閑話:助手席は泣かない
メンテ五か月目の平日。
サロンを閉めたあと、俺は予約表じゃなくスマホのメモを見ていた。
【やること】
・港ルート確認
・通行証
・護衛
・――指輪
最後の一行だけ、字面が浮いてる。世界が崩壊しかけたとか、境界が呼吸するとか、そういう言葉と並べるな。場違いにもほどがある。
でも、場違いなものほど胸の奥に残る。消そうとしても指が止まる。画面の上で「――指輪」が、しつこく俺を見上げてくる。
スマホが震えた。
『今から寄れる? 明日の予定確認したい』
美咲さんだ。画面を見たまま一拍迷って、結局こう返してしまう。
『寄れます。あと、相談が一件あります』
送信した瞬間、心臓が一回だけ強く鳴った。相談、って言い方に逃げた。指輪って打てない。打った瞬間に現実になる気がして、喉の奥が引っかかる。
十分後、インターホン。
ドアを開けると美咲さんが立っていた。仕事帰りの顔なのに、目だけがいつもより鋭い。俺の顔のどこかが、もう答えを出してるらしい。
「お疲れ。……顔、どうしたの」
「どうもしてないです。たぶん」
「してる。今日は“してる日”」
やめろ。そうやって当てるな。口角だけ動かして誤魔化そうとして、見事に失敗した。
美咲さんは靴を揃えながら、部屋の中を一瞥した。テレビのほうは見ない。触れないまま距離だけ測る。分かってる人の動きだ。
「で、相談って?」
逃げ道を探して、見つからない。息を吸って、吐いて――言った。
「……宝飾店、付き合ってください」
美咲さんが止まった。止まってから、ゆっくり俺を見る。
「……へえ」
「へえ、じゃなくて」
「へえ、でしょ。今さら?」
「今しかないんです」
言い切ったくせに、指先が落ち着かない。俺は無駄にスマホの角を撫でて、やめるタイミングを失った。
美咲さんが口元を押さえて、笑いそうなのを堪える。
「相手は?」
「……聞かなくても分かるでしょう」
「一応ね。確認。あなた、変なところでズレるから」
ひどい。
「リヴです」
「うん。よし」
即断の「よし」だ。仕事で人を現場に立たせるときの声。胸の奥の重りが、ほんの少し軽くなる。
「一人で行けばいいじゃん」
「……サイズが必要で」
「測ったでしょ」
「……こっそりですけど」
「こっそり、ね」
笑ってない目が刺さる。俺は視線を逸らして、ソファの縫い目を見た。そこに逃げても状況は変わらないのに。
「正確なやつが欲しいんです。あと……」
「あと?」
喉の奥が鳴る。
「……俺が一人で行くと、変なの買いそうで」
「自覚あるんだ」
美咲さんが深く頷いた。頷きの圧が強い。
「じゃあ私が選ぶ。変なの買ったら刺す」
「怖いです。普通に」
「安心でしょ」
怖い。けど、確かに安心だ。そう思った瞬間が悔しくて、俺は鼻から短く息を抜いた。
車に乗り込む。運転席が美咲さん、助手席が俺。
美咲さんがシートベルトを引きながら、さらっと言う。
「助手席は泣かない」
「泣きませんよ。泣く要素がないです」
「泣くでしょ。値段見て」
「……やめてください。心の準備が折れます」
「泣いてもいいけど黙って泣く。声出すと店員さん困る」
人権が雑すぎる。笑いそうになって喉が詰まる。俺は咳払いで誤魔化して、窓の外へ目を逃がした。
道中、俺はスマホを確認する。リヴからのメッセージはない。今日は家で待ってるはずだ。
――バレるなよ。
心の中で唱えた瞬間、美咲さんがバックミラー越しにニヤっとした。
「なに、今の顔。悪いことしてる顔」
「してません。たぶん」
「してる。内緒のやつ」
「……内緒です。だから黙っててください」
「うん。守りなさい。バレたら台無し」
釘が強い。俺は黙って頷くしかなかった。頷いたぶんだけ肩が上がって、さらに見透かされる気がして腹が立つ。
宝飾店はモールの一角にあった。ガラスがきれいすぎて、自分の顔が映る。こういう場所は苦手だ。背筋が勝手に固まる。
