潮待ちの部屋
メンテが始まって、五か月。
――といっても、世界がひっくり返ったわけじゃない。
ただ、テレビが映らない。境界の近くで、たまにおかしな反応がある。そんな変なことが「ある前提」で、俺たちの生活が回るようになった。それだけだ。
朝が来て、シャッターを上げて、常連に捕まって、帰ったら飯を食う。文字にすると笑えるくらい普通で、だから余計に助かってる。
冬の入り口みたいな乾いた朝だった。
店の前でシャッターの取っ手を握る。鉄が指先に刺さるくらい冷たい。吐いた息が白く濁って、すぐ薄くほどけた。
「……よっこいしょ」
腰を入れた、その瞬間。
背中に弾む声がぶつかってきた。
「おはよー、直輝くん! 今日の腰の入れ方、いいねえ。ちゃんと現役!」
振り返らなくても分かる。田中さんだ。朝の元気をひとりで全部持っていくタイプの人で、俺の開店時間を散歩のチェックポイントにしてる。
「おはようございます。……現役って、何の現役ですか」
取っ手から手を離さないまま言うと、田中さんは笑い声を噴き上げた。
「あら、だって閉まってた頃はね、冬眠中だったよ。顔が」
「顔で判断しないでください」
「してないわよ。事実を述べてるだけ。ねえ、山本さん?」
そこへ、狙い澄ました追撃が飛んできた。
「田中さん、抜け駆け禁止! 直輝くんの第一声は私が取る予定だったんだから」
「山本さんまで……第一声とか、そんな価値あるもんじゃないですよ。ただの挨拶です」
肩をすくめると、山本さんが胸を張った。いつもより少し前のめりだ。
「あるの。それが私たちの健康診断なのよ。直輝くんの声に張りがある日は、私たちの腰も軽くなるんだから」
「根拠が雑すぎませんか」
二人はケラケラ笑いながら、まだ準備中の店内に当たり前みたいに入り込んでいく。受付の予約表を覗き込むのもセットだ。ここ数か月でできた、朝のルーチン。
「午前二件、午後二件……お、戻ってきたじゃん。数字が」
「戻ってきたって、ずっと店にはいましたよ」
奥の灯りを点けると、田中さんが「いたはいた」と手をひらひら振った。
「“いた”はいた。でも魂が半分いなかったわよ。どっか遠いところに行っちゃってさ」
「魂って……大げさですよ」
「大げさじゃない。だってここ、私たちの『整う場所』だもん。閉まってると落ち着かないのよ」
整う場所。
その言葉がくすぐったいのに、嫌じゃないのが困る。俺は目を逸らして、タオルの棚を確認するふりをした。
「……何回も言わなくていいですから。仕事しますよ」
「いいの。大事なことは何回でも言うの」
田中さんが、俺の顔を覗き込む。
「直輝くん、すぐ自分を小さくして、存在感消そうとする顔するから」
「だから顔で決めないでくださいって!」
朝から会話が跳ねる。跳ねすぎて、正直ちょっと疲れる。けど、この騒がしさがあると境界のことや変なログが頭の外へ押し出されるのも事実で――俺は結局、笑いながら準備を進めた。
仕事が始まれば、俺は淡々と手を動かす。
呼吸に合わせて、指先に重みを乗せる。筋肉の固さを丁寧にほどく。生活の癖って、触るとすぐ分かる。凝り方は、その人の「毎日」そのものだ。
施術が中盤に差し掛かった頃、うつ伏せの田中さんがぽつりと言った。
「ねえ、直輝くん。今日、手があったかい」
「冬ですから。お湯、ちゃんと使ってますし……温めてから入るの、マナーですからね」
「それじゃないのよ」
田中さんの声が、少しだけ落ちる。枕に頬を押しつけたまま、言葉を探す間があった。
「なんていうか……ちゃんと人間の熱がする」
「褒めてます?」
手を止めずに返すと、田中さんが小さく笑った。
