メンテが明けた日
世界樹のメンテが明ける。そんな予感が、朝からずっと腹の底に張りついていた。
理由は単純だ。電源も入れていないテレビが、静かじゃない。
黒い画面の奥を、白い粒が横切る。音はしない。けど、止まっているはずのものが動いている気配だけが、皮膚の内側に触れてくる。俺は無意識に、手のひらの汗をズボンに拭った。
「……は? テレビにOSなんて入ってないだろ。安い中古だぞ」
口にした声が、部屋に落ちたまま戻ってこない感じがした。舌先で口の中を転がして、乾きを誤魔化す。
その瞬間、画面の端が白く瞬いた。ノイズが寄って、固まって、整いすぎた文字列になる。途中から表示されたみたいに、数字だけが落ち着いた。
PORTAL CHECK [2/4] …… OK
VISUAL …………………… OK
STABILITY ……………… 50%
冗談みたいにきっちりしてる。なのに笑えない。触ってもいない指先が熱くなって、俺は反射で拳を握り込んだ。
この感触は知ってる。境界が開く直前の、あの息づかいだ。
俺は振り向いてリヴを――
「リ――」
名前を呼び切る前に、視界が白くはぜた。
音が消えた。匂いが消えた。足元の重さだけが抜け落ちて、膝が落ちる感覚が先に来る。俺は踏ん張るはずの床を探して、空気を掴んだ。
次に気づいたとき、俺は白い空間に立っていた。
床も壁も天井も分からない。どこまでも白い。足元だけが「ここにある」と主張していて、他は薄い。薄いくせに逃げ場がない。
「リヴ!!」
喉が焼けた。声が白に吸われる。返ってくるものが、何もない。
俺だけが呼ばれた。
理解した瞬間、背中に汗が浮いて、指先が冷えた。視線だけが忙しくなる。見ても意味がないのに、どこかに答えがある気がしてしまう。
――ここは、どこだ。
答えは向こうから来た。
『礼を言う。お前たちのお陰で崩壊は免れた』
低い声だ。響くのに耳じゃない。頭の奥に直接届く。方向がない。前も後ろもない白の中で、空間そのものが喋っている。
俺は唾を飲み込んで、声を出した。出さないと自分が薄くなる。
「世界樹なのか?」
自分の声だけがやけに生々しい。喉が鳴って、余計なことが口から滑りそうになるのを、歯で止めた。
「……前はカタコトで命令みたいだったのに、今日はずいぶん流暢だな」
『崩壊が進み、力もなく、あれが精一杯だった』
『今は完全に崩壊核を隔離したことで、抑えに回していた分の余力がある』
余力。
その単語が、腹の奥に残った。余力がなければ喋れない。喋る余裕すらなかった。俺は一度、手を太ももに押し当てた。指先が勝手に動くのが嫌だった。
「じゃあ、もう危険はないってことか。異世界に渡ることも――」
そこで止めた。聞きたいことがある。ずっと喉の奥に引っかかって、飲み込めないまま残ってたやつだ。
「ひとつだけ、訪ねたい」
白が黙ったように感じる。沈黙が圧になって胸を押す。俺は目を逸らしたくなって、逸らせないまま堪えた。
「俺の世界にポータルを開いたのは、あんたの計画だったのか。リヴとの生活も、俺たちがやってきたことも……最初から仕組まれてたのか?」
言い切った瞬間、心臓が一回だけ強く鳴った。肩が硬くなる。胸が勝手に浅く上下して、息がうるさい。
返ってきた声は淡々としていた。
『あの娘に素養はあった。だが導くには私に力が残っていなかった』
『境界の隙間を門として開けることしか出来なかった』
『すべてはお前たちが自身で行動し、崩壊から救った。だから礼を言う』
計画じゃない。導きじゃない。門を「開けただけ」。
その事実が、背中に冷たい汗を作った。俺の喉がきゅっと締まって、声が擦れる。
俺たちが封印地に入り、崩壊核に辿り着き、止められたのは――偶然に近い。少しでも遅れていたら。俺が逃げていたら。リヴが踏み出せなかったら。
「……今さら、怖いな」
声が勝手に漏れた。言いたくないのに、口が先に動く。
『崩壊核の修正は数百年程度で完了するだろう』
『もう境界の門を維持する理由もなくなった』
数百年、という単語が宙に浮いて、すぐ落ちてこない。けど、その次が落ちた。
維持しない。
行き来が、終わる。