入った瞬間、店員さんが笑顔で寄ってきた。
「いらっしゃいませ。本日は――」
視線が一瞬、俺と美咲さんの間を往復した。声のトーンが微妙に柔らかくなる。
「お二人でお探しでしょうか?」
俺は咳き込んだ。
「ち、違います」
「違うの?」
美咲さん、真顔で聞くな。そこで確認するな。
「違います! 俺、そういうのじゃ……」
店員さんが「失礼いたしました」と丁寧に頭を下げる。俺の顔が熱い。耳まで熱い。
美咲さんが肩を震わせながら、小声で言った。
「直輝くん、可愛いね」
「やめてください。今の俺、死にかけです」
「ごめんごめん。……で、婚約? 結婚?」
店員さんが話を戻してくれる。プロだ。救われる。俺は呼吸を整えるふりをして、胸の鼓動を落とした。
「……婚約のほうです」
「ありがとうございます。では、シンプルなものからご案内しますね」
ケースの中の光が眩しい。小さいのに、全部が決断みたいに光ってる。指先に汗が滲むのが分かって、俺は手を握って開いて、また握った。
俺が黙ると、美咲さんが代わりに口を開いた。
「彼、派手なの似合わないです。本人も疲れるタイプです」
「……否定できないです。疲れます」
「こちらはいかがでしょう。細身で、石も控えめですが――」
トレーに二つ並ぶ。美咲さんは一度だけ目を細めて、すぐ言った。
「うん。いい。直輝くん、こういうの。素材は?」
「プラチナです」
「よし。変色しにくい。長持ちする」
生活目線が強い。頼もしいけどロマンが死ぬ。俺は笑いを飲み込んで、舌を噛んだ。
美咲さんがふっと声を落とす。
「石、いる?」
「……小さくていいです。目立たないやつで」
「うん。分かる。リヴちゃん、目立つの嫌がるもんね。耳もあるし」
“耳”って単語が落ちた瞬間、店の空気が一段だけ現実に戻る。俺は息を吸って、指輪を指先でつまんだ。
軽い。軽いのに、手が勝手に慎重になる。落としたら壊れるとかじゃない。俺のほうが壊れる。
店員さんが続ける。
「こちらは在庫がございます。サイズ調整は後日でも可能ですが、当日お持ち帰りいただけます」
持ち帰り。
今日ここで、手に入る。喉が鳴って、声が出ない。
美咲さんが俺の顔を見て、口元だけ上げる。
「直輝くん。逃げ道、減ったね」
「……減らしてください。俺、一回逃げると戻れないタイプなんで」
「よし。じゃあ減らす」
強い。迷ってる余裕が削られるのが怖いのに、助かる。俺は拳を膝の上で固めて、手が勝手に動かないように押さえた。
「刻印は内側に入れられます。内容はいかがなさいますか?」
店員さんの笑顔が優しい。優しすぎて、逆に怖い。
俺は一瞬だけ詰まって、それでも言った。言わないと終わる。
「……『帰る』で」
美咲さんは笑わない。代わりに、小さく頷いた。
「いい。直輝くんらしい」
店員さんも表情を柔らかくした。
「承りました。刻印は後日仕上げもできますが、今回は“後から入れる”形にしておきますか? 今すぐお持ち帰りいただけるように」
美咲さんが即答する。
「それで。今日、持って帰るのが最優先」
「了解いたしました」
俺が口を開く前に決まっていく。助手席どころか、人生の人権まで雑になってきた気がする。
問題はサイズだった。
「お相手さまのサイズはお分かりですか?」
店員さんがにこやかに聞く。俺の喉が固まる。
固まるより早く、美咲さんが言う。
「だいたい分かってます。誤差があるので後で直す前提で」
「かしこまりました。こちら、サイズ直しは無料で――」
無料。神か。俺は小さく息を吐いて、危うく拝みかけた。
店員さんがリングゲージを出してくる。
「もし可能でしたら、ご自宅で“正確なサイズ”を確認されてからお直しにお持ちください。リングゲージは貸し出しもできます」
美咲さんがにっこりした。
「借ります」
「えっ」
