第05話 はじめての、ゲームセンター
桐谷様は、お嬢様に何を求めておいでですか」
早坂琴音は静かにそう言った。
夕方の風が、彼女のスーツの襟を一度だけ動かした。
「求める、というのは」
「金銭、便宜、家柄。あるいは、ご学友としての箔。どれでしょう」
「どれでもないです」
「そうでしょうね」
あっさり肯定された。
「調べました。桐谷様のご家庭は普通です。成績は上位。素行に問題なし。お嬢様に近づく理由が、どこにもありません」
「褒められてるんですか、それ」
「いいえ」
琴音は俺の目を見た。
「求めるものがある方は、わかります。差し上げればよろしいので。求めるものがない方が、いちばん厄介です」
……この人、たぶん俺より頭がいい。
俺は優等生の顔を貼ったまま黙っていた。貼っていないと、たぶん今、何か余計なことを言う。
「一つだけ、申し上げます」
彼女は少し声を落とした。
「お嬢様は、嫌だとおっしゃいません」
「はい」
「断り方を、教わっておられないのです。だから、疲れていても、つらくても、笑っておられます」
風がやんだ。
「気づいてさしあげられるのは、その場にいる人間だけです」
それは、忠告というより、譲渡に近い言い方だった。
「本日のことは、旦那様には申し上げません」
「ありがとうございます」
「今回は、です」
琴音は綺麗に頭を下げて、去っていった。
俺はしばらくその場に立っていた。
……あの人、味方なのか敵なのか、まだ分からない。
✱
「土曜の午後、二時間空けました」
週明け、旧音楽室でそう報告された。
「どうやって」
「ピアノの課題曲を、二週間先に仕上げました」
「え」
「先生が、驚いておられました」
なんで正攻法なんだよ。嘘をつく方がまだ楽だっただろ。
それを言おうとして、やめた。この人は、たぶんズルより努力の方が慣れている。
「じゃあ三番な。ゲームセンター」
「はい」
「言っとくけど、あそこ、うるさいぞ」
「音は、平気です」
それは嘘だった。
✱
土曜の駅前、ゲームセンターの一階。
自動ドアが開いた瞬間、白鷺院澪の肩が三センチ跳ねた。
「……音が」
「言っただろ」
「思っていた以上にあります」
「すぐに慣れるよ」
実際、五分で慣れていた。慣れたあとの彼女は、通路の真ん中で首を左右に振りながら、全部の筐体を順番に見ていた。
視線が止まったのは、エアホッケーだった。
「桐谷さん。あれは、対戦するものですね」
「対戦するもんだな」
「では、あれです」
「即決すぎる」
百円を入れると、台の穴から風が出て、赤いパックが浮いた。
彼女はマレットを両手で握った。両手で握るやつは初めて見た。
「ルールは、相手の穴に入れる。それだけ」
「承知しました」
俺は軽く打った。本当に軽く。転がすくらいの速度で。
パックは彼女の目の前を通り過ぎて、そのまま穴に落ちた。
「……」
「白鷺院さん」
「今、見えていました。見えていて、手が動きませんでした」
「そういうこともある」
二点目。今度はもっと遅く打った。
彼女はマレットを振りかぶって、空振りした。台の上を、拳一個ぶん外れて。
「三点目」
「言わないでください」
四点目のあと、彼女の動きが変わった。
腰を落として、マレットを構え直して、目つきが完全に変わった。
「桐谷さん」
「はい」
「本気を、出してください」
「出したらすぐに終わるぞ」
「手加減されている方が、ずっと嫌です」
そこまで言われたら、まあ。
俺は普通に打った。パックが台の縁で跳ねて、彼女の右手のすぐ横を抜けていった。
抜けていったんだけど。
彼女はそれを、腕ごと突っ込んで止めた。マレットじゃなく、肘で。
「痛」
「今の反則」
「反則なのですか」
「体使うのは反則だろ」
「では、体を使わずに勝てる方法を教えてください」
「あるわけないだろそんなもん」
彼女は唇を噛んで、百円玉をもう一枚出した。
二回戦。彼女はマレットを片手に持ち替えた。持ち替えたのはいいんだけど、今度は台にへばりつくみたいに前傾して、自分の穴がまるごと空いた。七対〇。
「前に出すぎだって」
「前に出た方が、届きます」
「届く前に入るだろ」
三回戦。今度は下がりすぎた。パックが届く前に減速して、台の真ん中で止まった。二人で止まったパックをしばらく見た。
「……止まりました」
「止まったな」
「これは、どちらの点ですか」
「誰の点にもならない」
「不毛です」
「お前が下がったからだろ」
言ってから、お前、と言ったことに自分で気づいた。
彼女も気づいたらしい。マレットを持ったまま、二秒くらい止まっていた。
何も言われなかった。ただ、次の球を打つときの構えが、さっきより少しだけ前のめりになっていた。