俺は足を出していた。床も距離も曖昧なのに、前へ出るしかなかった。手が空気を掴んで、掴めなくて、指が空を切る。
「待ってくれ」
声が裏返りそうになって、俺は喉を押さえたくなる。
「リヴをあの世界に連れて戻るくらいはさせてくれないか。行き来を完全に止めるのは――」
『……境界の門を開けておくのは危険だ』
硬さが落ちてくる。叱ってるんじゃない。ただ、そういう仕様だと告げてくる硬さ。
俺は唇の裏を噛んだ。言い返す言葉が見つからないのが悔しい。
『そこで、これを渡そう』
白い空間に光が生まれた。丸く結んで、形を持って――次の瞬間、俺の目の前に落ちてくる。
二つの指輪。
息が止まる。喉がきゅっと鳴って、音にならない。
「……俺が買った指輪だ。しかも、同じものが二つ?」
片方は俺の手元にあるはずの指輪。もう片方も同じ意匠で、同じ光沢で、同じ重さをしている。胸がざわつく。指が伸びかけて、途中で止まる。
『それを身に着けておけば、境界は開く』
『そしてお前たちも共に朽ちる』
「……物騒な言い方だな」
背筋に冷たいものが走った。でも意味は分かる。安全になるわけじゃない。断裂は残る。鍵があれば開く。代わりに、代償もついてくる。
俺は指輪から目を逸らさずに言った。
「通行証みたいなものか。……これをくれるってことは、行き来を認めるんだな」
『礼のようなものだ』
『境界の断裂は変わらぬ。気をつけよ』
「気をつけよ」が軽くない。首筋がじわっと熱くなる。
俺は一度、言葉を喉で転がしてから出した。
「ありがとう。まだ、どっちの世界でもやり残したことがある」
白がほんの一拍置く。
『崩壊核――お前たちが魔素喰いと呼ぶ残滓が残っているやもしれん』
『その時は頼んだぞ』
頼む。
命令よりずっと重い。俺は返事を探して、息だけが先に出た。逃げたくなる自分を、足裏で踏ん張って止める。
「……分かった。逃げない」
返した瞬間、白い光がいきなり近づいてくる。距離の概念がないのに、迫ってくる。逃げ場がない。
「おい、待っ――」
視界が、もう一度はぜた。
次の瞬間、俺はいつもの六畳間に立っていた。
テレビは黒い。ノイズも表示も消えている。部屋の匂いも、蛍光灯の白さも、全部「いつもの」まま。なのに胸だけが落ち着かない。鼓動が、さっきの白を引きずってる。
「ナオキ、どうしたの。ぼーっとして」
リヴが覗き込んでくる。翡翠色の目が近い。俺は一度瞬きをして、時計を見る。秒針は何事もなかったみたいに動いていた。
一瞬だった。夢の中に瞬きひとつ分だけ落ちたみたいな。
――手の中が重い。
見れば、俺は二つの指輪を握りしめていた。
反射でズボンのポケットに押し込む。動きが雑になると、リヴに当てられる。指先だけで押し込んで、手を引っ込めた。
「……今、世界樹に呼ばれてた」
リヴの目が大きくなる。息が止まって、それから短く戻る。
「世界樹。ナオキ、ひとり?」
「ああ。俺だけだった。崩壊を止めた礼だって言われた」
言いながら、ポケットの中の硬さを意識しないようにする。鍵でもある。厄ネタでもある。何より厄介なのは、これが結婚指輪ってことだ。プロポーズ未遂の男が二つ持つには、破壊力が強すぎる。
「メンテは終わった。たぶん今日だ」
リヴは胸に手を当てて、肩の力を少し抜いた。安心と怖さが混ざった顔のまま、俺の口元を見てくる。
「むこう、静か? こわい、へった?」
「完全には分からない。でも、世界が崩壊するレベルの危機は、いったん止まったって言ってた」
リヴの喉が小さく鳴った。俺は頷いて、次にやることを口にする。考えるより先に、手順を決めないと崩れる。
「美咲先輩に連絡する」
スマホを取り出してメッセージアプリを開く。指が震えないよう、文字をゆっくり打った。
『世界樹のメンテが終わったようです。詳しくは会ってから話しましょう』
送信。
既読がつくまでの数秒が、妙に長い。ポケットの中の指輪が、呼吸のたびに存在を主張してくる。俺はスマホを握り直して、掌の感触で現実を固定した。
その日の夕方。駅前のカフェで、美咲先輩と向かい合った。
「世界樹のメンテ、終わったって……本当?」
先輩はまだ半信半疑の顔をしている。俺はコップの水に指先を触れて、冷たさを確かめてから頷いた。
