約束は、形じゃなくて熱になった
気づけば俺は、真っ白な正装という名の拘束具に押し込められ、神殿の控室に放り込まれていた。
鏡の中の俺は「着せ替え人形(新郎Ver.)」そのものだ。肩は凝るし、首元は本気で俺を絞め殺しにきている。息を吸うたび胸の奥が小さく鳴って、吐き出すたびに「今なら逃げられるぞ」と脳が囁いた。
逃げるな、俺。ここで逃げたら、あの手に触れないまま全部が終わる。
ここ数日の記憶は、暴走する美咲先輩に振り回された残像しか残っていない。
「いい? 直輝くん。予算は無限、時間は有限。ギルドの掲示板は全枠抑えたし、神殿への寄進も済ませたわ。あとは……あんたが歩くだけよ!」
勢いが強すぎて、控室の壁が物理的に押されている気がした。先輩の手には、いつの間にか自作された『結婚式進行台本・極』。表紙の文字が、無駄に太くてデカい。角の立ち方まで、どこか凶器じみている。
「極って……こっちの心臓が極限なんですけど」
俺が乾いた喉を鳴らすと、先輩は台本を抱え直した。指先に込めた力が、ほんの少しだけ震えて白い。笑っているのに、目は真剣そのものだ。
「焦らせたいわけじゃないんでしょうけど……押し方が物理なんですよ」
「押すわよ。今日はそういう日だもん」
言い切りが強い。強いのに、声の温度だけが柔らかい。退路を完璧に断ちながら、俺が一番行きたい場所だけを指し示してくる。
その台本を見て「死ぬ気か」と呟いたヴァルターが、結局いちばん重い腰を上げて根回しを済ませたのも、今となっては遠い昔のことのように思える。
気づいたら貼り紙が出て、気づいたら席順が決まって、気づいたら衣装が届いていた。俺の尊厳がどこかに落ちている気がするが、地球に持ち帰れない金貨が、美咲先輩の手に渡ると恐ろしい速度で「現実」に変わっていく。笑うしかない。
「直輝くん、顔が引きつってる。ほら、笑顔。百――」
「先輩、その言い方、古いです。笑顔の前に、まず呼吸がしたいんですけど」
言い終わる前に、背中に鋭い衝撃が走った。
「じゃあ、叩いて起こしてあげる!」
「ぐっ……!」
肺が裏返るかと思った。だが、痛みのおかげで意識だけは強制的に現実に引き戻される。嫌な覚醒だ。
「ほら起きた。次、顎上げて」
「首が折れますって。……というか、これ、誰が直すんですか」
「折れない。折れたらヴァルターさんが直すから」
「あの人、万能すぎません……?」
言った直後、喉がからりと乾いた。笑って流したいのに、舌がうまく回らない。
先輩は「直る前提で話すな」と言いたげな顔で、俺の襟元を整える。爪が少しだけ当たって痛い。その丁寧さが、逆に怖かった。
そのとき、扉の向こうで軽い足音が跳ねた。
「ナオキ! いる!? ラナ、みる!」
「ダメ!」
返事をするより早く、先輩が隙間を塞ぐように扉を押し返した。ばたばたと音が踊って、向こうでラナがむくれている気配が伝わってくる。
「ラナ、みたい! ナオキ、へんなかお?」
「今だけ! ……あとで見せる!」
声が裏返って、自分の喉を刺した。先輩が俺を見て、楽しそうに目を細めた。やめろ、その顔。
先輩が扉越しに少しだけ声を落とす。
「ラナは入場のあと。今ここで新郎が崩れたら、式が詰むから」
「つむ?」
「全部ダメになるってこと!」
向こうで一拍、息を吸う音がした。
「……じゃあ、ラナ、まつ。おりこうに、まつ!」
見えなくても、扉の前で足踏みして待っているのが分かる。頼む、今日は落ちるな。静かに待ってくれ。
ようやく息を整えようとしたところで、今度は落ち着いた音を立てて扉が開いた。
ヴァルターだ。いつも通りの無表情だが、正装を纏った姿には得も言われぬ圧がある。
「準備はいいか」
喉が乾いて、言葉が引っかかった。唇を一度舐めてから、絞り出す。
