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お嬢様は俺だけの素顔を知っている ~優等生をやめた夏、彼女と本当の恋が始まった~  作者: トンエリア


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第02話 お嬢様のお願い

「いいなあ。私にも、それ、教えてくださいませんか」


 旧音楽室に、その一言だけが残った。


 俺は床に座り込んだまま、芯の折れた鉛筆を握っている。夕方の光が斜めに入ってきて、埃が細かく光っていた。


 ……理解するのに、たっぷり三秒かかった。


「教える、って」


「悪口です」


「悪口」


「はい」


 真顔だった。


 冗談を言っている顔でも、俺をからかっている顔でもない。授業で当てられて答えを言うときみたいな、まっすぐな顔。


 まずい。これは、たぶん、いちばん処理が難しいやつだ。


「白鷺院さん。あのですね」


 立ち上がりながら、俺は笑おうとした。


 教室用の顔。角度も声の高さも、体が覚えている。今からでも遅くない。さっきのは疲れて独り言が過ぎただけで、日頃はもちろんそんなことは思っていなくて、と、丁寧に塗り直せば——


「四十七ページのところから、全部聞きました」


 塗る前に、下地を剥がされた。


「……全部」


「はい。消しゴムの方も、ノートの角の話も」


 彼女は指を折るような仕草をしかけて、途中でやめた。数えるのは失礼だと思ったのかもしれない。その中途半端な手のひらが、やけに人間くさかった。


 俺は天井を見た。ひび割れが一本、斜めに走っている。


 三年。三年かけて建てたんだけどな。


「それで、俺を脅しに来た、って感じでもないですよね」


「脅す?」


 白鷺院澪が、心底不思議そうな顔をした。


 その顔は、中庭で教師二人を恐縮させていた微笑みとは、まるで別人のものだった。


「そういう選択肢もありますよ、って話です。俺は今、けっこう握られてるので」


「……そうか。そういうこともできるのですね」


「今知ったんですか」


「はい。勉強になります」


「メモしないでください」


 彼女は本当にファイルを開きかけていた手を止めて、こほん、と小さく咳をした。


 だめだ。調子が狂う。


 この人と話していると、演技の型が全部、少しずつずれていく。


「そもそも、なんでこんなとこに来たんですか。ここ、誰も来ませんよ」


「生徒会の備品の確認です。旧音楽室のピアノが、まだ台帳に残っていて」


 彼女は水色のファイルを持ち上げてみせた。


「三年前に処分したことになっているのに、実物があるんです。どちらかが間違っている、と思って」


「それ、放っておいたらだめなんですか」


「間違っているものを見つけたら、直さないと気持ちが悪いので」


 直しに来て、俺という間違いを見つけたわけだ。


 運が悪い。いや——たぶん、順番が逆で。この部屋の鍵が壊れたまま三年放置されていたのと、俺が三年ここで悪態をついていたのは、同じ三年だ。誰も台帳を見なかったから、俺は今日まで無事だった。


