第06話 はじめての、プリクラ
期末テストの最終日は、昼前に終わる。
教室を出たところで白鷺院澪とすれ違って、彼女は完璧な微笑みのまま、すれ違いざまに言った。
「四番を」
それだけだった。歩幅も表情も一ミリも変えなかった。
周りにいた女子は誰も気づいていない。
……この人、そういう技術だけ急に上手くなってないか。
テストが終わった校舎は、空気が三度くらい軽い。
廊下で答え合わせをしている連中の横を抜けて、下駄箱で靴を履き替えた。明日から夏休みだ。四十日ある。
去年の夏を思い出そうとして、うまく思い出せなかった。
たぶん、何もしていない。冷房の効いた部屋で課題を片付けて、たまに絵を描いて、それで終わった。それが不満だったかというと、別に、不満でもなかった。
なのに今、俺は駅に向かって歩いている。
✱
ゲームセンターの二階は、一階より天井が低くて、音が丸い。
平日の昼過ぎだからか、テスト明けの制服が多かった。女子の集団が三つ。全部プリクラの列だ。
その中で、白鷺院澪は圧倒的に浮いていた。
背筋が伸びすぎている。ネクタイの結び目が完璧すぎる。あと、単純に顔が良すぎる。
「白鷺院さん」
「はい」
「もうちょっと猫背になれない?」
「なぜですか」
「目立つから」
「努力します」
努力の結果、彼女はほんの一センチだけ肩を落とした。何も変わらなかった。
ピンクと白の筐体が並んだ通路で、白鷺院澪は完全に立ち止まっていた。
「多いです」
「六台ある」
「どれが正しいのですか」
「正しいのは……」
「ない、ですよね」
「学習が早いな」
彼女は一台ずつ、見本の写真を真面目に見比べていた。値段、サイズ、書いてある宣伝文句まで。
「これは『盛れる』と書いてあります」
「そういうやつ」
「盛るとは」
「実物より良く写るってこと」
「実物に不満があるということですか」
「そこ突っ込むな」
結局、いちばん端の台になった。理由は「文字が少なくて落ち着くから」だった。
✱
カーテンを閉めると、外の音が半分になった。
箱の中は、思っていたより狭い。
いや、思っていたより狭いんじゃない。二人で入ると狭いというだけの、普通の広さだ。俺が今まで一度も男以外と入ったことがなかっただけで。
俺は端に寄った。かなり端に寄った。
「桐谷さん、遠いです」
「これでいい」
「画面に、半分しか写っていません」
「半分でいい」
「半分の桐谷さんの写真を、私が持って帰るのですか」
「言い方を選べ」
『もう少し、二人とも真ん中に寄ってくださーい』
機械が明るい声で言った。
白鷺院澪は、それを命令だと理解したらしい。
迷いなく、一歩、寄ってきた。
肩が、当たった。
「白鷺院さん」
「はい」
「機械の言うことは、たまに聞き流していい」
「そうなのですか」
「そう」
「でも、寄れと言われました」
「言われたけど」
「私は、寄っています」
……この人と話していると、こっちの語彙が消える。
カウントダウンが始まった。
『三、二、一』
シャッターが光った瞬間、俺は見てしまった。
彼女の顔が、完璧な微笑みになっていた。生徒会の顔だ。教師二人を恐縮させるやつだ。
「今の、外行きの顔」
「え」
「学校の顔で写ってどうすんの」
「では、どうすれば」
「普通にしてろ」
「普通が、いちばん難しいです」
二枚目。彼女は本当に何もしなかった。無表情という選択をした。写真の中の白鷺院澪は、証明写真みたいな顔で正面を向いていた。
「三枚目いくぞ」
「待ってください。ポーズというものを、まだ決めていません」
「決めなくていい」
「みなさん、決めておられます」
見本の写真を指さされた。指とか、手とか、いろいろやってる女子高生たちが並んでいる。
「じゃあ、ピース」
「これですね」
彼女は指を二本立てた。
立てたんだけど、まっすぐすぎた。角度が定規で引いたみたいで、肘まで直角だった。
「なんで敬礼になってんの」
「ピースです」
「ピースはもっとこう、崩す」
「崩し方を教えてください」
「崩し方の教え方は知らない」
『三、二、一』
三枚目のシャッターは、彼女が吹き出した瞬間に落ちた。
✱
撮り終えて、落書き画面の前に立つ。
彼女は自分の顔を見て、数秒黙った。
「これは、私ではありません」
「盛れてるって言うんだよ、それ」
「目が、私の三倍あります」
「三倍はない。二倍くらい」
