第03話 はじめての、サボり
「風邪をひいたことにします」
翌日の昼休み、旧音楽室で、白鷺院澪は開口一番そう言った。
昨日の今日でもう作戦を立ててきている。この人は宿題を前倒しでやるタイプだ。
「二人ともですか」
「はい。二人とも」
「それは絶対にやめましょう。同じ日に、同じ理由で、同じ時間に二人が消える。いちばんやったらだめなやつです」
「なぜですか」
「三日後には、うちのクラスの女子が全員知ってます」
「……そんなに早く」
「噂の速度をなめない方がいいですよ。別々に抜けましょう」
俺は黒板の桟に指で線を引いた。
「俺は三時間目に仮病で早退します。年に一回だけ使うと必ず通るんですよ。今年はまだ使ってません」
「……計画的です」
「褒め言葉として受け取っておきます」
問題は、こっちじゃない。
「白鷺院さんは、体調の話を絶対にしないでください。言った瞬間、学校から家に連絡が行きます」
彼女の顔から、表情が落ちた。
そうだ。この人には、俺にはない障害がある。
「連絡が行くと、どうなるんですか」
「……琴音が来ます。十五分で」
「十五分」
「近くにいるので」
近くにいる、の意味は聞かないでおいた。
俺は指を二本立てた。
「だから学校には『家の用事で早退します』と言う。あなたなら誰も疑いません。そして家には『生徒会の仕事で遅くなるので迎えは要りません』と言う」
「……両方に、嘘を」
「片方だけだと突き合わされます。二つセットにして、初めて成立する」
白鷺院澪は、しばらく黙っていた。
窓の外でチャイムが鳴って、廊下を走る足音が通り過ぎていく。
「桐谷さんは」
「はい」
「それを、いつも一人でやっているのですね」
うまい返しが、思い浮かばなかった。
「……まあ、そうですね」
彼女はうなずいて、鞄から携帯を出した。
✱
階段の踊り場は、昼休みの終わりだけ人がいなくなる。
彼女は手すりに寄りかかって携帯を耳に当て、三コールで繋がった。
「琴音。……はい。それで、今日の迎えなのですが」
声は、いつもの完璧な声だった。丁寧で、落ち着いていて、隙がない。
「生徒会の引き継ぎが長引きそうなので、結構です。ええ。ええ、大丈夫です。心配しないで」
嘘をついている人の声には、聞こえなかった。
ただ、手すりを握っている方の手の指が、白かった。
通話が切れる。
彼女は携帯をしばらく耳から離さずに、それから、ゆっくり下ろした。
「終わりました」
「上手かったですよ」
「……気持ちが悪いです」
彼女は自分の手のひらを見ていた。
「琴音は、私が三歳のときからそばにいます。あの人に嘘をついたのは、今日が初めてです」
「やめてもいいですよ。まだ間に合う」
「いいえ」
即答だった。
「やめたら、また、いつか、になります」
いつか、という言葉に、なぜか一拍だけ重みがあった。
彼女は顔を上げて、口元を押さえるようにして小さく言った。
「悪いことをしていますね、私」
「してますね」
「楽しいです」
✱
合流は、学校の最寄りを一つ越えた駅の改札で。制服の上着だけ脱がせて、電車でもう二駅。降りたところに赤い看板のファミレスがある。
彼女はネクタイの結び目を三ミリ緩めるのに一分かけた。
「これでいいですか」
「そこ、誰も見てないですよ」
「私が気になります」
窓際のボックス席に、向かい合って座る。
彼女はメニューを開いて、真っ先に値段を見た。
「これが、この値段で」
「初回はそれで正解だと思いますよ」
「無難なものを選ぶのは、得意です」
自嘲だったのかもしれない。でも顔は普通だった。
「じゃあ、飲み物は」
俺はメニューの端を指した。
「ドリンクバー、つけときますね」
「ドリンクバー」
彼女は少し間を置いた。
「言葉は、知っています。使ったことは、ありません」
「じゃあ、一緒に行きましょう」
✱
ドリンクバーの前に立った白鷺院澪は、はっきり言って、挙動不審だった。
まず、グラスの場所で止まった。
「勝手に取ってよいのですか」
「そのために伏せて置いてあるので」
次に、氷で止まった。
「氷は」
「入れる人と入れない人がいます。正解はないです」
彼女は氷を三つだけ入れた。三つの根拠は分からない。
そしてノズルの前で、彼女の手が止まった。
ウーロン茶、緑茶、コーラ、オレンジ、アップル、カルピス。その一つ先に、彼女がまだ見ていないノズルが一つある。
「レバーは、どのくらい押せば」
「押しっぱなしでいいです。指を離すと止まります」
「では、どこで離せば」
「好きなところで。自分が飲みたい量のところです」
彼女は、しばらくレバーを見ていた。
飲みたい量、という言葉が、たぶんこの人の辞書には入っていない。
