報告
世界樹のメンテが明けてから数日。俺の部屋の空気は、ずっと湿った鉛みたいに沈んでいた。
テレビの前に立つたび、見えない境界から冷気が漏れてくる気がして、呼吸が浅くなる。画面を見ないようにしても視界の端が勝手に引っ張られて、生きた心地がしなかった。
その静けさを、乱暴なチャイムが叩き割った。
「有給、取ってきたわよ」
ドアを開けた瞬間、美咲先輩が戦闘態勢で立っていた。ラフな服にスニーカー。なのに髪だけはきっちりまとめてある。寝不足の顔なのに、目だけが妙に冴えてる。
「……本当に、取ったんですね。無理やり」
「無理やりじゃないわよ。後輩の結婚式(仮)に行かない先輩がどこにいるのよ。……で、直輝くん」
先輩が一歩踏み込んで、声の温度を落とした。
「あれから数日あったけど。プロポーズ、済ませたんでしょね?」
「……」
言葉が出なかった。喉が詰まって、息が一拍遅れる。俺は玄関の隅に落ちてた綿ゴミへ視線を逃がした。情けないくらい、そこしか見られない。
「あんたねえ……」
溜息が、肩の上に重く乗った。
「準備とか、いろいろあって。心の整理というか」
「準備はいいわよ。でも『言う準備』はどうなのよ」
先輩の目が細くなる。怒ってるというより、胃が痛そうな顔だ。
「……すみません」
「謝る暇があったら言いなさいよ。……ああもう、胃が痛い。まずは荷物」
追い詰められたみたいに胸が詰まって、俺は逃げるようにリヴを呼んだ。
奥から出てきたリヴは、先輩の姿を見るなりぱっと顔を明るくする。頬が持ち上がって、足音まで軽い。
「ミサキ! きた。うれしい。……いく?」
「ええ、行くわよ」
先輩は頷いてから、ちらっと俺を見て、言いにくそうに口元を引き結んだ。
「……リヴちゃん、その、何があっても私を見捨てないでね。その、トカゲの丸焼きとか出てきたら、私の分まで食べて」
冗談の形をしてるのに、声がほんの少し硬い。俺は返事を探して、口の中が乾く。
先輩が床に置いたパンパンのリュックを見て、リヴが小さく指を振る。
音もなく荷物が消えた。アイテムボックスの便利さは知ってる。それでも目の前で起きると、脳が一拍遅れる。
「……本当、チートよね。私の物理法則を返してほしいわ」
「ミサキ、なれる。すぐ」
「なれるわけないでしょ。……ああ、もう。行くわよ。このままだと、行く前に私の正気が尽きる」
リヴは今日、やけに鼻息が荒い。地球で買った『桃缶』と『カリカリのスナック菓子』をラナに食べさせる――それが今の最大ミッションらしい。胸の前で手を握って、落ち着きなく体重移動してる。
「ラナ、あまいの、すき。しあわせ。ナオキ、いくよ」
急かされるまま、俺は32型の中古テレビの前に立った。
画面はもう家電の顔をしていない。白く瞬くノイズの奥に、無機質な文字列が並ぶ。
――――――――――
PORTAL CHECK [2/4: LINK] …… OK
VISUAL …………………… OK
STABILITY ……………… 50%
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「安定50%って……」
先輩の声が裏返りかける。俺の袖を掴む手に、ぎゅっと力が入った。
「直輝くん、これ、片足突っ込んだままポータルが閉まるとか……ないわよね?」
「ない……とは言い切れないです。だから、絶対止まらないでください。掴んだら、そのまま一気に」
「笑えないんだけど」
逆側からリヴも俺の腕を掴む。両側から引っ張られて、俺だけが綱渡りみたいだった。
画面から溢れ出したのは森の匂いじゃなかった。
石畳。香辛料。獣の脂。活気と混沌が混ざった、街の匂い。
「……街だ」
俺は思わず二度見した。
いつもなら、世界樹の根元――ウロの拠点の白い気配が先に来る。森を抜けて、そこからヴェルンへ。そういう順番だったのに。
「待って。これ……森、飛ばしてないか?」
「近道じゃない?」
美咲先輩が肩をすくめて、短く息を整えた。
「サービスってやつ。世界樹にも“メンテ明け特典”くらいあるでしょ」
俺は、つい笑ってしまった。笑った瞬間、喉の奥の硬さがほんの少しほどける。
「……だったら助かります」
リヴは画面を見つめたまま、短く頷いた。