「褒めてる褒めてる。前はちょっと……『ひんやり安心』だったのよ。深海魚とか、そういう静かな生き物っぽかった」
「それ、褒め方として合ってますか?」
仕切りの向こう、隣のベッドで待機している山本さんの声が飛ぶ。
「ほら、家で温めてもらってるんじゃないの? 愛の力的なやつで」
喉の奥が一瞬だけ乾いた。指先の圧は崩さない。
「……ノーコメントで」
山本さんが勝ち誇ったみたいに言った。
「はい、図星!」
「図星だねー! 今の間、聞いた?」
「ちょっと! サロンで俺の私生活を勝手に確定させないでください!」
二人がゲラゲラ笑う。俺も結局、堪えきれずに負けて笑ってしまった。悔しいのに、喉の奥に残る熱が消えない。
午後まできっちり回して、最後の客を見送る。
シャッターを下ろすガガガ、という金属音が「今日も終わり」の合図になってる。それが、ほんの少しだけ好きだ。音が鳴ったぶん、ちゃんと今日を終えられた気がする。
帰り道。
気づけばスマホのメモを開いていた。もはや呪いみたいな癖だ。
異音の回数。時間帯。条件。
今日の欄は――空白。
空白のまま画面を閉じると、肩の力が抜けた。足取りが軽くなるのが、自分でも分かる。
アパートの階段を上がると、廊下まで味噌と出汁の匂いが届いてきた。
「……うちだな」
鍵を開ける。
「ただいま」
声が出たことに、俺が一瞬だけ驚く。前は、帰っても言わなかった。誰もいない部屋に向かって言う意味なんて、なかったから。
「おかえり!」
キッチンからリヴが顔を出した。
エプロンの紐がちょっと斜め。髪はまとめたつもりなんだろうけど、左側だけ盛大に跳ねている。手には、なぜか勇ましくお玉。
「ナオキ! て、あらう!」
「分かった分かった。すぐ洗うから」
「はやい! えらい!」
褒め方が直球すぎて、笑いが漏れる。
手を洗って戻ると、テーブルにマグカップが二つ並んでいた。俺の黒い無地と、青いイルカ柄。
「それ、まだイルカ使ってるのか」
「うん。イルカ、いい。わらってる」
「飽きないな」
「飽きない。海、いる。……でも、ここにもいる」
「ここにも?」
椅子を引きながら聞くと、リヴはイルカのマグを両手で包んで、指先を少しだけぎゅっとした。
「うん。ここ、いる。ナオキ、いる。リヴ、いる。いっしょ」
言い方が妙にまっすぐで、俺は完全に負けた。視線を落として、誤魔化すみたいに箸を取る。
鍋の蓋が開く。湯気が天井へ抜けて、部屋が一気に柔らかくなる。
「みそ。さかな。やさい。あと、ごはん!」
「……完璧に家庭の飯だな。定食屋出せるぞ」
「ごかげつ!」
「そこ胸張って威張るの、かわいいからやめろ」
「やめない」
言い切って、リヴはせっせとご飯をよそう。背伸びして茶碗を置く姿に、俺は勝手に息を吐いた。……戻ってきたな、と。
食べながら、今日の仕事の話をする。深海魚だと言われたこと。図星だと言われたこと。勝手に誰かがいることにされていること。
リヴは「しんかいぎょ?」と首をかしげて、それでも楽しそうに笑って聞いている。笑うたび、跳ねた髪がふわっと揺れる。
「常連が相変わらずうるさかった。俺の顔を診断するなっつーの」
「うるさい、いい。待ってた、でしょ」
箸を止めずに言う。声は軽いのに、目だけは逃げない。
「……なんで分かるんだ」
「リヴも、待つ、わかる。ナオキ、朝いく。リヴ、まつ。ナオキ、もどる……もどる場所、いい」
イルカのマグを持ち上げて、リヴが小さく息を吐く。
「ナオキ、戻る場所、ある」
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。重いのに、あったかい。俺は茶碗の縁を指でなぞって、目線を逸らしたまま返す。
