第04話 はじめての、コンビニ
「桐谷、お前さ」
三日後の放課後、下駄箱で三好大地に肩を組まれた。
「最近ちょっと変わったよな」
「どこがだよ」
「今のそれ」
大地がにやりとした。
「前なら『そう?』って首かしげてただろ。今、素で返しただろ今」
……油断した。
「気のせいだって」
「まあいいけどさ。恋か?」
「そんなわけないだろ」
あいつが笑いながら出ていって、入れ替わりに、下駄箱の陰から白鷺院澪が現れた。
「聞いていました」
「それ盗み聞きって言うんですよ」
「桐谷さん」
「はい」
「今の言葉づかいで、私にも話してください」
……は?
「三好さんには『そんなわけないだろ』とおっしゃいました。私には『言うんですよ』です」
「それは、まあ」
「敬語です」
「敬語ですね」
「ずるいです」
ずるい、と言われた。生まれて初めて言われた。
「あのですね。白鷺院さん相手にタメ口とか、心臓に悪いんですよ。育ちってものがあるでしょ」
「桐谷さんの素は、口が悪いのでは」
「悪いですけど、選ぶ権利くらいあります」
「では、練習です」
出た。
この人、いっぺん「練習」って言葉を覚えてから、それで全部押し通してくる。
✱
「三時五十分。迎えは四時半に正門ですよね」
「はい」
「裏門から三分のところにコンビニがあります。行って帰って、四十分の用事を三十分で——」
「敬語」
「早い。指摘が早い」
「三十分でやる、です」
「……三十分でやる」
「はい。よくできました」
「褒め方が幼稚園なんだよな」
言ってから止まった。
彼女が、少しだけ嬉しそうな顔をしていたからだ。
✱
「かご、要ります?」
「いただきます」
「二個しか買わないぞ」
「持ちたいです」
というわけで白鷺院澪は、空のかごを両手で抱えて店内を歩くことになった。抱え方が完全に赤ん坊のそれで、俺は真顔を保つのに全力を使った。
「腕にかけるやつだって、それ」
「そうなのですか」
「見ろよ。世界中の人が腕にかけてる」
「今、この店には三人しかいませんが」
「揚げ足取るなって」
彼女は素直にかけ直した。かけ直してから、少し嬉しそうにかごを揺らした。空のかごを。
おにぎりの棚で足が止まる。
「桐谷さん。この、ツナマヨというのは」
「ツナとマヨネーズ」
「……混ぜるのですか」
「混ぜる」
「魚と、マヨネーズを」
「言い方やめろ。うまいんだよ」
「本当ですか」
「俺の人生で三番目にうまい」
「一番と二番は」
「今考えてる」
「思いつきで喋りましたね」
鋭い。この人、たまにものすごく鋭い。
結局ツナマヨはかごに入った。両手で入れた。落としたら割れるものみたいに。
冷凍ケースの前で、彼女が急に振り返った。
「棒のアイスには、当たりがあると聞きました」
「棒に印刷されてるやつな」
「当たると、どうなるのですか」
「もう一本もらえる」
「たった一本のために、みなさん買うのですか」
「そこに夢があんの」
「安い夢です」
「百円だからな」
彼女が笑った。声を出さずに、肩だけで。
それから真顔に戻って、ケースの取っ手に手をかけた。
「桐谷さん。勝負しましょう」
「……来ると思った」
「同じものを一本ずつ。当たりを引いた方の勝ちです」
「それ、勝ち負けの要素どこにあんの」
「運も実力のうちだと、本で読みました」
「その本、燃やした方がいい」
自分で言って、少し驚いた。
もう、切り替えていなかった。作らないで喋る方が、今は楽になっていた。
「今の桐谷さん」
「なに」
「学校の桐谷さんより、少し声が低いです」
「そこ観察するな」
✱
ホットスナックのケースの前では、しばらく無言だった。
「これは、串に刺さっていますね」
「からあげ棒」
「刺したまま、いただくのですか」
「端から食え。串は残す。そこ間違えると病院に行くことになる」
「今、脅されました」
「注意喚起だっつの」
「では、一本」
決闘に行く人の顔だった。
✱
「お客様、からあげ棒あたためますか」
止まった。
完全に、止まった。
「白鷺院さん」
「……どちらが、正しいのでしょう」