最初の一杯は、危うく縁から溢れるところだった。横から手を出しかけて、やめた。ぎりぎりで彼女の指が離れて、水面が縁の一ミリ下で止まる。
両手で持って席まで歩く後ろ姿が、給食当番の一年生みたいだった。
✱
二杯目、彼女はコーラとオレンジを半分ずつ入れて戻ってきて、一口飲んで、動きを止めた。感想は「学びがありました」だった。
三杯目でウーロン茶に戻ったあたりで、俺は気づいた。
この人、一つずつ全部試す気だ。
「あと三種類です」
「なんの勝負なんですかそれ」
「途中でやめるのは、気持ちが悪いので」
間違っているものは直さないと気持ちが悪い、と昨日も言っていた人だ。根っこは同じところにあるらしい。
ハンバーグが来ても、彼女はグラスを見ていた。四杯目のアップルの感想は「まっとうです」だった。
で、五杯目。
メロンソーダだった。
緑色の液体がグラスに落ちていくのを、彼女は本当に、まばたきもせずに見ていた。炭酸の泡が上がって、店の照明が透けて、たぶん彼女の家の食卓には一度も乗ったことのない色だった。
席に戻ってくる足取りが、ほんの少しだけ速い。
「桐谷さん、これ」
「メロンソーダですね」
「緑です」
「緑ですね」
彼女は一口飲んだ。
そして、目を見開いた。
「……おいし」
「え」
「おいしい。なにこれ、おいしい」
空気が、変わった。
敬語が、落ちていた。
彼女は自分の口元に手をやって、みるみるうちに耳まで赤くなった。
「……今の」
「聞きました」
「聞かなかったことに」
「無理です。しっかり聞きました」
「桐谷さん」
「はい」
「意地悪です」
「そう言われたの、人生で初めてなんですけど」
嬉しかった。自分でも意味が分からないくらい、嬉しかった。
この学校の誰も、俺に「意地悪」なんて言わない。言えるわけがない。俺がそう作ったんだから。
「白鷺院さん」
「……はい」
「今の言い方、そっちの方がいいですよ」
彼女は、まだ赤い顔のまま、グラスを両手で握っていた。
「変じゃ、ないですか」
「変じゃないです」
彼女はもう一口飲んで、味を確かめるみたいに、少しの間だまっていた。
「桐谷さん」
「はい」
「そちらのコーラ、少しいただいてもいいですか。比べたいので」
俺は自分のグラスを持ち上げかけて、止まった。
ストローが、刺さっている。
「……いや、あの」
「だめですか」
「だめっていうか」
「では、こちらを差し上げます。等価交換です」
メロンソーダのグラスが、ストローごとテーブルの真ん中まで押し出されてきた。
この人は、本当に、何も分かっていない。
「白鷺院さん。それ、あんまり人にやらない方がいいです」
「なぜですか」
「なぜかは自分で調べてください」
彼女は不思議そうに首をかしげて、それから、俺のグラスを見て、また首をかしげた。
結局、彼女はメロンソーダを飲みきって、六杯目には行かなかった。
「あと一種類、残っていますが」
「また来ればいいでしょ」
「……また、来ていいのですか」
「来ましょうよ。何回でも」
白鷺院澪は、少しだけ笑った。
完璧な微笑みじゃない、口の端が左右で微妙に違う、あの下手くそな笑い方だった。
「では、次は」
彼女は空になったグラスの底を見ていた。
「次も、メロンソーダにします」
「一つも減ってないですけど」
「減らさなくていいです」
……この人、けっこう頑固だな。
✱
駅前で別れる前に、彼女は鞄から黒い手帳を出そうとして、落とした。
中身が開いたまま、俺の足元に滑ってくる。
拾った。拾って、見てしまった。
見開き二ページに、細かい字がびっしり並んでいた。番号が振ってある。
一、学校をサボる。
その上に、まっすぐな線が一本、引かれていた。
二、コンビニに入る。三、ゲームセンターというところに行く。四、写真を撮る機械。五、かき氷。六、自転車の二人乗り。七——
「返してください」
手帳が、静かに取り上げられた。
白鷺院澪はそれを胸に抱えて、俺から半歩、下がっていた。
「これ、なんですか」
「……見ましたか」
「途中まで」
彼女は少しうつむいて、それから、いつもの丁寧な声に戻った。
「したいことの、一覧です。ずっと前から書いています」
「多くないですか」
「多いです。三十七あります」
三十七。
その数字を、どう受け止めればいいのか分からなかった。十六年生きて、自分で飲み物を注いだことがない人間の、三十七。
「今日、一つ消せました」
彼女は言った。
言って、それから、ほんの一瞬。
胸のあたりを、指先で押さえた。
「白鷺院さん?」
「なんでもありません。走ったので」
走ってはいなかったと思う。でも彼女はもう、完璧な微笑みに戻っていた。
「桐谷さん。二番を、お願いできますか」