「……よくないです。けど、逃げません」
胸の奥が、小さく鳴った。ヴァルターの眉がほんの少しだけ動く。笑うわけではなく、「それでいい」とだけ告げるような合図だった。
その背後、廊下の空気が揺れた。
布が擦れる音。重いものを引きずるような、控えめな足取り。
そこにいる。
「……ナオキ」
声だけが、扉の向こうから届いた。掠れていて、呼吸が浅い。視線が勝手に外を探そうとしたが、ヴァルターが一歩前に出て遮った。
「会うな。今は声だけだ。式で、ちゃんと見ろ」
命令というより、手順だった。余計なことをさせないための、静かな圧。
俺は唇を噛んで、扉の向こうへ声を落とす。
「リヴ。……大丈夫か」
「これ……あってる? ぬげない。おもい。たすけて」
一瞬で空気が「いつものリヴ」に染まった。喉に張り付いていた緊張が、息になって抜ける。
「合ってる。すげぇ合ってる。……もう少しだ。ちゃんと、隣に行く」
向こうで、短く震える呼吸。
「ナオキ……にげない?」
言葉が、痛いほど真っ直ぐだった。俺は答える前に、拳を一度だけ握りしめる。逃げる癖を、自分で折り込むように。
「逃げない。置いていかない。……約束だ」
足音が遠ざかり、最後に小さく声が落ちる。
「……うん。まつ」
それだけで十分だった。
俺は鏡の中の自分を一度だけ睨みつけ、すぐに視線を外した。喉の奥が熱い。言葉にしたら崩れそうで、飲み込む。
「行くぞ」
「はい。……行きます」
返事が固い。分かってる。今日の俺は、これくらい固くていい。
控室を出ると、廊下の冷えた空気が肌を撫でた。香の匂いが濃くなり、遠くで楽器の低い音が腹に響く。
神殿の大扉が開く。
空気が、一変した。
静まり返った聖域。高い天井に反響する重い足音。席にはギルドの連中が、不自然なほど静かに座っていた。ネクタイを曲げ、苦しそうに首を振っている。あいつらが真面目な顔をしているだけで、視界が滲みそうになる。
祭壇まで歩く。逃げ道なんて、最初から綺麗に塞がれている。
正面に立った瞬間、楽器の音が止まった。
侍祭が鈴を鳴らす。ちん、と高い音が胸の奥の固まりを撫でて通り過ぎた。神官の言葉が流れる。「誓い」「証人」「ここに集う者」――断片的な言葉が、勝手に心に刺さる。
視線の先で、扉が開いた。
ざわめきが完全に消え、誰かの喉が鳴る音だけが響く。
俺は息の仕方を忘れた。
そこに、リヴがいた。
真っ白なドレスに包まれた姿が視界に飛び込んできた瞬間、頭の中が真っ白になった。綺麗だ、と言葉にする前に喉が完全に干上がった。
旅装で笑っている姿も、眠い目を擦る姿も、俺の袖を掴む指先も、全部知っている。そういう何気ない時間の全てが、今ここに集まっているのだと、胸がきゅっと縮んだ。
リヴの肩が、小さく震えている。ドレスの裾をぎゅっと掴んだ指先。
怖いんだろう。
重いんだろう。
それでも、彼女は俺の方へ歩いてきた。
目が合う。潤んでいるのに、決して逸らさない目だ。背伸びをするように、顎がわずかに上がっている。
「ナオキ……」
囁かれた名前だけで、胸の奥がほどけた。ほどけた分、崩れそうになる。奥歯を噛んで、息を一つ、深く落とす。
「……来てくれて、ありがとう。ちゃんと、見えたよ」
リヴの口角が、ほんの少しだけ上がった。
その笑みが、反則だった。
促されるまま、俺はリヴの手を取る。
小さくて温かい。驚くほど震えているその手を、指先に力を込めて包み込んだ。痛くしないように、けれど離さないように。
リヴが、俺の指をぎゅっと握り返してくる。声より先に、手のひらが同じ気持ちだと告げていた。
「誓いを、ナオキ」
神官の声に、短く息を吸う。
