↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
お嬢様は俺だけの素顔を知っている ~優等生をやめた夏、彼女と本当の恋が始まった~  作者: トンエリア


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/31

第03話 はじめての、サボり

「風邪をひいたことにします」


 翌日の昼休み、旧音楽室で、白鷺院澪は開口一番そう言った。


 昨日の今日でもう作戦を立ててきている。この人は宿題を前倒しでやるタイプだ。


「二人ともですか」


「はい。二人とも」


「それは絶対にやめましょう。同じ日に、同じ理由で、同じ時間に二人が消える。いちばんやったらだめなやつです」


「なぜですか」


「三日後には、うちのクラスの女子が全員知ってます」


「……そんなに早く」


「噂の速度をなめない方がいいですよ。別々に抜けましょう」


 俺は黒板の桟に指で線を引いた。


「俺は三時間目に仮病で早退します。年に一回だけ使うと必ず通るんですよ。今年はまだ使ってません」


「……計画的です」


「褒め言葉として受け取っておきます」


 問題は、こっちじゃない。


「白鷺院さんは、体調の話を絶対にしないでください。言った瞬間、学校から家に連絡が行きます」


 彼女の顔から、表情が落ちた。


 そうだ。この人には、俺にはない障害がある。


「連絡が行くと、どうなるんですか」


「……琴音が来ます。十五分で」


「十五分」


「近くにいるので」


 近くにいる、の意味は聞かないでおいた。


 俺は指を二本立てた。


「だから学校には『家の用事で早退します』と言う。あなたなら誰も疑いません。そして家には『生徒会の仕事で遅くなるので迎えは要りません』と言う」


「……両方に、嘘を」


「片方だけだと突き合わされます。二つセットにして、初めて成立する」


 白鷺院澪は、しばらく黙っていた。


 窓の外でチャイムが鳴って、廊下を走る足音が通り過ぎていく。


「桐谷さんは」


「はい」


「それを、いつも一人でやっているのですね」


 うまい返しが、思い浮かばなかった。


「……まあ、そうですね」


 彼女はうなずいて、鞄から携帯を出した。


 ✱


 階段の踊り場は、昼休みの終わりだけ人がいなくなる。


 彼女は手すりに寄りかかって携帯を耳に当て、三コールで繋がった。


「琴音。……はい。それで、今日の迎えなのですが」


 声は、いつもの完璧な声だった。丁寧で、落ち着いていて、隙がない。


「生徒会の引き継ぎが長引きそうなので、結構です。ええ。ええ、大丈夫です。心配しないで」


 嘘をついている人の声には、聞こえなかった。


 ただ、手すりを握っている方の手の指が、白かった。


 通話が切れる。


 彼女は携帯をしばらく耳から離さずに、それから、ゆっくり下ろした。


「終わりました」


「上手かったですよ」


「……気持ちが悪いです」


 彼女は自分の手のひらを見ていた。


「琴音は、私が三歳のときからそばにいます。あの人に嘘をついたのは、今日が初めてです」


「やめてもいいですよ。まだ間に合う」


「いいえ」


 即答だった。


「やめたら、また、いつか、になります」


 いつか、という言葉に、なぜか一拍だけ重みがあった。


 彼女は顔を上げて、口元を押さえるようにして小さく言った。


「悪いことをしていますね、私」


「してますね」


「楽しいです」



 ✱


 合流は、学校の最寄りを一つ越えた駅の改札で。制服の上着だけ脱がせて、電車でもう二駅。降りたところに赤い看板のファミレスがある。


 彼女はネクタイの結び目を三ミリ緩めるのに一分かけた。


「これでいいですか」


「そこ、誰も見てないですよ」


「私が気になります」


 窓際のボックス席に、向かい合って座る。


 彼女はメニューを開いて、真っ先に値段を見た。


「これが、この値段で」


「初回はそれで正解だと思いますよ」


「無難なものを選ぶのは、得意です」


 自嘲だったのかもしれない。でも顔は普通だった。


「じゃあ、飲み物は」


 俺はメニューの端を指した。


「ドリンクバー、つけときますね」


「ドリンクバー」


 彼女は少し間を置いた。


「言葉は、知っています。使ったことは、ありません」


「じゃあ、一緒に行きましょう」


 ✱


 ドリンクバーの前に立った白鷺院澪は、はっきり言って、挙動不審だった。


 まず、グラスの場所で止まった。


「勝手に取ってよいのですか」


「そのために伏せて置いてあるので」


 次に、氷で止まった。


「氷は」


「入れる人と入れない人がいます。正解はないです」


 彼女は氷を三つだけ入れた。三つの根拠は分からない。


 そしてノズルの前で、彼女の手が止まった。


 ウーロン茶、緑茶、コーラ、オレンジ、アップル、カルピス。その一つ先に、彼女がまだ見ていないノズルが一つある。


「レバーは、どのくらい押せば」


「押しっぱなしでいいです。指を離すと止まります」


「では、どこで離せば」


「好きなところで。自分が飲みたい量のところです」


 彼女は、しばらくレバーを見ていた。


