境界、再起動
メンテ開始から、ちょうど六か月。
目を開ける前から、今日は違うと分かっていた。部屋の空気が重い。湿気じゃない。見えない何かに、じりじり押される――あの嫌な感覚だ。
布団の中で一度だけ深く息を吸って、吐き出す。肺の奥が冷えて、指先が少しだけ動いた。
起きる。
迷う前に体を起こす。それが、この半年で身につけた最初のルールだった。
机に向かい、紙束を揃える。手書きの地図。通行証。港Aの周辺情報。潮待ちの予測。食料の残数、水のストック、ライトの電池。この半年で増えた「やること/やらないこと」のリスト。
いちばん上、太字で書いたやつ。
――テレビには近づかない。触らない。覗き込まない。
――異変はすべて書き残す。
――一人で判断しない。
読み返して、俺は鼻で笑った。書いたのは俺なのに、俺がいちばん守れない予感がしてる。
キッチンではリヴが小さなおにぎりを握っていた。形は不格好。でも、確かに温かい。
「ナオキ」
「……分かってる」
「え。まだ何も言ってない」
「顔がもう“言ってる”んだよ」
リヴはむっとした。むっとしたまま、それでも真剣な目でこっちを見る。
「きょう、メンテ、おわる」
「やっぱりな」
「ナオキ、“やっぱり”って言うとき、声がこわい」
喉の奥が固まった。自分でも分かるくらい息が浅い。
「……俺の声、変か?」
「変。固い。石みたい。肩も、すごく固い」
「お前、そういうの見抜くの早くなったな。整体師の弟子にでもなるか?」
「見る。ちゃんと。ナオキが倒れたら、リヴ、こまる」
断定が胸に落ちて、喉の奥が一瞬だけ熱くなる。言い返す言葉が、すぐには出なかった。
「根拠は?」
「空気、入れかわる。あっちの冷たいのが……くる。あと、あっち、動く」
「動くって、どのへんが」
「音の場所。遠いのに、耳のすぐ横。……ざわざわ、する」
指を止めると、余計に聞こえる気がした。俺はわざと紙束の端を整える。
「意味分からん……けど、分かっちまうのが嫌だな」
「……ナオキも、わかってる顔」
リヴはパーカーのフードを深くかぶった。家の中なのに。
「耳、かくすのか」
「また、って言いたい?」
「いや、いい判断だ」
「今日は、いっぱい入ってくる。声、風、匂い。耳、痛い」
その「痛い」が、軽くない音で落ちた。俺は奥歯を噛んでから、声をなるべく平らにする。
「痛いなら無理すんな。防音のヘッドホンでも持ってくるか?」
「無理しない。距離、とる。それが一番の防音」
「よし。距離な。絶対にだぞ」
俺はやることだけをやる。歯を磨いて、顔を洗って、着替える。
スマホ。バッテリーは100。空き容量もある。録画アプリはホームの一番下。日付表示もオン。
リヴが、おにぎりを差し出してくる。
「食べて。お腹すくと、負ける」
「負けるって何にだよ」
「引っぱられる。こわいの、心の中に増える。お腹いっぱいなら、重くなる。動かない」
言い方が妙に具体的で、笑いかけた口が途中で止まる。
「……的確すぎてぐうの音も出ないな」
「いつも、リヴ、正しい」
「そうだな。俺、空腹だと判断が雑になる」
「雑、だめ。死ぬ」
「分かったよ。食うよ」
受け取って口に入れる。塩が強い。喉が渇く。けど今の俺には、この刺激がありがたい。現実の味が、頭の奥を引っ張ってくれる。
「塩、ちょっと多くないか?」
「きょう、汗、いっぱい出る。たぶん」
「出ない方がいいんだけどな……」
「でも出る。ナオキ、緊張すると、いつも汗でる」
「……それは否定できないな」
水を飲む。コンロのつまみ、よし。玄関の鍵、二重、よし。いつも通りの確認。
これでいい、と言い聞かせながら靴を履く。ドアノブに手をかけたところで――リヴの動きが止まった。
息が止まるほど、ぴたりと。
「……いま」
俺の喉が先に鳴る。
「来たか」
「くる。テレビ、起きた」
心臓が肋骨を叩く。でも、ここで動きが雑になったら全部崩れる。手を離すな、と自分に言い聞かせる。
「リヴ、下がれ。廊下だ」
「わかる。ここにいる。ナオキ、前、いかない?」
返事の前に、視線が勝手にリビングへ向きかけた。俺はそれを噛み潰す。