 ✱


「桐谷さんは」


 白鷺院澪は、埃の積もったピアノの蓋にそっと指を置いて、それから、置いた自分の指を見た。


「あの顔を、毎日しまっているのですか」


「……まあ」


「疲れませんか」


「疲れますよ。当たり前でしょ」


 言ってから、しまった、と思った。


 素の声が出ていた。低い方の声。


 でも彼女は、嫌な顔をしなかった。むしろ、ほんの少しだけ、目を大きくした。


「私は」


 彼女が言った。


「私は、しまい方を知らないんです」


 窓の外で、野球部の声が上がった。誰かがヒットを打ったらしい。


「白鷺院の娘は、いつでも完璧であれ、と言われて育ちました。姿勢、言葉遣い、笑い方。全部、教わりました。……教わっていないものが、一つだけあって」


 彼女は指をピアノから離した。


「怒り方です」


「怒り方」


「はい。それから、たぶん、拗ね方と、ずるい笑い方も」


 俺は返す言葉に詰まった。


 同情ではない。もっと近い場所が、ざらついた。


 俺は自分の素を隠すために顔を作った。この人は、素を出す方法を、そもそも一度も習っていない。


 方向は逆で、行き止まりは同じだ。


「さっき、桐谷さんが一人でこの部屋で言っていたこと」


 白鷺院澪が、俺を見た。


「あれ、私、羨ましかったんです」


「あんな汚い言葉が」


「汚くても、桐谷さんのものでした」


 ……ずるい言い方をする人だな、と思った。


 本人にその自覚がないのが、いちばんずるい。


 ✱


「じゃあ、練習しますか」


 気づいたら、そう言っていた。


 自分でも驚いた。俺は普段、面倒ごとの手前で必ず一回止まる人間なのに、このときは止まらなかった。


「いいのですか」


「その代わり、条件があります」


 俺はスケッチブックを鞄に押し込んで、立ち上がった。


「俺のこれ、誰にも言わないでください。俺は明日も優等生をやります。やらないと、たぶん、生きていけないので」


「言いません」


 即答だった。


「代わりに、白鷺院さんが今ここで練習してることも、俺は誰にも言いません。……お互いの弱み、預け合いってことで。片方だけ握ってる状態より、そっちの方が安全でしょ」


 白鷺院澪は少し考えて、うなずいた。


「共犯、ですね」


「言い方」


「駄目ですか」


「いや、合ってます」


「よかった」


「よくはないですけどね。この学校でいちばん怒られない生徒と、この学校でいちばん怒られない生徒が、二人でこそこそやるって話ですよ、これ」


「では、見つかりにくいですね」


「そこ喜ぶところじゃないんだよな」


 共犯。字面は最悪なのに、合ってしまっているのが、なんかもう、面白くなってきていた。


 俺は窓際の椅子を引いて、彼女に向き直る。


「じゃあ第一回。悪口の練習」


「はい」


「軽いのからいきます。俺のこと『馬鹿』って言ってみてください」


「桐谷さんは馬鹿ではありません」


「そういうことじゃないんだよ」


 思わず素が出た。彼女は真面目な顔でうなずいて、姿勢を正した。正さなくていい。


「では、いきます」


 深呼吸。


「ば」


 止まった。


「ば……」


 止まった。


「桐谷さんは、ばー、ばっ」


「なんか、鳴き声になってきてますよ」


「難しいです」


 白鷺院澪は肩を落とした。落としてから、はっとして姿勢を戻した。そのやり直しの動きが、あまりに素直で、俺は口元を押さえた。


「もう一度お願いします」


「いいですけど」


「今度は言えます」


 言えなかった。


 四回目でようやく、蚊の鳴くような声で「……ばか」が出た。出た瞬間、彼女は自分の口を両手で押さえて、それから、悔しそうに眉を寄せた。


「今の、小さかったです」


「小さかったですね」


「もう一回」


「まだやるんですか」


「できないままで終わるのは、嫌です」


 その一言に、迷いがなかった。


 完璧な微笑みも、丁寧な敬語も、そのままなのに。中身だけが、急に温度を持った気がした。


 五回目。彼女は息を吸って、ちゃんとした声で言った。


「桐谷さんの、ばか」


「はい、合格」


「本当ですか」


「合格です。おめでとうございます」


 俺は笑った。


 作らずに。頬の角度を計算せずに、普通に、ふきだすみたいに笑った。


 白鷺院澪が、ぴたりと動きを止める。


 まずい、と思ったときには遅かった。


「今の顔」


「……あー、これは」


「学校では、見たことがありません」


 彼女はまじまじと俺を見て、それから、少し首をかしげた。


「その顔を知っているのは、私だけなのですね。なんだか、嬉しいです」


 こともなげに言った。


 真顔で、丁寧な敬語で、天気の話をするみたいに。


 俺は、自分の耳の後ろが熱くなるのを感じた。三年ぶんの訓練が、一秒で無効化された。


「なんですか、その言い方」


「変でしたか?」


「変っていうか」


「桐谷さん、顔が赤いです」


「暑いからです」


「窓、開いていますよ」


「……閉めます」


 彼女は不思議そうに首をかしげたままだった。


 この人、自分が今なにを言ったのか、たぶん一ミリも分かっていない。


 ✱


 校門の手前で、黒い車が待っていた。


 その横に、メイド服——ではなく、地味な紺のスーツを着た女の人が立っている。年は二十代の半ばくらい。俺たちを見つけた瞬間、その人の視線が、俺の上で一秒だけ止まった。


 測られた、と分かる止まり方だった。


「お嬢様。遅うございます」


「ごめんなさい、琴音。少し、寄り道をしていました」


 その瞬間だ。


 白鷺院澪の顔が、切り替わった。


 背筋が伸びて、あごの角度が一度だけ下がって、口の端が音もなく上がる。完璧な微笑み。中庭で見たあれ。


 早すぎる。


 俺が三秒かける工程を、この人はまばたき一回でやる。


 ……それは、才能じゃない。回数だ。


「そちらの方は」


「同じ学年の桐谷さんです。落とし物を届けてくださいました」


 嘘が上手い。


 琴音と呼ばれた人は、俺に会釈をした。丁寧で、隙がなくて、二度と関わるなと書いてある会釈だった。


「ご厚意、痛み入ります。以後、お嬢様のお時間はお取りにならぬよう」


「はい。すみませんでした」


 俺も笑って頭を下げる。優等生の顔で。こういうときは便利だ。


 車のドアが開く。


 乗り込む直前、白鷺院澪が振り返った。


 琴音さんからは死角になる、ほんの一瞬。


「桐谷さん」


「はい」


「次の練習課題を、決めました」


 完璧な微笑みのまま、彼女は言った。


「明日、学校を、サボりましょう」


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