二人の薬指
昨夜の喧騒が嘘みたいに、ヴァルター邸の朝は静まり返っていた。
窓から差し込む光が、石床の埃を白く浮かせている。暖炉の火はとっくに落ちて、冷えた灰の匂いに、宴の名残である酒の香りが薄く混じっていた。澄んだ空気の中に、昨夜の時間だけが取り残されているみたいだ。
俺は広間の長椅子に座り、重い頭を片手で押さえたまま、テーブルの上の小さな木箱をじっと見つめていた。
昨夜、あの大騒ぎの中でリヴにプロポーズをした。 世界樹のふもとのほうがまだ音がしていただろう。こういう時だけ妙に潔くなれる自分を、どこか他人事のように感じる。
指先で、箱の蓋をそっと押し上げた。
中には、リヴに贈ったものと全く同じ意匠の指輪が収まっていた。金でも銀でもない。透明感のある深い青を湛えていて、内側から脈打つみたいに、微かな光が生きている。
――世界樹の“祝福”。
言葉にすれば綺麗だが、実物の手触りはもっと生々しい。触れた瞬間、これがただの飾りじゃないことが肌に伝わってくる。世界樹なりの詫びと報酬。そう思えば納得はできるのに、指先の微かな震えまでは止まってくれなかった。
「……おはよう、ナオキ」
背後から、たどたどしい、けど昨夜よりずっと落ち着いた声がした。
振り返ると、リヴが立っていた。昨夜のドレス姿じゃなく、いつもの旅装に近い格好。だけど左手の薬指には、あの青い指輪がちゃんと根付いている。馴染みすぎて、最初からそこにあったみたいだ。
「ああ、おはよう。……よく眠れたか?」
「うん。夢、みた。ナオキが、ペンギンになる夢」
「……まだ引きずってるのか、それ。俺の親戚にペンギンがいるなんて話、本気にするなよ」
苦笑いを見せると、リヴは「うそ、わかってる」と小さく笑った。笑ったあと、一拍だけ視線を落として、それから俺の隣に腰を下ろす。ただ距離が近くなっただけなのに、胸の奥が勝手に騒ぎだした。
リヴの指先が、木箱の縁に触れる。
「これ……ナオキのぶん」
「ああ。世界樹のやつ、気が利きすぎだろ。普通、指輪ってのは男が苦労して準備するもんなんだけどな」
「世界樹、おせっかい。でも……うれしい。いっしょが、いい」
言い切る直前、リヴが小さく息を吸い込む。そのまま箱の中の指輪を見つめ、それから俺を見た。深い青の瞳が揺れて、けれど逸らされない。俺の喉が、不意に乾いた。
「……俺も嬉しいよ。正直、少し怖いけどな」
リヴの口元がふっと緩む。その笑い方が昨夜より柔らかくて、余計に危ない。気を抜くと、すぐに抱きしめてしまいそうになる。
そこへ、階段を乱暴に踏み鳴らす音が落ちてきた。
「おい、ナオキ。朝っぱらから二人で何をしめっぽく――って、なんだその箱は」
ヴァルターだ。眠気なんて最初から存在しない顔で、広間に入ってくる。後ろから美咲先輩が目をこすりながらついてきて、ラナがすでに冴えきった目で跳ねていた。
「おはよーございまーす……あ、指輪の話? いいところ?」
「ラナ、みる! みる!」
「ヴァルターさん。ちょうどよかったです」
俺は箱を軽く持ち上げ、ヴァルターに向けた。
「昨夜、指輪を打ち直すとか言われましたけど……その必要、たぶんないです。これ、世界樹が同じものを二つくれてました」
ヴァルターの眼が、すっと細くなる。酔いの残りが一瞬で吹き飛ぶくらい、空気が変わった。
「……見せろ」
太い指が、箱の中から指輪を摘み上げる。職人の手つきだ。ヴァルターは窓際へ歩き、朝日にそれをかざした。
沈黙が広間に満ちる。美咲先輩も、ラナも、言葉を飲み込んでいた。ヴァルターの鑑定は、この屋敷では絶対だ。
「……ナオキ。お前、これをどうやって手に入れた」
「授かったんです。世界樹から直接」
「世界樹だと? ……触ったのか、お前」
問いが低い。責めるのではなく、まず危険を嗅ぎ取ろうとする声だった。ヴァルターは指輪を鼻先に近づけ、匂いを嗅ぐように息を通す。指の腹で曲線をなぞり、角度を変えて、光の奥を覗き込む。いちいち仕草に圧があって、俺の胃がきゅっと縮んだ。