「……言っとく。俺、見に行きたくなる自信がある」
「知ってる」
「だから、止めてくれ」
「止める。怒る。思いっきり、叩く」
「叩くのはやめてくれ」
「やめない。痛い方が、正気、もどる」
冗談みたいなやり取りなのに、背中が少しだけ軽くなる。乾いた喉で息をひとつ吸って、吐く。
俺はリビングへ二歩だけ入る。床の養生テープが見える。半年前の反省が生んだ境界ライン。
「線、見てるか?」
廊下からリヴの声が飛ぶ。
「見てる。踏まない」
「踏まない。約束、だよ」
「……ああ。今は“決めたこと”を守る」
「決めたこと。踏まない。ナオキ、いま、線から、あと、十センチ」
「細けえな。分かってるよ」
32型のテレビは、いつもの台の上で沈黙している。電源は切ってある。コンセントは刺さっているが、リモコンには触れてもいない。
それなのに、右下のランプが白い。
赤じゃない。点滅もしない。透き通るような白で固定されている。
「来てるな……」
「白、きらい。冷たい」
「俺もだ。待機の赤のほうが、まだ機械っぽくてマシだった」
「赤は“寝てる”。白は“起きてる”。……こっち、見てる」
背中がぞわっとした。言い方が、変に当たる。
「……言い方が怖すぎるんだよ」
「怖いけど、ほんとのこと」
俺はスマホを掲げた。録画開始。ズームはしない。画面というフィルター越しに世界を見る。
「ナオキ、スマホ越しに見てる?」
「ああ」
「目、吸われない?」
「吸われそうになったら、一回画面から目を逸らして床を見る」
「床、木目、数える?」
「そう。木目を数える」
「リヴは?」
「リヴ、耳で見てる。目は、あわせない。あわせると、呼ばれる」
「器用だな」
「生きる、ため。みんな、そうしてた」
次だ。美咲さんへの連絡。迷ってる間に何かが起きる。
『メンテ終了の兆候。ランプ白固定。録画しながら距離維持。美咲さん、今からです』
送信。
「送った?」
「送った。……既読はまだ付かない」
「朝、だもんね」
俺はスマホの画面から目を離し、テレビに戻す。白いランプが視界に刺さって、奥歯が噛み合う。
「ああ。でも、あの人ならすぐ気づくはずだ」
「来る?」
「来る。……足音がしたら、俺がまず止める」
「うん。来て。三人で、いないと、こわい」
廊下のリヴの声が鋭くなる。
「ナオキ! 前、いかない!」
「分かってる! この線からは一歩も出ない!」
「“出ない”じゃなくて、“出られない”って思って!」
俺は息を吐いて、足裏に力を入れる。
「……そうだな。出られない」
「うん。行けない。こっちが大事」
その瞬間、テレビが勝手に起動した。
家電特有の電子音じゃない。地響きに近い、低い「……ン」。
「うわ……点いた」
「音、いや。お腹に、響く」
胃の底が持ち上がる。俺は踏みしめるように、境界線の手前で止まったまま声を出す。
「俺もだ。これ、スピーカーの音じゃないな」
「起きる音。向こうの世界が、目をさます音」
画面に、無機質な文字が浮かび上がる。
【WORLD TREE / MAINTENANCE】
STATUS:COMPLETE
PORTAL:REBOOTING
「……ただの安物なんだぞ、これ。ネットも繋いでないのに」
「英語」
「ああ。うちのテレビ、英語設定になんてしてない」
「じゃ、テレビがしゃべってるんじゃない」
「……だろうな」
入力切替のフォントとも違う。“画面の上に載ってる文字”じゃない。窓の向こう側に、文字が存在してるように見える。
廊下でリヴが息を呑んだ。
「『おわり』って、書いてあるの?」
「ああ。メンテ終了。……で、再起動中、だと」
「再起動って、なに。もう一回、はじめるの?」
「一回眠らせて、また起こす作業だ」
「じゃあ、いま、起きる途中なんだね」
「ああ。……途中か」
「途中、いちばん、ぐちゃぐちゃ。危ない」
リヴの声が、ほんの少し震える。俺は自分の親指の腹を強く押して、現実を掴む。
「……リヴ、それ経験談か?」
「うん。村のポータル、壊れたとき。途中が、一番こわかった」