「正しいのはない。熱いのが好きなら『はい』」
「熱いのは、好きです」
「じゃあ自分で言え。俺が言ったら意味ない」
彼女は息を吸って、はっきり言った。
「あたためてください」
店員さんは何事もなく袋を受け取った。当たり前だ。世界でいちばん平凡なやりとりだ。
でも彼女は、店を出るまでレシートを両手で持っていた。
「それ、普通は捨てるぞ」
「捨てません」
「なんで」
「四百三十二円と、日付が入っています」
丁寧に折って、財布に入れた。折り目が真ん中で合っていた。あの折り方は、たぶん性格だ。
✱
駐輪場と自販機の間に、並んで立った。
「制服で、外で、立ったまま食べています」
「行儀は最悪だな」
「父が見たら卒倒します」
「やめとく?」
「いいえ」
即答だった。
一口食べて、目を丸くして、二口目にいった。
「熱いです」
「あたためたからな」
「熱いのに、手が止まらな……止まりません」
「今、崩れかけた」
「崩れていません」
「崩れてたって」
彼女は口元を押さえて、耳まで赤くなって、それから、小さく言った。
「……止まらないんです」
三口目のあたりで、口の端に照りが付いた。
「口、付いてる」
「どこですか」
「右」
彼女は左を拭いた。
「逆」
「桐谷さんから見て右ですか、私から見て右ですか」
「そこ確認する?」
結局、俺が自分の口の端を指で示して、彼女がそれを鏡みたいに真似して、ようやく取れた。取れた瞬間に赤くなったので、たぶん状況を後から理解したんだと思う。
自販機の上で蝉が鳴いていた。
変な時間だった。制服で、駐輪場の横で、串を持って立っている。俺にとってはただの、部活にも行かない日の三十分だ。それが誰かの人生の三十七分の一だとは、このとき思っていなかった。
✱
アイスを開けた。
俺の棒には「当たり」と印刷されていた。
「……そんな」
「見る?」
「見たくありません」
「見ないと信じないだろ」
「見ても信じません」
白鷺院澪は本気で悔しがっていた。眉が寄って、口がへの字になって、完璧な微笑みなんてどこにもない。
その顔が見られただけで、四百三十二円の元は取れたと思った。
「もう一回です」
「時間。四時十九分」
「九分あります」
「九分で運は変わらない」
「九分あれば、二本は買えます」
「そういう問題じゃないんだよ」
彼女はしばらく唸って、ものすごく不本意そうに袋を畳んだ。
俺は当たり棒を差し出した。
「やる」
「……施しは受けません」
「言い方が武士なんだよ。明日これでもう一本もらえるって話」
葛藤の形が顔に全部出ていた。
そして、両手で受け取った。
受け取ってから、はっと顔を上げる。
「桐谷さん。私、今、どんな顔をしていますか」
「え」
「悔しがるという顔を、自分がどうやってするのか、知らないんです」
彼女は棒を握ったまま、本気で困っていた。
「今度、鏡を持ってきてもいいですか。桐谷さんといるときの私の顔を、見てみたいので」
……この人は。
本当に、こういうことを、真顔で言う。
「鏡はやめとけ」
「なぜですか」
「間に合わないから」
「間に合わない?」
首をかしげた。
説明する気は、まだなかった。
✱
四時二十八分。正門に回ると、黒い車の横に早坂琴音が立っていた。
その視線が、澪の手元で止まる。畳んだコンビニの袋。
「お嬢様。そちらは」
空気が一度止まって、俺が口を開きかけた。
それより早く、白鷺院澪が言った。
「私が一人で買いました。喉が渇いたので」
滑らかだった。三日前、電話越しに嘘をついて手を白くしていた人とは思えないくらいに。
琴音は袋を三秒見た。それから、俺を一秒見た。
「桐谷様。お世話をおかけしております」
「いえ。とんでもないです」
自分の声が、二段階上がったのが分かった。柔らかくて、感じがよくて、中身のない声。
白鷺院澪が、そんな俺を見ていた。
見られていた、と気づいたときには、もう車のドアが閉まっていた。
俺は頭を下げて、その場を離れようとした。
離れられなかった。早坂琴音が、俺の正面に立っていたからだ。
「少し、お時間をよろしいでしょうか」