「ちかい。ヴェルン、すぐ」
その一言が妙に頼もしくて、背中が押された。
俺たちは十秒のカウントを心の中で数えながら、テレビのポータルへ飛び込んだ。
着地した瞬間、肺が異世界の乾いた空気で焼かれる。
鼻の奥が痛い。土が乾いてる。街が生きてる匂いがする。
「うわ……マジで、異世界……」
先輩が呆然と呟いた。俺は遠くの壁を見ながら息を吐く。先輩の指が、俺の袖の上でほんの少しだけ緩んだ。
「ここが異世界かー。……遠くに見えるのがリヴちゃんの街ね」
「ミサキ、ちがう。ここ、街。わたしの村、もっと遠い」
「え、村なの? 街の子じゃないの?」
「ちがう。むら」
先輩が俺を見る。目が「説明して」と言ってる。
「わかりやすく説明して」
「えっと……」
俺は街の方を指さして、言葉を探した。
「先輩にわかりやすく言うと、ナーロッパ的な街です。貿易の拠点みたいなところで、冒険者ギルドもあります」
「うわ、冒険者ギルド!」
先輩の声が一段上がる。怖がってるのに、好奇心が勝ってる。
「じゃあ荒くれ者に絡まれるところでしょ~」
「そこまでモラルは低くないです。たぶん。……でも、想像に近い部分はあります」
「あるんだ」
先輩の目がきらっと光る。ほんとにこの人、こういう時ほど強い。
「街では言葉が通じないですから、俺とリヴで通訳しますね」
「頼もしい。二人とも通訳の給料もらいな」
リヴが胸の前で小さく拳を握って、ふんす、と鼻を鳴らした。
「ミサキ、まかせて。わたし、つうやく、できる」
「かわいい。今の“ふんす”かわいい」
「ふんす、する」
「するのか」
そのやり取りで、張りつめてた緊張が一段だけ落ちる。俺もようやく息を吐けた。
門へ近づくと、槍を持った門番がこちらを見て、幽霊でも見たみたいに口を開けたまま固まった。
「おい、兄ちゃん! 嬢ちゃん!! 生きてたのか!!」
次の瞬間、狂ったように鐘を鳴らし、叫ぶ。
「おーい!! 英雄の帰還だぞーー!!」
「ちょ、英雄……?」
美咲先輩が俺の腕を掴んだまま、顔を引きつらせた。
あっという間に人だかりが膨れていく。怒号みたいな歓声。背中を叩く手の感触が次々に来る。
「ナオキ!」
「リヴちゃん!」
「死んだって噂だったぞ!」
「よくやった!」
向こうでの俺はナオキだ。呼ばれ慣れてるはずなのに、こうして浴びせられると胃のあたりが落ち着かない。英雄なんて柄じゃない。俺はただ、目の前の女の子を助けたかっただけだ。
揉みくちゃにされながら、俺たちはヴァルター商会へ逃げ込んだ。
扉を開けると、いつもの紙とインクの匂いが鼻を打つ。
奥から出てきたヴァルターは、俺の顔を見るなり持っていた帳簿を床に叩きつけた。
「お前たち……やっと戻ったか!!」
怒鳴ってるのに、声が震えている。駆け寄ってきたヴァルターに肩を掴まれ、骨が軋むほど引き寄せられた。
「……馬鹿者が。どれだけ心配させたと思っている」
「すみません」
「謝るな。……いや、謝れ。二度と勝手に消えるな」
その脚に、小さな弾丸が突っ込む。
「遅いよー!! ずっと、ずっと待ってたんだから!!」
ラナが泣きじゃくりながら俺の腰にしがみついた。腰がぐっと重くなるほど必死だ。
「ラナからもらったお守りのおかげかな。無事に戻れた」
「ほんと? お守り、効いた? ……よかったぁ……」
ラナの声が掠れて、肩が落ちる。俺は笑って、その柔らかい頭を撫でた。指先に熱が伝わってくる。
――ああ。
俺は、ここに帰ってきたかったんだ。
「……そちらのお嬢さんは?」
ヴァルターの視線が、美咲先輩へ向く。先輩が背筋を伸ばして、唇を軽く噛んだ。
「俺の地球での友人です。ずっと支えてくれた人で――相澤美咲さん」
「相澤美咲です。えっと……突然すみません。でも二人を放っておけなくて」
紹介しながら、リヴがこれ以上ないくらい整った通訳を挟む。先輩が俺に小声で突っ込んできた。
「ねえ今の、私の挨拶、三割増しで良くなってない?」
「良くした」
「良くしたの?」
リヴが真顔で頷くから、俺は噴きそうになって口元を押さえた。笑い声を飲み込むのに、喉がきゅっと鳴る。
ヴァルターが店の者へ目で合図する。
「ギルドへ使いを。ギルドマスターと、受付のミーナに来てもらえ。積もる話は後だ。まずは報告を聞く」