用意していた台詞なんて消え失せていた。ただ、目の前のこの瞳を、二度と不安にさせたくない。それだけを言葉にする。
「……守る。あんたが俺を選んだこと、後悔させない。何があっても、最後まで隣にいる。約束だ」
最後、声が少し掠れた。綺麗に言い切ると嘘になる気がして、そのまま置いた。
静寂の中、誰かが息を飲む音がした。
リヴが一拍、呼吸を止める。
それから俺を見上げて、はっきりと言い切った。目はもう、揺れていない。
「リヴも。ナオキといっしょにあるく。どんなに、きつくても。……約束」
短い。だが、どんな言葉より重かった。
侍祭が箱を差し出す。布の上に、青い指輪が二つ。俺は呼吸を深く入れ、指輪を取ってリヴの薬指へ滑り込ませた。
その瞬間。
指輪が生き物のように「ドクン」と脈打った。
「っ……!」
心臓を直接掴まれたような拍動が、腕を伝って胸へ駆け上がる。肩が跳ねそうになって、奥歯を噛んだ。ここで情けない声を出すな。
リヴの指先にある指輪も、同じリズムで温度を上げていた。
怖いんじゃない。ただ、生きていた。約束が、形ではなく熱になって刻まれた。
リヴの目が見開かれる。
「……あつい」
「俺もだ。……平気か? 痛くないか」
声が震える。喉がまた乾く。
リヴは一瞬だけ唇を噛んでから、泣きそうな顔で笑った。
「へいき。……へいき、のふり。でも、ナオキ、いる」
その言い方が、あまりにリヴらしくて。
俺は笑いそうになって、喉を鳴らした。胸の中がぐちゃぐちゃだ。
次の瞬間、拍手が爆発した。
ごうっと音が立ち、椅子が揺れる。天井に溜まった熱が、また下に降ってくるみたいだった。ギルドの連中が堪えきれずに叫んだ。
「新郎ー! 逃げるなよー!」
「逃げねえよ!」
反射で返すと、ドッと笑いが起きた。神殿の空気が、やっと息を吹き返した。
美咲先輩はスマホを掲げたまま号泣している。なのに手元は一ミリもブレていない。目が合うと、先輩が口だけで「よくやった」と言った。
「尊い……っ! 尊いってこういうことよ……っ!」
「先輩、泣きながら実況しないでください……!」
「する! 記録は正義なの!」
ラナが椅子の上で跳ねながら花を投げる。一輪だけ俺の額に当たって、地味に痛い。
一拍の静寂のあと、また大きな笑いが起きた。
俺も負けて吹き出した。泣きそうなのに、笑ってしまう。
壇上の端で、ヴァルターが腕を組んだまま、目だけを柔らかく細めていた。
神官が最後の言葉を結び、鈴が鳴る。
式が終わった。
だが、本当の地獄はここからだと分かっている。
案の定、泣き止んだ先輩が突撃してきた。さっきまで涙で濡れていた目が、今は進行表のように鋭く光っている。
「はい! 新郎新婦、逃げない! このあと祝宴、集合写真、乾杯! 直輝くん、笑顔はあとでいいから歩いて!」
「あとでって言ったそばから走ってるじゃないですか!」
俺の悲鳴が神殿に響く。笑いがまた起きて、背中を押される。
リヴが小さく笑い、俺の腕を掴み直した。さっきよりも柔らかく、嬉しい方の力で。
「ナオキ」
「……ん。どうした」
リヴは一拍置いて、俺の指輪を見つめた。言葉を探すみたいに瞬きして、それから、ゆっくりと顔を上げる。目は少し潤んでいるのに、しっかりと笑っていた。
「……いっしょ、たのしい」
その一言で、胸の奥がすっと軽くなった。
「ああ。……やっと来たな、ここまで」
「きた?」
「……一緒にだ」
言葉が途切れる。誓いのあとに、普通の言葉がなかなか追いつかない。
リヴが俺の指をきゅっと握り込んだ。離さないと、手で言ってくる。
「だいじょうぶ。リヴ、はなさない」
「俺もだ。……絶対に、離さない」
青い指輪の熱が、まだ指先に残っている。
痛いくらいに確かなその熱が、俺たちの間に消えない“約束”を残していた。