「……その理屈で言うと、お前もここが戻る場所か」
「うん」
即答。迷いがないのが少しだけ怖い。でも、その怖さを引きずらないのが、今の俺たちのやり方だ。
片付けが終わって、俺がいつものように机に向かうと、リヴがソファからひょこっと覗き込んだ。
「ナオキ、今日はもんだい、ない?」
「ああ。今日も異常なしだ」
「よかった」
その「よかった」があるだけで、この部屋がちゃんと部屋になる。俺はメモ帳を開いて、やるべきことを整理する。港のことや検問のこと。……でも、書きすぎない。生活のほうを優先する。
引き出しの隅に、「リング」と書いた封筒が見える。
手は伸びかける。けど途中で止めた。順番がある。まだ、その時じゃない。
「ナオキ」
背後からリヴの声が落ちる。
「顔、かたい」
「今日だけで何回目だ、それ。田中さんと打ち合わせしたのか?」
振り向かずに言うと、リヴは一拍置いてから、言い直すみたいに口を動かした。
「顔、だいじ。ナオキ、いま、ちょっと……『うみ』」
「……考えごとしてただけだよ」
「じゃあ、もどす。ココア、のむ?」
「……戻し方が上手いな、お前」
リヴがキッチンへ小走りに行く。粉を練って、お湯を注いで、スプーンで回す音が一定のリズムで響いた。
甘い匂いが鼻に入った瞬間、張り詰めていた肩がすっと落ちる。自分でも分かるくらい、分かりやすい。
「……うまい」
「でしょ!」
ドヤ顔のリヴ。俺が笑う。完敗だ。
時計の針が十時を回る。
俺は立ち上がって、リビングのメイン照明を落とした。暗闇の中に、テレビの黒い四角が浮かぶ。
見ない。近づかない。
五か月かけて作った、俺たちのルールだ。
寝室へ向かおうとした、そのとき。
ふっと、鼻の奥に鋭い匂いが刺さった。
潮だ。
一瞬だけ、波の湿った匂いが部屋の空気に混じる。
「……え?」
足が止まる。
今日、海には行ってない。コートも洗った。靴も洗った。夕飯の魚の匂いとも、決定的に違う。なのに――確かに、そこに潮がいた。
「ナオキ」
暗闇の中でも、リヴの声は驚くほど落ち着いていた。落ち着かせるために、落ち着いてる声だ。
「いま、ちょっと、ちがう。……しお、きた」
「……お前も感じたか」
「うん。しお。うみの、におい」
リヴはテレビの画面をじっと見ている。俺は反射的に近づきそうになって、足だけ止めた。
近づかない。まず記録。
スマホを開く。指が少し硬い。
21:42
室内で潮の匂い(一瞬)
音なし
テレビには近づかない
打ち終えた途端、息がひとつだけ深くなった。胸の奥で何かがほどける。
匂いはもう消えている。ココアの甘さと、味噌の残り香だけが部屋に戻ってきた。
リヴが歩み寄ってきて、俺の袖を掴む。軽いのに、芯がある掴み方だ。
「ナオキ、こわい?」
嘘はつかない。
「怖い。……でも大丈夫にする。残したから」
「うん。大丈夫、に、する。いっしょ」
俺は息を吐いて、リヴの跳ねた髪を軽く撫でた。
「ココア、ありがとな。戻ったよ」
「よし!」
「お前が言うな」
「言う。よし!」
リヴは満足そうにイルカのマグを抱え直して、ソファに丸くなった。
テレビは黒いままだ。ただの家電のふりをしている。
俺は机に戻って、メモの最後に一行だけ足す。
・帰り道を確保する(戻る場所を失わない)
背後から、リヴが覗き込む。
「それ、なに?」
「秘密……いや、約束の準備だ」
「やくそく! いい!」
リヴが笑う。その笑い声が、部屋の空気をちゃんと「今」に戻してくれる。
潮の匂いはもうしない。
代わりに、ココアの温かさだけが手に残っていた。
俺はその熱を、明日へ繋ぐみたいに、そっと握りしめる。