「本当です。世界樹に呼ばれました。崩壊核は隔離できたって」
「隔離、って……そんな軽く言われても困るんだけど」
先輩の指がコップを強く握る。関節が白い。視線だけが落ち着かない。
「でも終わったなら、次は?」
「向こうに報告に行きます。残りがあるかもしれないって言われたし、黒い枝の件もある」
言い切ると、先輩の呼吸が一瞬止まった。止まってから、ゆっくり吐く。
「行くのね」
「行きます。……それで、先輩にも来てほしい」
「え。私が?」
「はい。向こうを見てほしい。今まで助けてもらったし、今さら置いていくのも嫌です」
先輩はすぐ答えなかった。コップの縁を指先でなぞって、少しだけ遠くを見る。考えるときの癖だ。
「有給……取れるかな」
「取ってください」
自分の声が強く出たのが分かって、俺は咳払いで誤魔化した。先輩は苦笑して、頷いた。
「分かった。行く。怖いけど……見届けたい。二人が背負ってるもの、私もちゃんと見る」
胸の奥の重りが少し落ちる。その勢いで、次の言葉が喉まで上がってきて止まった。
言うべきだ。ここで言わないと、ずっと言えなくなる。
俺は一度、指先を膝で押さえてから口を開く。
「……もうひとつ、お願いがあります」
「まだあるの?」
「あります」
先輩が目を細める。その沈黙の温度で腹が決まりかけたところで、先輩が先に刺した。
「ねえ、直輝くん」
本名で呼ばれると背筋が伸びる。俺は返事の代わりに顔を上げた。
「異世界でリヴちゃんと結婚式したいんでしょ。私に出席してほしい、って言いたいんでしょ」
心臓が跳ねた。コップがわずかに鳴って、俺は慌てて指を離した。
「……なんで分かったんですか」
「指輪まで買っておいて今更でしょ」
即答だった。先輩は少しだけ視線を逸らし、声を落とす。
「喜んで、って言いたいよ。すごく言いたい。でもさ」
視線が戻ってくる。逃げられない角度だ。
「プロポーズはしたの?」
俺は黙った。喉が鳴って、言葉が出ない。
先輩の眉が吊り上がる。
「……してないの?」
「……してないです」
「うそでしょ」
先輩は額に手を当てた。指先が強い。怒ってるのに、心配の方が先に出てる顔だ。
「私、どんな顔して式に行けばいいの。もし振られたらどうするのよ。異世界で気まずい空気、地獄じゃん」
「……振られない、って言い切る自信はないです。でも、逃げたままにしたくない」
「根拠が弱い」
短く刺される。先輩らしい。俺は口を閉じたまま、手のひらに爪を立てた。
先輩は息をひとつ吐いて、言葉を続ける。
「プロポーズはね、覚悟。言葉で相手の人生に踏み込むってこと。自分も引き返せなくなるってこと」
胸をトントン叩いてから、先輩は視線を泳がせた。
「で、ここから先は恋人もいない私が言うと自爆するんだけど」
「自爆って何ですか」
「する。もうしてる。ダメージが静かに来てる」
真顔で言うから、笑いかけた喉が乾いた。俺は咳払いで誤魔化して続きを待つ。
「でも言う。プロポーズもしてない男が、結婚式の段取りだけ進めてるのが腹立つから」
先輩が指を立てる。
「順番を守れ。まず言え。逃げるな」
「……すみません」
「謝るな。やれ」
短い命令が腹の底に落ちた。逃げ道が閉じた音がした気がして、俺は背筋を伸ばす。
「ちゃんとリヴちゃんに言いな。言葉にしなきゃ伝わってないのと同じ。向こうは向こうで怖いんでしょ?」
胸が熱くなる。怖いのは断られることだけじゃない。俺の言葉で、リヴの人生を決めてしまうことだ。
でも、決めてる。
俺は頷いた。今度は逃げないための頷きだ。
「……分かりました。ちゃんと言います」
「それでいい」
先輩はやっと笑って、肩の力を抜いた。
「よし。じゃあ私は、喜んで出席するって言える」
それから、わざとらしくため息をついて視線を天井にやった。
「いいなあ、異世界で結婚式。私もどっかに扉落ちてないかな。イケメン付きで」
「先輩、現実逃避してません?」
「してる」
即答だった。
俺は苦笑してスマホを握り直した。ポケットの中の硬さが、まだ消えない。
リヴに言う。向こうへ行く前に。
今度は逃げない。