 飲みたい量、という言葉が、たぶんこの人の辞書には入っていない。


 最初の一杯は、危うく縁から溢れるところだった。横から手を出しかけて、やめた。ぎりぎりで彼女の指が離れて、水面が縁の一ミリ下で止まる。


 両手で持って席まで歩く後ろ姿が、給食当番の一年生みたいだった。


 ✱


 二杯目、彼女はコーラとオレンジを半分ずつ入れて戻ってきて、一口飲んで、動きを止めた。感想は「学びがありました」だった。


 三杯目でウーロン茶に戻ったあたりで、俺は気づいた。


 この人、一つずつ全部試す気だ。


「あと三種類です」


「なんの勝負なんですかそれ」


「途中でやめるのは、気持ちが悪いので」


 間違っているものは直さないと気持ちが悪い、と昨日も言っていた人だ。根っこは同じところにあるらしい。


 ハンバーグが来ても、彼女はグラスを見ていた。四杯目のアップルの感想は「まっとうです」だった。


 で、五杯目。


 メロンソーダだった。


 緑色の液体がグラスに落ちていくのを、彼女は本当に、まばたきもせずに見ていた。炭酸の泡が上がって、店の照明が透けて、たぶん彼女の家の食卓には一度も乗ったことのない色だった。


 席に戻ってくる足取りが、ほんの少しだけ速い。


「桐谷さん、これ」


「メロンソーダですね」


「緑です」


「緑ですね」


 彼女は一口飲んだ。


 そして、目を見開いた。


「……おいし」


「え」


「おいしい。なにこれ、おいしい」


 空気が、変わった。


 敬語が、落ちていた。


 彼女は自分の口元に手をやって、みるみるうちに耳まで赤くなった。


「……今の」


「聞きました」


「聞かなかったことに」


「無理です。しっかり聞きました」


「桐谷さん」


「はい」


「意地悪です」


「そう言われたの、人生で初めてなんですけど」


 嬉しかった。自分でも意味が分からないくらい、嬉しかった。


 この学校の誰も、俺に「意地悪」なんて言わない。言えるわけがない。俺がそう作ったんだから。


「白鷺院さん」


「……はい」


「今の言い方、そっちの方がいいですよ」


 彼女は、まだ赤い顔のまま、グラスを両手で握っていた。


「変じゃ、ないですか」


「変じゃないです」


 彼女はもう一口飲んで、味を確かめるみたいに、少しの間だまっていた。


「桐谷さん」


「はい」


「そちらのコーラ、少しいただいてもいいですか。比べたいので」


 俺は自分のグラスを持ち上げかけて、止まった。


 ストローが、刺さっている。


「……いや、あの」


「だめですか」


「だめっていうか」


「では、こちらを差し上げます。等価交換です」


 メロンソーダのグラスが、ストローごとテーブルの真ん中まで押し出されてきた。


 この人は、本当に、何も分かっていない。


「白鷺院さん。それ、あんまり人にやらない方がいいです」


「なぜですか」


「なぜかは自分で調べてください」


 彼女は不思議そうに首をかしげて、それから、俺のグラスを見て、また首をかしげた。


 結局、彼女はメロンソーダを飲みきって、六杯目には行かなかった。


「あと一種類、残っていますが」


「また来ればいいでしょ」


「……また、来ていいのですか」


「来ましょうよ。何回でも」


 白鷺院澪は、少しだけ笑った。


 完璧な微笑みじゃない、口の端が左右で微妙に違う、あの下手くそな笑い方だった。


「では、次は」


 彼女は空になったグラスの底を見ていた。


「次も、メロンソーダにします」


「一つも減ってないですけど」


「減らさなくていいです」


 ……この人、けっこう頑固だな。


 ✱


 駅前で別れる前に、彼女は鞄から黒い手帳を出そうとして、落とした。


 中身が開いたまま、俺の足元に滑ってくる。


 拾った。拾って、見てしまった。


 見開き二ページに、細かい字がびっしり並んでいた。番号が振ってある。


 一、学校をサボる。


 その上に、まっすぐな線が一本、引かれていた。


 二、コンビニに入る。三、ゲームセンターというところに行く。四、写真を撮る機械。五、かき氷。六、自転車の二人乗り。七——


「返してください」


 手帳が、静かに取り上げられた。


 白鷺院澪はそれを胸に抱えて、俺から半歩、下がっていた。


「これ、なんですか」


「……見ましたか」


「途中まで」


 彼女は少しうつむいて、それから、いつもの丁寧な声に戻った。


「したいことの、一覧です。ずっと前から書いています」


「多くないですか」


「多いです。三十七あります」


 三十七。


 その数字を、どう受け止めればいいのか分からなかった。十六年生きて、自分で飲み物を注いだことがない人間の、三十七。


「今日、一つ消せました」


 彼女は言った。


 言って、それから、ほんの一瞬。


 胸のあたりを、指先で押さえた。


「白鷺院さん?」


「なんでもありません。走ったので」


 走ってはいなかったと思う。でも彼女はもう、完璧な微笑みに戻っていた。


「桐谷さん。二番を、お願いできますか」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。