空気が、ぐっと締まった。
ほどなくして、ギルドマスターが来る。ミーナも一緒だった。ミーナは俺の顔を見るなり、目が潤んだ。
「ナオキさん……! リヴちゃん……!」
「ミーナ」
「何ヶ月も帰ってこないから……最悪の想像もしました」
ミーナの指が震えてる。俺はそれを見るだけで、胸の奥が痛んだ。
「すみません。心配かけました」
ギルドマスターは椅子に腰を下ろすと、開口一番に低い声で言った。
「この街だけじゃない。広範囲で黒い枝が次々と現れて、消耗戦を繰り返していた」
疲れが声に滲んでいる。
「だがある日、急に全ての黒い枝が――灰みたいに崩れて消えた。あれを見て“終わった”と分かった。お前たちがやったんだな、と」
俺は一つずつ言葉を選んで話した。世界樹のこと。崩壊核の隔離。リヴがもう器から解放されたこと。
リヴが胸に手を当て、深く息を吸う。呼吸が軽い。そこに、間に合ったって実感が遅れてくる。
「英雄、か」
ギルドマスターは鼻で笑うみたいに息を吐いて、視線を落とした。
「おとぎ話の英雄はもっと華やかだが……お前らみたいな泥臭い連中が世界を救ったという方が、俺には信じられる」
そして、深く頭を下げた。
「ただ。世界樹が言うには、崩壊核――魔素喰いの残滓が残っているかもしれないと。情報は集めていた方がいいかもしれません」
ギルドマスターが頷く。
「危機は去った。だが“終わった”とは限らない。そういうことだな」
「はい。世界樹も切羽詰まった感じではなかったので、当面は大丈夫だと思います。……でも、念のため」
ヴァルターが重く頷いた。
「今は危機が去ったことを、街の者や領主にも伝えねばならんな。残滓や異変の情報は、引き続き集めよう」
ギルドマスターが立ち上がる。
「俺はギルドへ戻る。手配する。……よくやったな」
「ありがとうございます」
ミーナが、少しだけ笑って言った。
「ナオキさん、リヴちゃん。またね。ちゃんと……帰ってきてくれてありがとう」
「はい」
その「ありがとう」が、胸の奥に刺さる。
隣で先輩が、ほんの少し目を細めた。
「ほら。刺さるでしょ」
「刺さってます。今、抜けないやつです」
報告が終わった途端、空気がゆるむ。肩が落ちる音が聞こえそうだった。
その夜、ヴァルター邸では盛大な宴が開かれた。
地球産の桃缶が振る舞われ、ラナは「しあわせ!」と叫びながら頬張っている。美咲先輩は未知の料理に身を引きつらせつつ、「案外いけるわね」と酒杯を傾けた。
笑い声。食器の音。
世界が救われたんだと、人々がようやく確信して安堵する熱気が部屋に満ちている。
その熱の中で、俺だけが時々、胸の奥を指で押さえるような気持ちになった。
指輪のことを思い出す。鍵のことも、結婚のことも、順番のことも。全部が同じ場所に積み上がって、重い。
夜が更けて宴の片付けが始まった頃、ヴァルターに手招きされて、俺は裏の書斎へ通された。
「で。相談とは何だ」
ヴァルターは椅子に深く腰掛け、鋭い目で俺を見る。俺は一度、大きく息を吸った。肺が痛いくらいに。
「ヴァルターさん。俺……リヴと、結婚式を挙げたいんです。ここで」
ヴァルターの顔がぱっと明るくなった。
「それはめでたい! 任せておけ。街を挙げて祝ってやる」
「……ただ」
声が、喉の奥で引っかかる。俺は言葉を絞り出した。
「実はまだ……プロポーズ、してないんです」
ヴァルターが固まった。
長い沈黙。部屋の隅の時計が、一秒ごとに俺の情けなさを刻む。
「……お前な」
声が、かつてないほど低い。
「ものには、順序というものがある。……ナオキ。お前は世界を救ったかもしれないが、一人の女の人生を背負う覚悟を、まだ言葉にしていないのか?」
「……はい。言えてません」
「逃げるなよ。言葉を惜しむな。それは剣を抜くより勇気がいることだが……お前の義務だ」
正論が、杭みたいに胸を貫く。
「今夜だ。今夜、ケリをつけろ。……英雄。戦場だけが男の舞台じゃないぞ」
俺は小さく頷き、部屋を出た。
リュックの中――ポケットに押し込んだ二つの指輪が、皮膚越しに熱を持っているように感じる。
逃げ道は、もうどこにもない。
今夜、俺の言葉を、俺の手で掴みにいく。




