第01話 優等生は、今日も完璧
「……いいなあ」
学園一のお嬢様・白鷺院澪は、俺の懺悔を聞いてそう言った。
——三十分前に戻る。俺は今日も、優等生を演じていた。
✱
放課後の教室には、まだ半分くらい人が残っていた。
「桐谷くーん、ちょっといい? ここ教えてほしいんだけど」
振り向くと、クラスの女子が数学のノートを胸の前で抱えて立っている。名前は、ええと。窓際の、後ろから二番目の席の。
出てこない。
でも顔には出さない。出したことは一度もない。
「どれ? ああ、これか」
笑う。口角は上げすぎない。目を三割だけ細める。歯は見せない。歯を見せると軽い印象になるから、こういうときは唇を閉じたまま笑うのが正解だ。三年かけて鏡の前で調整した配合。
「これさ、公式に当てはめる前に一回、図を描いた方が早いよ」
「えー、絵とか下手だし」
「下手でいいんだって。丸と線で。ほら」
ノートの端に、雑に丸を二つ描いて線でつなぐ。
「あ、わかりやすい」
「でしょ。俺も最初これで覚えた」
嘘だ。俺は図なんて描かなくても解ける。でも「俺も最初は」と言われた方が、人は安心する。頭のいいやつに教わるのは、ちょっとだけ惨めだから。そういうところを潰しておくと、みんな俺のことを「感じのいいやつ」だと思ってくれる。
「桐谷くんってほんと優しいよね」
「そう?」
首をかしげる。照れたように、少しだけ。
優しくはない。ただ、優しい人間の真似が上手いだけだ。
女子が礼を言って離れていく。入れ替わりに、今度は男子が来た。
「桐谷、昨日の古典のノート貸して。寝てた」
「いいよ」
鞄からノートを抜いて渡す。渡す前に、一応、確認する。
三ページ目の右下。「徒然草」の「然」の字を書き損じて、上から二重線で消してある箇所。ちゃんと残っている。
あれは、わざと消さないでおいたやつだ。
全部が綺麗に埋まっているノートは、借りる方が居心地悪いらしい。前に一度、完璧なのを貸したら「うわ、なんか申し訳ねえな」と言われた。それ以来、一ページに一つは崩したところを残している。誰にも気づかれない気遣いというのは、気づかれないから機能する。
「サンキュー。お前ノート綺麗すぎ」
「そう? 結構ミスってるけど」
「ほんとだ、なんか安心するわ」
ほらな。
そのまま、教室の前の扉から担任が顔を出した。
「桐谷、悪いんだが」
「進路希望の集計ですよね。もう出しておきました」
「……早いな」
「昨日のうちにやっておいたので」
担任が満足そうにうなずいて引っ込む。
あの人は俺のことを「手のかからない生徒」だと思っている。実際そうだ。手をかけさせないことが、いちばん安全だと知っているだけで。
鞄を持って立ち上がった、そのとき。
「そーうた」
背中に、聞き慣れた声。
振り返らなくても分かる。三好大地。俺の悪友で、この学校でただ一人、俺の面倒くささを知っているやつ。
「今の見てたぞ。にっこにこして」
「営業だよ」
「うわ、素が出てる」
大地がわざとらしく胸を押さえた。
「なあ、今日カラオケ行かね? 三組のやつらも来る」
「悪い、委員会の資料まとめないと」
「それ嘘だろ」
「嘘だな」
「即答すんな」
笑って、廊下に出る。
大地は追ってこない。あいつは、俺が一人になりたい日を見分けられる。そういうところがある。だから唯一の友達をやれている。
✱
渡り廊下を歩いていたら、中庭の向こうで人だかりができていた。
いや、人だかりというほどでもない。三人。教師が二人と、生徒が一人。
生徒の方は、遠目でもすぐ分かった。
白鷺院澪。
この学校の理事長と親戚だとか、旧財閥の令嬢だとか、そういう噂ばかりが先行している同学年の有名人だ。黒い髪が背中の真ん中まで真っ直ぐ落ちていて、制服の着方が、なんというか、他の誰とも違う。着崩していないのに窮屈に見えない。あれは多分、育ちだ。
彼女が微笑んだ。
教師二人が同時に恐縮する。
完璧だな、と思った。
角度も、間の取り方も、うなずくタイミングも。俺が三年かけて作ったものを、あの人は多分、生まれたときから持たされている。
……。
いや。
俺は足を止めていた。自分でも理由が分からないまま、三秒くらい。
あの微笑みの、口の端。
ほんの少しだけ、動くのが早い。
言葉が終わる前に笑顔が完成している。用意してあるものを、貼りに行っている顔だ。