四回戦。彼女は前でも後ろでもない場所に立った。
俺の打った球が右に流れて、その端を、彼女のマレットが引っかけた。
跳ねたパックが、俺の穴に落ちる。
「入った!」
敬語が、跡形もなかった。
叫んでから、彼女は自分の口を押さえて、周りを見た。誰も見ていない。ゲームセンターだからだ。
「……今のは」
「聞かなかったことにしとく」
「してください」
「しない」
「桐谷さん」
「言っとくけど、今の一点、俺けっこう本気で取りに行ってたからな」
彼女は少しだけ、口の端を上げた。
完璧じゃない、左右のずれた、あの笑い方だった。
✱
そのあと、太鼓の筐体の前でも足が止まった。
「これは、叩くのですね」
「音に合わせて叩くやつな」
「音楽なら、得意です」
自信満々でバチを持った。ピアノを二週間ぶん先取りする人だ。俺も少し期待した。
結果を言うと、序盤で崩壊した。
彼女の手は、たしかに正確だった。正確に、ワンテンポ遅れていた。全部の音を、譜面を見てから叩いている。
「なぜ合わないのですか」
「見てから叩いてるからだろ。来る前に叩くんだよ」
「来ていないものを叩くのですか」
「そう」
「むずかしいです」
二回目も同じだった。三回目、彼女は目を閉じた。
目を閉じたら余計にひどくなった。俺は笑いをこらえるのに肩が震えた。
「桐谷さん、笑っていますね」
「笑ってない」
「肩が笑っています」
「それは笑ってる」
✱
奥の壁際に、クレーンゲームが並んでいた。
彼女は一台の前で足を止めた。中に、白い犬のぬいぐるみが山積みになっている。
「これは、取れるのですか」
「たまに取れる」
「たまに」
「一回で取れると思ってやると、財布が死ぬ」
彼女は百円を入れた。
ボタンを押す。アームが動く。止まる。押す。降りる。掠りもせずに上がる。
「……」
「もう一回やる?」
「やります」
三回やって、三回とも空振りだった。
四回目のとき、彼女が急に俺を見上げた。
「桐谷さん。私の手を、持って動かしてください。その方が速いです」
……は?
「今なんて」
「手です。この、ボタンを押す方の」
彼女は自分の右手を差し出した。まっすぐに。何の含みもない顔で。
「あの、白鷺院さん」
「はい」
「それ、状況によっては、かなりまずい発言です」
「まずい?」
「まずい」
「なぜですか」
「なぜかは自分で調べてください」
「桐谷さんは、いつもそう言って逃げます」
逃げてます。逃げてますとも。
俺は自分の百円を入れて、二回で取った。
アームがぬいぐるみの首を引っかけて、そのまま穴に落ちる。取り出し口で、白い犬が転がった。
彼女は、それを見て固まっていた。
「なぜ」
「タグ狙うんだよ、こういうのは」
「なぜ教えてくださらなかったのですか」
「聞かれなかったから」
「桐谷さん」
「はい」
「性格が悪いです」
「それ、褒め言葉だからな」
俺はぬいぐるみを彼女に押しつけた。
彼女は両手で受け取って、しばらく持って、それから、動きが止まった。
「……持って帰れません」
そうだった。
この人の部屋に、いきなり白い犬が増えたら、たぶん十五分で誰かが飛んでくる。
「俺が預かる」
「よろしいのですか」
「別に。置く場所くらいある」
彼女はぬいぐるみをもう一度だけ抱えて、それから、両手で俺に返した。
「桐谷さんのお部屋に、私のものが置いてあるのですね」
真顔だった。
完全に、真顔だった。
「……そういう言い方すんな」
「事実です」
「事実がいちばんタチ悪いんだよ」
✱
駅までの道で、彼女は手帳を開いた。
三番の上に、線が引かれる。書き足したり消したりする動作が、やけに丁寧だった。
「三十四です」
「数えなくていいだろ、そこ」
「数えると、減るのが分かります」
減る、という言い方が、少しだけ引っかかった。
引っかかったけど、そのときは、それだけだった。
「桐谷さん。四番の、写真を撮る機械は」
「さっきの店の二階にあった」
「なぜ行かなかったのですか」
「二時間で全部やったら、次がなくなるだろ」
彼女は少し考えて、それから、ちゃんと笑った。
「では、次があるのですね」
「あるよ」
改札の向こうで、彼女が一度だけ振り返った。
✱
その夜。
俺は自分の部屋の机に、白い犬を座らせた。
置き場所を三回変えた。本棚の上、机の端、それから結局、視界に入るところ。
……なにやってんだ俺は。
シャワーを浴びて、髪を拭きながら椅子に座って、そこでようやく気づいた。
右手に、鉛筆を持っていた。
机の上には、開いたスケッチブック。
白いページの上に、線が三本、もう引かれていた。




