 言い逃れを三通り考えて、三つとも捨てた。


「勝手に描いた。悪い」


「謝らないでください」


 彼女はそのページを、さっきの完成した絵より長く見ていた。


「三本しかありません」


「そこで力尽きた」


「なぜですか」


「……思い出せなかったんだよ、口の端の角度が」


 言ってから、俺は自分で自分を殴りたくなった。


「桐谷さん」


「なんだよ」


「昨日、絵は人を描かないとおっしゃいました」


「言った」


「動くから、とも」


「言ったな」


「嘘つき」


 真顔だった。


 この人が真顔で人を殴ってくるとき、だいたい俺は反論できない。


「……嘘じゃない。描かなかったんだよ、今まで」


「今までは」


「中学のとき、人を描いてたら、それでいろいろあった」


 言うつもりはなかった。


 でも、今日はもう三本の線を見られている。順番として、これくらいは出しておかないと釣り合わない気がした。


「いろいろ、とは」


「それは言わない」


「はい」


 彼女はそれ以上、何も聞かなかった。


 聞かないでいてくれる人だ、と思った。第一、この人だって自分のことを全部は話していない。


 白鷺院澪は、しばらくそのページを見て、それから、スケッチブックを閉じた。


「これ、いただけませんか」


「だめ」


「即答ですね」


「途中のを人にやる画家がいるかよ」


「では、いつなら」


「全部描き終わったなら」


 彼女の目が、少し丸くなった。


「全部、というのは」


「このスケッチブック、あと何十枚もある。三十三個あるんだろ、まだ」


「……三十三です」


「一個ずつ描く。全部埋まったら、まとめて渡す」


 言ってから、俺は自分でも驚いていた。


 そんな約束をする人間じゃなかったのに。


 彼女はスケッチブックを両手で抱えたまま、動かなかった。


 それから、俺の顔をまっすぐ見て、言った。


「最後の一枚は、私が決めてもいいですか」


「いいけど」


「では、決めておきます。いつか」


 いつか、という言葉に、また一拍の重みがあった。


 でもその日の彼女は、そのあとすぐ普通の顔に戻って、椅子を元の場所にきちんと戻した。四十五度から、まっすぐに。


 ✱


 帰りに、下駄箱で別れた。


「明日も来ます」


「明日は道具持ってこないぞ。今日ので疲れた」


「では、私が持ってきます」


「なにを」


「桐谷さんの分の、鉛筆を」


 彼女は当たり前みたいにそう言って、それから、少しだけ困った顔をした。


「……何本、要りますか」


「二本」


「二本ですね」


 彼女は指を二本立てた。


 この前より、少しだけ角度が崩れていた。崩れているのが、悪くなかった。


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