俺は、それをよく知っている。毎朝、洗面所でやっているから。
まさかな、と思って歩き出した。
他人の顔の裏を勝手に読むのは、俺の悪い癖だ。
✱
旧音楽室は、北校舎の三階の突き当たりにある。
新校舎に音楽室ができてからは誰も使っていなくて、鍵も壊れたまま放置されている。埃と、古いピアノのニスの匂い。窓を開けると、グラウンドの声が遠くから届く。
俺は一番奥の窓際に鞄を置いて、そこでようやく、息を吐いた。
誰も見ていない。
顔の力を全部抜く。頬が、じんわり痛い。
「……あー、疲れた」
声に出すと、自分の声が思ったより低くて笑いそうになる。これが素だ。教室の俺より一段低い。
鞄からスケッチブックを出して、床に座り込む。
鉛筆を握って、窓の外の給水塔を描き始めた。夕方の給水塔は影が長くて描きやすい。
線を引きながら、口が勝手に動く。
「ノート教えて、じゃねえんだよ。教科書に同じ図が載ってんだろ、四十七ページ。開けよ。開いて三行読めば終わる話を、なんで俺が笑顔でやってやらなきゃいけないんだ」
しゃっ、と線を一本。
「進路希望の集計だって、本来あれ担任の仕事だからな。『早いな』じゃねえ。早いのは俺が優秀だからじゃなくて、断ると角が立つから昨日の夜に片付けたからだよ。感心してる場合か」
もう一本。給水塔の脚。
「あと三組の田辺。人の消しゴム借りてくときに『ちょっと借りるわ』って言うのやめろ。あれ許可取ってねえだろ。宣言だろ。何が『ちょっと』だよ、半分になって返ってきただろうが」
鉛筆の先が紙に食い込んで、芯が折れた。
舌打ちする。
「あと。俺のノート借りてくやつ、頼むから折り目つけて返すのやめてくれ。角。角が死ぬんだよ。あそこ死ぬと、もう二度と元に戻らないんだからな」
これでいい。
一日ぶんの澱を、こうやって全部ここで吐き出して、明日また笑うための顔を作る。中学のとき、素のままの俺は、口が悪くて絵ばかり描いている変なやつとして、それはもう見事に居場所をなくした。だから作った。作ったものは、壊れなければ一生使える。壊さなければいい。
「うるさい、性格悪い、絵ばっか描いてる。全部合ってるんだよなあ」
削り直した鉛筆で、線を引く。
「合ってるから、隠すんだろ」
——かたん。
背後で、椅子が鳴った。
時間が止まる、みたいな言い方をする人がいるけど、あれは嘘だ。止まらない。むしろ加速する。頭の中で、今日ここで喋ったことが全部、猛烈な勢いで再生された。四十七ページ。担任。田辺の消しゴム。うるさい、性格悪い。
振り返る。
開いた扉のところに、白鷺院澪が立っていた。
夕方の光が廊下側から差していて、髪の輪郭が細く光っている。手には、水色の表紙のファイル。
終わった。
顔から一気に血が引いていくのが、自分でも分かった。
この人は生徒会の役員で、教師からの信頼が厚くて、つまり、俺の三年ぶんの工事を一言で更地にできる立場にいる。しかも最悪なのは、彼女が悪口を言いふらすようなタイプに見えないことだ。言いふらされるなら、まだ対処のしようがある。この人はきっと、誰にも言わないまま、俺の顔を見るたびに今日のことを思い出す。それはもう、明日から毎日、証人が校内を歩いているのと同じだ。
どのくらい聞かれた。
最初からか。田辺の消しゴムからか。それとも、いちばん聞かれたくなかった、あの一行からか。
「……あの、白鷺院さん」
言い訳を探した。
スケッチブックを閉じる音が、やけに大きく響く。
声変わりしそうなくらい喉が渇いていて、それでも俺は、教室用の笑顔を貼り直そうとした。ここで貼れれば、まだ、まだ間に合うかもしれない。
貼れなかった。
頬が動かない。
白鷺院澪は、そんな俺を、ただじっと見ていた。
瞬きを一度。
それから、彼女は言った。
「……いいなあ」
……は?
「今の。桐谷さんの、今の顔」
彼女が一歩、部屋に入ってくる。上履きが埃を踏む音がした。
「私、そういうの、したことがなくて」
完璧な微笑みが、少しだけ崩れている。崩れているというか、間に合っていない。さっき中庭で見た、貼りに行く顔とは違う。今のは、剥がれかけている顔だ。
白鷺院澪は、水色のファイルを胸に抱え直した。
そして、この学園一のお嬢様は、俺の目をまっすぐに見て、こう言ったのだ。
「いいなあ。私にも、それ、教えてくださいませんか」