やがてヴァルターが、降参したように息を吐いた。
「打ち直し? サイズ調整? 馬鹿を言うな。俺の金槌をこれに当ててみろ。金槌のほうが砕けるか、俺の腕が先に折れるのが落ちだ」
「そんなに、ですか」
「そんなにだ。これに手を加える余地なんて、どこにもねえ」
即答が重い。美咲先輩が身を乗り出して、スマホのライトで照らしてみる。寝起きのくせに、目だけは完全に研究者のそれだった。
「……直輝くん、これ、継ぎ目がないわ。削った跡も見えない。最初からこの形として存在してたみたい……」
言い終えて、先輩が一瞬だけ黙る。自分の言葉の重さに、今さら気づいたような顔だ。リヴが、自分の指輪を見下ろしていた。指先でそっと触れて、触れたまま止まる。大切にしたいけれど、どこか恐ろしい。そんな手つき。
「……リヴ。痛くないか?」
「だいじょうぶ。きつくない。ぬけない」
「抜けないってのも、それはそれで怖いんだけどな」
冗談で逃げた瞬間、喉がまた乾いた。リヴが小さく笑って、でも目は真剣なまま俺の手を見た。
ヴァルターが指輪を箱に戻す。戻す動きが丁寧すぎて、逆に緊張が走る。
「俺の手には負えねえ。だが、“確認”だけはしてやる」
「確認?」
「問題がねえかを見極める。式の前に、それだけは筋を通させろ。手が届かねえ代物ほど、目だけは離さねえ。職人ってのはそういう生き物だ」
そう言って、ヴァルターが俺の肩を昨夜より少しだけ優しく叩いた。
「いいか。こいつは最初から、お前たちの指に合うように意思で形を寄せてる。リヴの指に馴染んでるのがその証拠だ」
「じゃあ、ナオキのも! ナオキがはめたら、ナオキのかたちになるの!?」
ラナがぱっと手を上げた。
「……たぶん、な」
俺は箱から、もう一つの指輪を取り出した。重さはほとんど感じない。なのに、指先に触れた瞬間、細い振動が返ってくる。心臓の音を読まれているみたいな、落ち着かない震え。
俺はリヴに向き直った。昨夜のプロポーズは、俺が一方的にぶつけた。だから今度は――違う形で、同じ約束を受け取りたい。
「リヴ。……はめてくれるか」
言い終わる前に、息が浅くなる。自分で言い出したくせに、返事を待つのが怖い。リヴが一瞬目を見開いて、それから小さく頷いた。頷くまでの一拍が、やけに長く感じられる。
「……うん。ナオキに、あげる。リヴの、やくそく」
小さな手が、俺の左手を取る。指先が少しだけ震えていて、その震えが俺にも移った。ヴァルターも、美咲先輩も、今は黙って見守っていた。誰も踏み込めない空気が、そこにはあった。
指輪が、俺の薬指の第一関節に触れる。
その瞬間、指輪が生き物みたいに柔らかく脈打った。ぴたり、と吸い付くように収まって、俺の指の太さに合わせて微かに形を変えていく。痛みも締め付けもない。あるのは、体温が一段上がったような熱だけだ。
「……できた」
リヴが顔を上げて、にこっと笑う。笑っているのに、目の端には薄く水が溜まっていた。
「ナオキ、いっしょ。……きれい」
俺の左手にも、深い青の光が灯った。二つの指輪が並ぶと、一瞬だけ強く光る。呼吸を合わせたみたいに同調して、それから穏やかな輝きに落ち着いた。胸が変な音を立てる。嬉しいのに、怖い。嬉しいから、怖い。
「よし。これで文句なしだ」
ヴァルターが腕を組んで頷く。
「打ち直しはなし。だが明日、工房へ一度来い。触らねえし、叩かねえ。見るだけだ」
「……分かりました。お願いします」
美咲先輩が、ぱんっと勢いよく手を叩いた。
「はいはい! 湿っぽいのはここまで! 指輪も決まったことだし、次は現実的な話よ。結婚式! この世界での手続き! そしてパーティー!」
先輩が大きく息を吸う。今から走り出す気の音だ。俺の胃が、先に折れそうになる。
「直輝くん、規模はどうする? 上限を決めなさい」
「上限?」
聞き返しながら、俺は自分の指輪を見た。光は落ち着いているのに、俺の身体だけが落ち着かない。