「二倍でも問題です」
でも三枚目を見つけたとき、彼女の手が止まった。
吹き出した瞬間の一枚。口の端が左右でずれた、あの笑い方。加工の効かない、崩れた顔。
彼女はしばらくそれを見ていた。
『落書きタイム、九十秒』
「九十秒!?」
敬語が飛んだ。
彼女はペンを掴んで、日付を書き始めた。丁寧に。定規で引いたみたいに。
「白鷺院さん、それ、そんな字で書くやつじゃない」
「日付は正確に書くものです」
「あと七十秒」
「急かさないでください」
「あと五十秒」
「西暦から書かないと、後で分からなくなります」
「後っていつだよ」
「ずっと後です」
その言い方に、なんとなく引っかかった。引っかかったけど、画面の中で秒数が減っていくのを見ていたら、すぐどうでもよくなった。
彼女が年月日を書き終えたところで、残り四十秒になった。
俺は自分の側のペンを取って、空いた隅に犬を描いた。
白い犬。丸くて、耳が片方だけ折れてる、机の上に座ってるやつ。
十秒で描いた。
「……桐谷さん」
「なに」
「今の、十秒でしたよね」
「そんなもんだろ」
「そんなもんではありません」
彼女はペンを持ったまま、俺の描いた犬を見ていた。
「あと十秒」
「まだ何も書いていません」
「日付書いただろ」
「日付は、装飾ではありません」
「じゃあ早く書けよ」
「急かされると、手が」
残り時間が〇になって、機械が勝手に印刷を始めた。
彼女はペンを持ったまま、画面が切り替わるのを見ていた。
「……負けました」
「誰にだよ」
「九十秒に」
「相手が悪いって」
「次は勝ちます」
プリクラに勝つ気でいる人間を、俺は初めて見た。
✱
出てきたシールは、思っていたより小さかった。
切り取り線に沿って半分に割ると、三枚ずつになる。どっちを渡すかで一瞬迷った。二枚目の証明写真みたいなやつが入っている側と、三枚目の吹き出したやつが入っている側。
迷った理由を自分で考えるのはやめて、三枚目のある方を渡した。
彼女は受け取って、両手で持って、それから、真顔で言った。
「では、私の分の桐谷さんを、いただきますね」
……。
「その言い方やめろって」
「変ですか」
「変じゃないけど心臓に悪い」
「桐谷さんは、よく心臓の話をされます」
「誰のせいだと思ってんの」
彼女は首をかしげた。
本当に、分かっていない顔だった。
それから彼女は、鞄から黒い手帳を出して、シールを内側に貼った。
貼る場所を三回迷って、結局、リストの隣のページにした。
「ここなら、見えません」
「見つかったらどうすんの」
「そのときは、そのときです」
言い方が、少しだけ軽かった。
✱
駅までの道は、上りの日差しが正面から来ていた。
彼女は手帳を鞄にしまって、それから、歩きながら言った。
「桐谷さん」
「うん」
「絵を、描かれるのですね」
来た。
「昔から」
「学校では、誰も知りません」
「知られたら終わるからな。中学のときに一回、終わってる」
言ってから、しまった、と思った。
言うつもりのないところまで言っていた。
彼女は、それについて何も聞かなかった。歩幅も変えなかった。
ただ、しばらくしてから、こう言った。
「桐谷さんは、絵の中でも人に嘘をつきますか」
その質問は、予想していなかった。
「……どういう意味」
「学校の桐谷さんの顔と、さっきの写真の桐谷さんの顔は、違います。絵は、どちらを描くのかと思って」
信号が赤になって、二人とも足を止めた。
俺は少し考えて、答えた。
「風景しか描かないから、考えたことない」
「人は描かないのですか」
「描かない。動くから」
「動かない人なら、描くのですか」
「屁理屈だろ、それ」
信号が青になった。
彼女は歩き出して、半歩ぶんだけ先に行って、それから振り返った。
「桐谷さん。今度、私を描いてくださいませんか」
風が、正面から来た。
「……なんで」
「鏡だと間に合わない、とおっしゃいました」
覚えてたのか。
「あれ、どういう意味ですか」
「意味は」
言いかけて、やめた。
俺の机の上には、もう三本の線が引かれたスケッチブックが開きっぱなしになっている。
それを、まだ言う気にはならなかった。
「……考えとく」
「考えるのですね」
「考える」
彼女は、それで納得したらしい。
納得した顔で、少しだけ歩くのが速くなった。
明日から、四十日ある。