表示が切り替わる。
PORTAL CHECK 1/4……OK
AUDIO……OK
AIRFLOW……OK
ANCHOR……OK
「アンカー……錨か」
「いかり?」
「船が流されないように止めるやつだ」
「止める、いるね。こっちに、ぎゅって、つかまるやつ」
「だな。こっちの世界に固定するための何かだ」
アンカーの文字が出た瞬間、棚の奥の箱に入れた“あの石”が重くなった気がした。
触らない。確認もしない。今は、この場を動かないのが仕事だ。
廊下から、小声で釘が刺さる。
「ナオキ、いま、箱のこと、考えた?」
「……なんで分かるんだよ」
「空気が、動いた。考えちゃダメ。考えると、手がうごく」
俺は片手を自分の太ももに押し付けた。動かすな。勝手に伸ばすな。
「出さない。絶対に出さない。だから、もし俺が動きそうになったら言ってくれ」
「言う。怒る。叩く」
「叩くのは一回にしてくれ」
「やだ。正気もどるまで叩く」
次。
PORTAL CHECK 2/4……OK
VISUAL……OK
STABILITY……50%
「数字、出た。半分だ」
「安定度、ってことだろうな」
「半分は、いいの? 悪いの?」
答える前に、舌が乾いているのが分かった。
「全開で不安定よりはマシだと思いたいけど……半分はどっちつかずで一番気味が悪い」
「ナオキ、楽観、へた」
「整体師は最悪のケースを考えるもんなんだよ」
数字が出た直後、部屋の空気が鳴った。
――ザ、――ザザッ……。
「波……?」
「波の音だ」
スピーカーからじゃない。床の下から這い上がってくるような音。潮の匂いが、六畳間の空気を塗り替えていく。
膝が笑いそうになるのを、テープのラインを睨みつけて堪える。
「近づくな、俺。寄るなよ」
「ナオキ、声、もっと出して。自分の耳に、きかせて」
「何を言えばいい」
「“踏まない”って、三回」
俺は息を吸って、吐く勢いのまま言う。
「……踏まない。踏まない。絶対に踏まない」
「よし。いまの、いい声。リヴも、言ったから」
背中に、リヴの声が当たる。俺はそのまま、テープの線だけを見た。
画面の中央に、光の縦線が走る。左右がゆっくり捲れていく。
裂け目だ。
「来た」
「ああ、来たな」
「ねえ、線、どんどん広がる。テレビ、こわれそう」
「壊れて済むならいいんだけどな。……くそ、向こうが見える」
「見る、でも前いかない! 絶対!」
「分かってる! 視線だけだ!」
視界の端で、縦線が広がる。引っ張られる感覚が、目の奥に触れた。
「ナオキ、目が、吸いこまれてる! 木目! 足元の木目見て!」
「ああ……っ、木目、三枚目、節目がある……。よし。大丈夫だ」
奥に色が見える。深い森の緑。湿った地面。光を反射する葉。
向こう側の湿った空気が、風として部屋に流れ込む。
「……むこう、誰かいるよ」
「魔物か?」
「わかんない。でも、誰かの視線がある。あっちも、こっちを見てる。見にいっちゃダメ。見にいったら、あっちのものになる」
俺は一度だけ瞬きをして、スマホの枠を確かめる。
「分かった。見にいかない。ここで待つ」
「約束……ううん、“決めたこと”」
「そう。決めたことだ。一歩も引かないし、一歩も出ない」
時刻、07:12。
俺は録画を続けたまま、震える指で異変を書き留める。
――――――
【記録】
07:12 メンテ終了表示。テレビ起動。
波音、潮の匂い、画面に裂け目。
距離維持。録画中。美咲さん連絡済み。
――――――
「書いたぞ」
「えらい。ナオキ、ちゃんとしてる」
「褒めるな。必死なんだよ」
「褒める。必要。リヴも、自分を褒めてる。立ってる、えらいって」
俺は鼻から息を抜いて、足裏にもう一度力を入れた。
「……そうだな。俺たち、ちゃんと立ってるな」
スマホが震えた。美咲さんだ。
『今から行く! 絶対に入るな! 録画だけして距離を保て。火元、鍵、全部もう一度見ろ!』
「了解! ……リヴ、聞いたか」
「聞いた。声、聞こえた気がする」
俺は短く頷いて、順番を守る。
「よし、現実確認だ。火元」
「ない。見てきた。大丈夫」
「鍵」