「金の心配ならいらないですよ。……この世界の金貨、山ほどありますし」
「え、金貨!?」
先輩の目が一気に開いた。完全に覚醒した顔だ。
「あるんです。でも地球に持ち帰れない。だから余計に性質が悪いっていうか」
言った瞬間、喉が鳴って、笑うしかなくなった。冗談に逃げたつもりなのに、指先の力は抜けない。
「使い道がないってこと? いや、あるじゃない! 結婚式! ここで盛大に使えるじゃない!」
「先輩、発想が暴走してます」
「暴走じゃないわ。活用よ」
美咲先輩が胸を張る。言葉の意味が違う気がするが、顔だけは自信満々だ。ヴァルターが短く息を吐いた。ため息のようでもあり、呆れた笑いのようでもある。
「金があるなら、あとは段取りを詰めるだけだ」
「段取り、ですか」
「そうだ。派手にするならするで、まずは席順だ。誰をどこに置く」
「席……」
先輩が即座に手を挙げる。
「私、最前列です!」
「却下だ」
「なんでよ!」
「うるさいからに決まってるだろ」
「ひどい!」
リヴが俺の袖を引いて、小さく笑った。その笑い方が柔らかすぎて、俺はまた喉を鳴らして視線を逸らす。
「ナオキ。食い物はどうする」
ヴァルターの問いに、俺の脳が少しだけ安堵した。食い物の話なら、まだマシだ。
「肉とパン、あとは甘いものも少し。……酒はほどほどでお願いします」
「ほどほど……?」
リヴが首を傾げる。目が真剣だ。
「難しい言葉だよな、うん」
「ほどほど、ない!」
横からラナの声が飛んできた。いつの間に背後にいたんだよ。
「けっこんしき! いっぱい! いっぱい!」
「ラナ、上限って言葉を覚えろ」
「おぼえない!」
先輩が吹き出して肩を震わせる。
「直輝くん、今の名言ね。『上限を覚えろ』。メモしとこうかしら」
「書かなくていいですよ」
「書きます!」
ヴァルターが手を軽く上げた。それだけでラナも美咲先輩も止まる。空気の締め方が反則だ。
「決まりだ。肉は多め。酒は場に合わせる。飲めねえ連中には茶を出せ」
「茶、ある?」
リヴが身を乗り出した。瞳がきらっとしている。その反応だけで、胸の奥が少し明るくなった。
「ああ。ミーナに頼め。用意できる」
リヴが何度も頷いて、俺の手をぎゅっと握り直した。嬉しい時の力だ。分かりやすい。
ヴァルターが最後に言う。
「明日、工房。指輪は見るだけだ。それが終わったら、式の打ち合わせを詰めるぞ」
打ち合わせ、という言葉がずしりと重い。祝福より重い。段取りは人を殴る武器になる。俺は短く息を整えて、頷いた。
「……分かりました。やります」
「いっしょに」
リヴが小さく付け足す。
「ああ、一緒に」
言葉を繰り返した瞬間、指輪がほんの少し温度を上げた気がした。
窓の外から街の活気が入り込んでくる。石畳を叩く馬車の音、露店の準備を急ぐ声、金具が触れ合う乾いた響き。不便で騒がしいこの中世の街並みには、確かな「生」の匂いが満ちていた。
世界樹の向こう側が動き出せば、また戦いが戻ってくる。修復も、任務も、命を擦り減らす仕事も。 でも。 俺の左手には、消えない青い熱がある。握り返してくるリヴの指が、ちゃんと温かい。
「リヴ」
「ん?」
「これから忙しくなるぞ。美咲先輩の計画に付き合うのは、世界樹を直すより体力がいるかもしれない」
冗談にしたのに、声が少し掠れた。
リヴは一拍置いて、それからゆっくり頷いた。
「だいじょうぶ。リヴ、ナオキといっしょなら……つかれない。……たぶん」
「たぶんかよ」
俺が突っ込むと、リヴは声を殺して笑った。笑ったあと、指輪にそっと触れて、すぐ離す。その何気ない仕草が、守るという言葉より強く、俺を支えていた。
俺はもう一度、彼女の額に自分の額を寄せた。息が混ざり、視線を逃がさない距離。
「明日、工房。終わったら、式の打ち合わせだ」
「いっしょに」
「一緒に」
朝日はさらに高く昇り、二つの青い光を静かに照らし出していた。