俺の声が変に裏返る。
「借ります。返却期限は?」
「一週間です」
「十分」
十分なのかよ。俺は唇を噛んだまま、店員さんの手元を見るしかない。書類が用意されていくスピードが早い。美咲さんの圧が強い。
店員さんが小声で聞いてきた。
「……あの、彼女さまに内緒で?」
美咲さんも小声で返す。
「内緒です。彼、バレたら死ぬので」
「死にません! ……いや、死ぬかもしれませんけど!」
即ツッコミしたら、店員さんが吹いて慌てて口を押さえた。やめてほしい。なのに、その一瞬だけ空気が軽くなって、救われたのが悔しい。
会計が終わる。
小さな箱。きっちりしたリボン。受け取った瞬間、手のひらが熱くなる。重さは変わらないのに、指が勝手に丸くなった。
これ、もう物じゃない。約束の固まりだ。
美咲さんが俺の横で、さらっと言う。
「……よし。持ったね」
「……持ちました。もう戻れないやつです」
「じゃあ次。隠し場所」
「今決めるんですか。帰ってからで――」
「今。帰ってから迷うと顔に出る」
怖い。俺は頬の筋肉が引きつるのを自覚して、視線だけ落とした。
「……引き出しの奥で」
「テレビの近くはダメ。反射で開ける」
「言い方が怖いです」
「事実」
美咲さんが小さく息を吐く。吐き方が“命令終了”のやつだ。
「鞄の内ポケット。鍵つけるやつ。そこ。帰ったらすぐ入れる」
「……分かりました。そこに入れます」
「返事、仕事」
「はい」
俺が頷くと、美咲さんも一回だけ頷いた。そこでやっと、胸の奥が少し落ち着く。
店を出てモールの通路に出た瞬間、空気が普通になる。現実の音がうるさい。眩しさが目に刺さる。俺は紙袋を抱えるように持ち替えた。
紙袋の中でリングゲージが、ちん、と鳴った。もう一つの袋の中で、指輪の箱は動かないように固定されている。
持ってる。本当に持ってる。
美咲さんが歩きながら言う。
「直輝くん、泣く?」
「泣きません。まだ耐えてます」
「人生の助手席は泣かない」
意味が分からないのに、少しだけ救われる。その感覚が腹立つ。俺は鼻から短く息を抜いた。
「……リヴには、まだ言いません」
「言わない。見せない。匂わせない」
「匂わせない、了解です。俺、顔に出るんで」
「出る。今日の笑い方、全部アウト」
「……厳しいです」
「優しい。だって成功させたいでしょ」
その“成功”が、妙にまっすぐで胸に刺さった。俺は小さく頷く。喉の奥が熱い。
「……はい。成功させたいです」
帰りの車内。俺は紙袋を膝に乗せたまま、ずっと動かさない。落とすのが怖いんじゃない。自分が軽く扱ってしまうのが怖い。
「直輝くん」
「はい。聞いてます」
「それ、軽いけど重いでしょ」
「……重いです。変に手が震えます」
「じゃあ、ルールにしな」
「ルール、増やしますか」
「今日から一週間。リヴちゃんの前でテレビを見ない。反射で顔がそっち向くから」
俺は息を吸って、短く吐いた。
「……やります。今日から徹底します」
「よし。あと、リングゲージの使い方。私が教える。雑にやるとバレる」
「バレたら死ぬんですよね」
「死ぬ。社会的に」
「やめてください。心臓に悪いです」
美咲さんが笑う。俺も口元だけで笑った。笑えるうちに決める。やる。拳の力を、少しだけ抜く。
家の前に着いて、俺は紙袋を握り直した。ぎゅっとじゃない。落とさないように確かめるだけ。
鍵を開ける前に、美咲さんが最後に言う。
「直輝くん」
「はい」
「おめでとう。まだ渡してないけど、今日のこれは――大事な一歩」
息が詰まりそうで、俺は短く返す。
「……ありがとうございます。ちゃんとやります」
「お礼は後。あと、助手席は泣かない」
最後までそれか。俺は小さく頷いて、ドアノブを回した。
紙袋の中の箱は音を立てない。
それでも胸の中は、ずっと鳴っていた。
静かに、うるさく。
“帰る”って言葉みたいに。