「二重。いまも、かかってる」
「よし。……よし」
「ナオキ、現実、さわって」
「……ああ。この壁、冷たいな。よし」
もう一度、スマホ越しに画面を睨む。
STABILITY……60%
MANUAL ENTRY:LOCKED
「……ロック、か。勝手には入れないようになってるみたいだ」
「入れない。……よかった?」
俺の息が、やっと胸まで落ちた。
「……正直、めちゃくちゃホッとしてる」
「ナオキ、さっき、ちょっとだけ入ろうとしてた」
「してねえよ」
「してた。膝、まがってた」
言い返すより先に、自分の膝に意識がいく。確かに、ほんの少し。
「……してたかもしれない。でも、この『LOCKED』って文字が、俺を止めてくれた」
「ロック、えらい。いい子」
「ロックをいい子呼ばわりするのは世界でお前だけだよ」
裂け目は鼓動みたいに広がったり縮んだりを繰り返している。近い。遠い。近い。目の奥がじりじり疲れる。
「ナオキ、行く?」
廊下の影から、リヴの声がまっすぐ飛ぶ。言葉の端が少しだけ尖っている。
「今すぐは行かない」
「……どうして? あんなに、準備したのに」
俺は紙束を見た。合流場所も、合図も、まだ空白が多い。
「帰り道がまだ足りないんだよ。あっちでの合流場所も、連絡手段も、何も確定してない。ただ飛び込むのは、整体師の仕事じゃない」
「三人?」
「ああ。美咲さんもまだだ。三人で決めて、三人でいく」
「筋肉にいい?」
「筋肉にいい」
「筋肉、かんけいない」
「いや、ある。納得してないと、力が出ない」
リヴが一拍置く。その間に、裂け目の向こうの風が強くなる。
「……ふうん。じゃあ、筋肉のために、待つ」
「そうしてくれ」
俺は紙束の上に、新しい一行を強く書き足した。
【最終ルール】
――扉が開いても、独断で入らない。判断は三人でする。
「書いたぞ」
「うん。リヴも見た。こころに、書いた」
「……お前、たまにカッコいいこと言うな」
「ナオキ、たまに、だめなこと言うから。バランス」
リヴが少しだけ笑った。つられて笑いかけた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。笑えるうちに、やることをやる。
「ナオキ、ちゃんと、こっちにいる」
「ああ。やらかさないように、お前が叩いてくれるからな」
「うん。準備、できてるよ」
そのとき、テレビのスピーカーじゃない場所から、低い声のようなものが混じった。
言葉じゃない。
けれど、明確に「こちら」を呼ぶ響き。
俺は反射で唇を噛んだ。視線が一歩だけ前へ出そうになる。
「……来たな」
「聞こえた。あっちが、呼んでる」
「誘いだ。無視しろ」
「うん。無視する。ナオキ、もし“早く行かなきゃ”って思ったら?」
「すぐに言う。お前も言え。隠すのが一番危ない」
「言う。……ナオキ、いま、ちょっと、行かなきゃって思った」
「早いな! よし、俺も今、ちょっとだけ思った。お相子だ」
「おあいこ。……ふふ。おあいこ、なら、大丈夫」
裂け目の向こうで、森の影がわずかに揺れた。向こう側も、こちらを伺っている誰かがいる。
リヴの目が翡翠色に鋭く光る。
「……いる。あっちで、待ってる」
「待たせておけ。俺たちは、俺たちの手順でいく」
「うん。待たせる。リヴたち、いま、おにぎり食べたばっかりだし」
「そうだな。腹ごしらえは済んでる」
俺は境界ラインに、足の裏を強く押し付けた。踏まない。踏まない。踏まない。胸の奥で三回、同じ言葉を繰り返す。
境界は再起動した。32型のポータルは、大きく口を開けて俺たちを誘っている。
それでも、俺は息を揃えて言った。声が震えないように、短く。
「美咲さんが来るまで、俺はここを動かない。……いいな、リヴ」
「いいよ。リヴも、動かない。叩く準備、できてる」
「……頼りにしてるよ」
外の廊下から、階段を激しく駆け上がる足音が響いてきた。
重くて、力強くて、一切の迷いがない。
美咲さんの足音だ。
その騒がしい現実の音が、今の俺たちには、どんな音楽よりも安心できるものだった。




